触れてしまえば、もう二度と
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杏がいなくなった途端、二人は同時にため息を吐いた。思わず顔を見合わせて笑みが零れる。
「すみません……杏さん、けっこう強引なところがあって」
「いいよ、一杯くらいなら」
「本当ですか? 良かったです」
「おまえ、日本酒好きなんだな」
「日本酒に凝り始めたのは最近で、普段はビールですよ」
どこからどう見てもワインが似合う男なのに、日本酒というところが遠野なのだろうか。矢神の中のイメージとは、いつもかけ離れていた。
遠野が慣れた手つきで日本酒を注いでくれる。自分のグラスにも酒を注ぎ、乾杯と言った後、注がれた日本酒を口に運んだ。
酒が弱いから日本酒なんてほとんど飲まないのだが、そのお酒はすっきりとした味わいですごく飲みやすい。「美味い」という言葉が口から自然に零れた。
そんな矢神の反応に遠野は、はしゃぐような声を上げる。
「ですよね! 前に一度だけ飲んだことがあったんですけど、どこの店にも置いてなくて。手に入りにくいんだそうですよ。矢神さんが気に入ってくれて嬉しいです」
そう言いながら、矢神のグラスに酒をどんどん注いできた。
「オレはもういいよ。おまえが飲みたかったんだろ」
焦る矢神に構わず、遠野は勧めてくる。
「遠慮しないでください。せっかくですから、矢神さんに飲んで欲しいです」
「わかった。ゆっくり飲もうぜ……」
遠野が勧める酒を一度制止させた。
雰囲気で飲んでは危険だということは何度も経験していた。だから、気をつけるようにと何度も自分に言い聞かせる。
遠野の方は、日本酒を好むぐらいだから酒には強いのだろう。本当に美味しそうに飲んでいる。それに釣られて矢神もグラスを口に運んでいた。
「ここにはよく来るのか?」
「一人で飲みたい時はここに来ます。杏さんが話し相手になってくれるので、一人っていうわけでもないんですけど」
「ふーん……」
遠野でも一人で飲みたい時があるのか。
いつもうるさいくらい明るいから、何の悩みもない順風満帆な人生を歩んでいるように見えていた。
上辺だけでは相手がどんな人物なのかはわからない。職場での付き合いがあっても、深くは付き合っていない。彼のことを知った気でいたが、本当は何も知らないのだ。
「そういう場所があるっていいよな」
遠野も杏には気を許して、本当の自分を曝け出せるのかもしれない。
そんな杏との関係が少し気になった。昔からの知り合いと言っていたが、遠野とは年齢が離れている。どこで出会ったのだろう。
服を脱げば男だと知っているということは、ただの知り合いという間柄ではなく、それ相当の仲だということだ。
お互い男性が相手でも大丈夫みたいだから、そういう関係なのだろうか。
頭の中でぐるぐると回っていたが、何となく聞けずにいた。
それよりも、そんなことを気にしている自分に腹が立った。遠野が誰とどうなろうと関係ないのに、なぜかもやもやしている。
矢神は、グラスに並々と注がれた酒を一気に飲み干した。
「矢神クン、いい飲みっぷり!」
言葉を発したのは、料理を持ってきた杏だった。
「ほら、大ちゃん、ぼーっとしてないで注いであげなさいよ」
「あ、はい」
「いや、もう充分なんで……」
「これ食べたら、また飲みたくなるわよ」
その後、杏が何点か料理を作って持ってきてくれたのだが、本人の人柄とはかけ離れたような、どれも日本酒に合う美味しい料理だった。そして杏が言うように、料理だけじゃなく酒も進んでしまうから困りものだ。
一通り料理をテーブルに並べると、杏は客が来ないことをいいことに、遠野の横に座って一緒に酒を飲み始めた。
最初は遠野が杏のグラスに酒を注いでいたが、飲むペースが早いため、「気が利かない」と文句を言って手酌する始末。そのついでに矢神のグラスにも酒を注いで「どんどん飲んで」と勧めるから、飲まないわけにはいかなかった。
だけど、不思議と嫌な感じを受けない。杏は料理だけじゃなく話も上手で、こういう人だからこそ店を続けていられるのかもしれないと思った。
隠れ家的のお店で常連客も多く、重なる時には満席で座れない時もざらだという。ただ新規の客は少ないので、誰も来ない時もあってプラスマイナスなのだが、やっていけないことはない。
そのお店も今年で五年目。杏がずっと一人でやってきた。想像もできない大変な苦労があったはず。
それなのに、そのことをおもしろ可笑しく話すから、矢神は夢中になって聞いていた。
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