触れてしまえば、もう二度と
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今度は遠野の方がずんずんと歩いていく。その後をついて行くと、細い路地裏に入っていった。
日は暮れていたが、まだ遅い時間ではないのに人が全く歩いていない。野良猫の方が多く見かけた。
本当にこんなところに店があるのかと心配になる。
しばらく右に左にと入り組んだ迷路のような細い道を歩いていたら、階段が見えてきた。
「ここを上ったところです」
細くてけっこう急な階段だった。遠野はその階段を長い脚でひょいひょいと駈け上がって行くのだが、矢神は日頃あまり運動をしていないせいかすぐに息が上がる。
やっとの思いで上り切ると、小さな灯りがついた店がひっそりとあった。『BAR杏』と書かれている。
「バーなのか?」
お酒は飲みたくなかったから躊躇してしまう。
「夜の七時までは食事もできるんですよ」
そう言って遠野は、得意げな顔をしながら店の扉を勢いよく開けた。
「こんばんは」
中に入った途端、大きな声で挨拶をした。すると、店主らしき人物が裏からひょっこり顔を出す。
「あら、大ちゃん」
知り合いというだけあって遠野の顔を見るなり、親しそうに名前を呼んだ。
「食事いいですか?」
「いいわよ。今日はカワイイ男の子連れてるじゃない」
遠野の後ろにいた矢神の姿を確認したらしく、その店主はわざわざ店内に出てきてくれる。
年齢は三十代くらいに見えたが、矢神よりも背が高く、モデル並みにスタイルがいい女性だ。華やかな紫色のワンピースドレスがとても似合っている。
「職場の先輩です」
「先輩? じゃあ、先生なの? 生徒かと思っちゃった」
「こんなところに生徒なんて連れて来ません。矢神先生です」
「どうも……」
年相応に見られないのはよくあることだったから、普段はそんなに気にしないのだが、女性からそう思われるのはあまり好ましくなかった。
「アタシは杏《あんず》でーす。大ちゃんの、んーなんだろう?」
首を傾げると、肩くらいまである髪がさらっとなびいた。
「そこで考え込まないでください。昔からの知り合いなんです。いろいろお世話になってて」
遠野の説明を聞いていれば、店主の視線を感じた。観察するように矢神をじっと見ている。
たじろいで半歩後ろに下がると、楽しそうに笑顔を浮かべた。
「ねえ、矢神クンは、恋人いるの?」
「ちょっと、杏さん!」
初対面でいきなりこの質問は、度肝を抜かれた。さすがの遠野も慌てた様子だ。
「大ちゃん、うるさい。矢神クンに聞いてるの」
「いません……」
「そうなの? じゃあ、立候補していい?」
思わぬ申し出に矢神は更に驚くことになり、口がぽっかりと開いたままになる。
「ふふ、かわいい。適当に座ってて。あとで返事聞きにくるから考えておいてね」
店主は笑顔でひらひらと手を振った後、奥へと戻っていった。
その途端、矢神は気が抜けて一気に脱力する。さすが遠野の知り合いだと実感したのだ。
「矢神さん、座りましょう」
店内はこぢんまりとしていて、ほとんどがカウンター席。他に客はいない。
矢神たちは、一つだけあるテーブル席に座った。
メニューはお酒の名前がずらりと並び、小料理が何点かあった。何を頼もうかとメニューを眺めていれば、遠野がこそっと呟くように聞いてきた。
「付き合うんですか?」
「は?」
「杏さんと……」
「まさか、冗談で言ってるんだろ」
「いえ、軽いノリですがあれは本気なんです」
「……そうなんだ」
笑みが零れそうになったのを辛うじて堪えた。
確かに性格はどうかと思うが、あんなにも綺麗な人の恋人候補に選ばれるなんて、まだ捨てたもんじゃないな。
そんな考えを読んだかのように、遠野が突っ込んで聞いてくる。
「タイプですか?」
「まあ、きれいな人だとは思うよ」
当たり障りのない答えで上手く誤魔化したと思った。だが、遠野は何か思い悩むようにしばらく黙ってしまう。
普段、男と一緒にいて会話がなくなったとしても矢神は気にしない。しかし、遠野が静かなのはどうも調子が狂うらしく、話題を一生懸命探していた。
遠野と共通することは、教師で職場が同じということしかなく、たいした話題が見つからない。自分のボキャブラリーの貧困さにがっかりした。
すると、黙っていた遠野が言いにくそうに口を開く。
「矢神さん、たぶん気づいてないと思うんですけど……」
「何がだ?」
「杏さんは、男性です」
一瞬間が開いて、矢神は悲鳴にも近い声を上げる。
「……ええっ?」
「やっぱり女性だと思ってました? オレも最初は勘違いしました。女装しているだけで、服を脱ぐと正真正銘の男なんです」
「脱ぐって……杏っていう名前は?」
「本当の名前は杏に介入の介と書いて、杏介《きょうすけ》っていうんです」
「へえ……」
別に恋人になりたいと思っていたわけではないが、すごく残念な気持ちでいっぱいになる。
あれが男性だというなら、世の女性は驚くのではないだろうか。どうやったらあんなにきれいになれるんだ。肌も白くて柔らかそうだし、胸も偽物なんだろうけど絶対にわからない。
次から何を信じればいいのだろうと、恐ろしくなった。
そうこうしているうちに、店主の杏が裏から出てきた。微笑みながら矢神たちの前に来て、温かいおしぼりを渡してくれる。
男性だと言われた今でも信じられなかった。どこからどう見ても女性にしか見えない。
「矢神クン、考えてくれた?」
女性ならものすごく有難かった。まずはお互いを知るために、デートの一回や二回してもいいと思ったに違いない。
何て答えればいいのかわからなかったが、誤魔化すのも悪いと思い、はっきりと言うことにする。
「えっと……お断り、させていただきます」
申し訳ないというように頭を下げると、杏は少し黙った後、矛先を遠野に向けた。
「あっ! 大ちゃん、アタシが男だって言ったわね!」
「うそついても仕方がないじゃないですか」
「いいじゃない、ちょっとのウソくらい。矢神クン、男はダメなの?」
「え……まあ……」
「ああ、残念。こんなカワイイ子なかなかいないのに〜」
悔しそうな顔をして、しょんぼりとした。その姿は女性そのものだった。
そして、可愛いというのは果たして男性にとって褒め言葉なのか、矢神は少しの間悩んでいた。
「じゃあ、気を取り直して注文を聞くわ。あ、それと、これはアタシの奢りね」
カウンターにあった一つの瓶を持って来て、テーブルの上にどんと置いた。
「杏さん、これは?」
「前に大ちゃんが飲みたいって言ってた幻の日本酒よ。せっかく仕入れたのに全然店に来ないんだもの。やっと飲めるわね」
「あ、オレ、お酒は……」
断わろうと思ったのに、杏は瓶を矢神の方へと近づけながら身を寄せてくる。
「アタシの奢りなんだから、一杯くらいいいでしょ? 車なの?」
「いえ……」
「ならいいじゃない。飲んで、飲んで。アタシも飲むから」
「杏さんが飲みたいだけじゃないですか……」
遠野の言葉に、何が悪いと言わんばかりに両手を腰に当て、胸を張って言う。
「そうよ。食事はどうする? 日本酒に合うもの適当に作ろうか」
「矢神さん、それでもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
ほとんど店主の杏のペースだったから、何を言っても無駄なような気がして素直に従うことを決めた。
「よーし! ちゃっちゃっと作ってくるから、日本酒飲んで待っててね」
気を良くした杏は矢神に向かってウインクをした後、軽やかな足取りで鼻歌交じりに裏へと戻っていった。
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