触れてしまえば、もう二度と
3
1ページ/2ページ
「先生、おはようございます」
「おはよう……」
いつもと変わりない朝。生徒たちが笑顔で登校している姿を見ると、普段なら清々しい気持ちになるのだが。
矢神は、職員室に入って自分の席に着くなり、頭を抱えた。
調子が悪い。
最近、寝不足が続いていたから体調を崩していた。
仕事が溜まって眠れないのとは少し違って、嫌な夢を見るから眠るのが恐かったのだ。
教師の中でも矢神は、学校に来るのが早い方だった。職員室には数人の教師しかいない。こんな状態では生徒に示しがつかないと思いつつも、席でぼーっとしてしまう。
今なら寝られそう。目を瞑れば、すぐに意識を失いそうだ。
それでも次々と教師が出勤してくると、きりっと緩みがなくなるのが矢神である。
「おはようございまーす!」
明るく元気な声で、元凶とも言える人物が職員室に入ってきた。派手な色のジャージに目が痛くなる。
思わず、隠れるように身を縮ませた。
その人物とは、一週間前、矢神に好きだと告白をしてきた遠野大稀である。
女を同僚に取られたのを知られたと同時に、愛の告白を受けた。最初は遠野の冗談だと思っていたが、普段と違う彼の様子から本気だというのが感じられた。
矢神は、相手が男という以前に告白をされるというシチュエーションに慣れていなかったため、どう対応していいか咄嗟に判断できなかった。
動揺して口籠っていれば、遠野は抱き締めていた腕を緩めて、身体を離してくれた。そして、遠野は自分の前を歩き出す。
矢神は何が何だかわからなかったが、とりあえず冷静になろうと思った。すると、遠野が振り返って笑顔で言ったのだ。
「気にしないでくださいね」
その後は、何事もなかったように屋台に行き、ラーメンを食べて帰って来た。
気にしないでくださいと言われて、その通りに普通できるものだろうか。気が付けば遠野のことばかり考えている。
しかし、相手の方はというと、普段と何ら変わらない態度だ。意識している矢神の方がおかしく思えた。
そもそも、自分を好きになるのが信じられなかった。
遠野は性格が良いというか、調子よく誰とでも話せるから男女から好かれている。教師や生徒、親からも評判がいい。ルックスにスタイルもいいから、モテないわけがなかった。恋人も選び放題だろう。
やはり冗談だったのか。
最終的にいつも行き着くところはそこだった。
「おはようございます」
気づけば、目の前に遠野が立っていてドキリとする。
「……おはよ」
軽く挨拶をして、視線を俯かせた。意味もなく机の引き出しを開けてみたりして、無駄な動きをしてしまう。
相手が普段通りなんだから、自分も普通でいないといけない。意識するな、と心の中で何度も言い聞かせた。
「相談なんですけど……」
「え、なに?」
唐突に遠野が言い出したものだから、驚いて声が裏返りそうになった。
「生徒からこれをもらったんです」
遠野は、何かのチケットを二枚手にしていた。
「……誘われたのか?」
「いえ、オレが行きたいって言ったら買ってくれて」
「おまえが生徒を誘ったのか!?」
「違いますよ! 人気の映画だって聞いたから個人的に行きたくて、そしたら生徒が代わりにチケットを買ってくれたんです」
「なんだ……びっくりさせるなよ……」
遠野と喋っているとやはり頭が痛くなる。溜め息を吐きながら、こめかみを押さえた。
「で、相談って?」
「これ二枚あるんですけど、知り合いや友達がみんな都合悪くて行く相手がいないんです」
「は? だったら一人で行けばいいだろ」
「映画を一人で見に行くんですか?」
「どうしても見たかったら、オレは一人で行く」
「彼女は……あっ……」
遠野はしまったというような顔をして、口を片手で押さえた。しばらく口を押さえたまま黙っていたが、その動作が余計に傷ついた。
「そんなこといちいちオレに相談するな!」
腹が立ってきつい口調で言えば、一気に元気がなくなる。
「一人は寂しいです……」
その姿は、まるで犬が耳を垂らしてしょんぼりしているように見えた。
「バカか……」
付き合っていられないと授業の準備を始めるが、遠野は引き下がらなかった。
「矢神先生、一緒に行ってくれませんか?」
「なんでオレなんだよ」
そのまま苛立ちをぶつけるように言えば、真剣な表情で身を乗り出してくる。
「一緒に行きたいからです」
「え……?」
「ダメですか?」
この誘いに深い意味があるのか一瞬考えてしまう。
断わっても良かったが、特別な思いで誘っているんだとしたら、断わるのは悪い気がした。
矢神は遠野に特別な感情はない。恋人として付き合うということは、到底考えられないことだ。
そんな矢神の気持ちをわかっていたから、遠野は気にしないでと言ったのだろう。
それなら映画くらい一緒に行ってあげれば、彼の気持ちが報われるのではないか。いわゆる遠野に同情していたのだ。
「……他に行く奴いないのか?」
「はい」
「じゃあ、いいよ。映画は嫌いじゃないから」
「本当ですか?」
ほっとしたように遠野が嬉しそうに笑ったから、釣られて笑みを浮かべそうになる。咳払いをして誤魔化した。
「いつがいいんだ?」
「今週の日曜日でもいいですか?」
「日曜か……夕方でもいいか?」
「大丈夫です。また近くなったら待ち合わせ場所とか決めましょうね」
遠野の言い方のせいか、デートの約束をしているようで嫌だった。だが、喜んでいるから気にしないでおくことにした。
*
Copyright (c) Sept Couleurs All rights reserved.