触れてしまえば、もう二度と

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 いつの間にか時間を忘れて飲んでいた。

 

「そろそろ行きましょうか」



 そう言って立ち上がる遠野に矢神は黙って従う。思考がほとんど停止していた。

 とりあえず支払いをするために財布からお金を出そうとすると、遠野に止められる。



「今日は、オレが払うからいいです」



 そういえば、お詫びだと言われたことをうっすらと思い出す。だけど、何だか納得がいかなかった。



「後輩に奢られたくない」

「いいじゃないですか、お詫びなんですから」

「あら、大ちゃん、矢神クンに何かしたの?」



 教えて、教えて、と面白がる杏の声は、矢神の耳にはほとんど入ってなかった。



「いや、オレが払う。先輩だからな!」

「でも……」

「もういいじゃない。先輩に奢ってもらいなさいよ。アタシはどっちに払ってもらっても変わらないんだから」

「じゃあ、次は絶対オレに奢らせてくださいね、矢神さん」

「ああ、おまえがオレの先輩になったらな」



 言っていることがおかしいのは、もう自分では気づかない。



「気をつけて。矢神クンもまた来てね。一人でも大歓迎よ」

「はい……」



 杏の言葉に何度も頷くが、何に頷いているのかは正直なところわかっていなかった。

 店を出て、薄暗い道を歩いて行く。前を歩く遠野の後ろ姿がぼんやりとしていた。

 身体がふわふわと浮いているようで、楽しい気持ちになってくる。

 飲んでいる時は気づかないのだが、立ち上がって歩き出すとアルコールが回るせいか、かなり酔っているということを自覚した。

 やばいなと思いながら、階段に差し掛かったところで矢神はバランスを崩す。



「うわぁっ!」



 前のめりになり、そのまま落ちていきそうになった。

 だが間一髪で、前を歩いていた遠野にしがみつく。というか、抱き抱えられるような形で危機を乗り越えた。



「びっくりした……矢神さん大丈夫ですか?」

「う、うん……」



 転げ落ちるかもしれないという驚きもあったが、酔っているせいもあって、支えられている状態がすごく楽だった。

 何だろういい匂いがする。香水だろうか。

 遠野の体温が心地良くて、そのまま眠ってしまいそうになった。

 やっぱり飲み過ぎた。いくら楽しいからって酒は良くない。

 軽く頭を振って眠気を追い払い、降ろしてもらおうと遠野から身体を離そうとした。すると、遠野の抱き締める腕に力が込められ、きゅっと締まる。



「矢神さんって軽いですね」



 一瞬で頭が鮮明になった。そして、昼間見た映画のシーンが思い出される。

 若い男が酒を飲まされ、酔って動けないところを抱き抱えられたあげく、そのまま無理やり――というとんでもない内容。

 慌てた矢神は取り乱す。



「は、離せ、離せって!」



 両腕で遠野の身体を押しやり、辛うじて地面についていたつま先をばたばたとさせた。



「矢神さん危ないです。そんなに暴れないでください」



 階段で人を抱えながら立っているのだから、そのまま二人で落ちていってもおかしくない状態だった。

 遠野が腕を解いて足が床についた途端、矢神はその場でふらついてしまう。再び、遠野に腕を掴まれ支えられた。

 咄嗟に掴まれたその手を払い除ければ、パシリと大袈裟な程に乾いた音が辺りに響く。

 遠野は驚いて目を見開いた後、優しく微笑んだ。



「何かされるかと思いましたか? オレが、矢神さんを好きだって言ったから」

「あ、いや……」

「矢神さんの嫌がることはしませんから大丈夫ですよ。安心してください」



 いつもと同じ笑顔で、優しい言い方。



「帰りましょう。ここ暗いですから足元気をつけてくださいね」



 だけど、外灯の灯りしかないうっすらとした光の中で、遠野の傷ついたような表情が一瞬見えた。

 傷つけるつもりはなかったとは言えない。現に何かされるのではないかと考えた。遠野がそんなことをする男じゃないことはわかっているはずなのに。そういう男なら、今日だって一緒にはいない。

 謝るのも何かおかしい。言い訳すればいいのだろうか。何か、何かフォローを。

 酔った頭で一生懸命考えるが、言葉が見つからない。

 矢神は、前を歩く遠野の背を見つめながら、黙って歩くしかなかったのだ。

 
 
 


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