触れてしまえば、もう二度と

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「久しぶりですよね」



 学校を出て街の方に向かって歩いていれば、遠野が弾む様な声を出した。



「何が?」

「こうやってご飯食べに行くことですよ。前は嘉村先生と三人でよく行ってたのに」



 嘉村の名前が出た途端、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。

 校内では気にしなくなったのだが、プライベートの時間になると気持ちが変わるようだ。

 その話を続けたくなかった矢神は、さり気なく違う話題に持っていくことにする。



「で、何が食べたいんだ?」

「え? オレの好みでいいんですか?」

「オレは何でもいいから、遠野が行きたいところでいいよ」



 遠野はひどく喜んでいるようだったが、たいして店を知っているわけではなかったから、考えるのが面倒でそう言ったのだ。

 いつも三人で行く時は、ほとんど嘉村が決めていたのである。



「じゃあ、ずっと行きたかったところがあるんです。いいですか?」

「どこ?」

「ちょっと場所は離れてるんですが、屋台のラーメン屋があるんです」



 想像していなかった単語が出てきて、思わず聞き返してしまう。



「屋台? ラーメン屋?」

「嫌いですか? ラーメン」

「好きだけど……」

「穴場で人気の店らしいんですよ。なかなか行く機会がなくて」



 矢神は、遠野の顔を見据えた。

 この日本人離れした整った顔で、まさか『屋台のラーメン屋』という言葉が出てくるとは誰も思わないだろう。



「どうしました?」

「いや……遠野と屋台がどうにも結びつかなくて……」

「え!? どうしてですか?」



 まるで意味がわからないというように、遠野はオーバーアクションで驚く。

 鏡を渡して、自分の顔を見ろよと矢神は言いたくなった。

 遠野は更に続けた。



「嘉村先生は、いつもおしゃれなお店に連れてってくれますよね。ああいう落ち着いた場所って嫌いじゃないんですけど、オレには合わなくて」



 一番似合っている人物がそんなことを言うので、さすがに溜め息が漏れた。



「おまえ……変わってるって言われないか?」

「はい、よく言われます」



 けろっとして言う遠野に呆れるしかなかった。



「遠野って、自分のことあんまりわかってないだろ」

「そうですかね」

「充分おしゃれな店が似合うと思うけど。女性とか連れて行ってもしっくりくるだろ?」



 矢神の発言に首を傾げて考えている様子だったが、その後すぐに何かを思い出したかのように笑う。



「こういう性格だから、静かなお店に行ってもオレ自身がうるさいと思うんですよね」

「ああ、確かに」



 もっともらしいことを言うものだから、矢神の口から思わず本音が零れ出た。



「うわあ、ひどいですね、矢神先生」

「自分で言ったんだろうが!」

「そうですね」



 口で言うほど堪えてないらしく、顔は笑ったままだ。

 遠野は矢神の半歩後ろをずっと歩いている。足の長さは確実に遠野の方が長いはずなのに、歩くのが早いだろうかと矢神は心配になった。

 更に、場所もわからないのに何気なく歩いていたから、街から少し外れた裏通りに来ていたことに気づく。

 遠野が行きたい場所なのだから、先を歩けばいいのにと思いつつ、遠野の方を振り返った。



「なあ、その屋台ってこっちの方角でいいのか?」



 ちょうどその時、見たことのある姿が視界に入ってきた。

 一瞬身体が固まり、呼吸の仕方を忘れたかのように息ができなくなった。



「どうかしましたか?」



 矢神の様子に気づいたのか、隣に並んだ遠野が不思議そうに顔を覗き込んできた。



「いや、何でもない……」



 胸にどんよりとした痛みが走った。

 視界から消し去る様に前を向いた矢神は、歩みを速めた。

 あれから何カ月も経っている。心の整理がついていると思っていた。それなのに、締めつけるような苦しみに襲われる。

 何も見なかった。もう終わったことだ。全て忘れてしまおう。

 自分に言い聞かせるように、頭の中で繰り返していれば、遠野の声で現実に引き戻される。



「あれって、嘉村先生ですよね?」



 矢神の視線の先に誰がいたのかを遠野も気づいたようだ。



「そうか……」

「一緒にいるのは彼女さんでしょうか。だから、最近忙しそうにしてたんですね。こっちには気づいてないようだから、やっぱり声掛けない方がいいでしょうか」

「そうだ、な……」



 遠野の方を見向きもせず、矢神はただ前を向いたまま足を進めた。

 気づかれないうちに早く立ち去りたいというその一心で。

 今はまだ、彼らを前にして平常心でいられる自信がなかった。そこまで強い人間にはなれない。

 いつか気持ちが落ち着けば、笑顔で迎えられる日がやってくるのだろうか。

 しばらく黙ったまま歩いていた。すると、先ほどまで後ろを歩いていた遠野の気配がなかった。

 仕方がなく振り返れば、遠野は先ほどの場所で嘉村がいた方を見たまま立ち尽くしていた。

 余程、女と一緒にいた嘉村が気になってるようだ。



「遠野、置いてくぞ!」



 矢神の叫んだ声でやっと我に返ったという感じで、はっとして足早に駆けてきた。

 長い足のせいか、すぐ矢神に追いつく。



「ったく、何してんだよ」

「すみません……」



 少し怒鳴っただけのことだったが、なぜかすごく落ち込んだような表情を見せた。

 そんなに言い方がきつかっただろうか。

 少し気にしながらも、矢神は屋台の場所を確認することにした。



「どうなんだ、こっちで合ってるのか?」

「あの、矢神さん……」

「何だよ」

「オレ、視力はすごくいい方なんです」



 先ほどの嫌な出来事から気持ちがやっと落ち着いてきたと思ったのに、質問に答えない遠野の態度が癇に障った。



「あっそ……今、そんなこと聞いてねーよ」



 苛立ちをぶつければ、遠野はまっすぐな視線で矢神を見据えてくる。

 意味不明な遠野に、怒りを通り越して疲れを感じ始めていた。



「いったい何なんだよ。屋台に行くんじゃないのか?」



 すると、真剣な表情で遠野がはっきり言った。



「嘉村先生と一緒にいた女性、矢神さんの彼女ですよね? オレ、一度しか会ったことないですけど、間違いないと思うんです」



 矢神は言葉を失った。

 普通は、こんな言いにくいことを口にはしないだろう。この遠野という男は、どこまでも正直な奴なのだ。

 矢神は溜め息を吐き、遠野に背を向けて絞り出すように呟いた。



「元、彼女だよ」

「元って……」

「別れたんだよ。今は、嘉村の女だろ」



 強調するかのように、わざと嘉村の名前を出した。その方がわかりやすい。



「え……だって、結婚するとかって言ってましたよね? そのことは嘉村先生も知ってるのに、どうして……」



 結婚のことは遠野に直接言った覚えはなかったが、たぶん、三人で食事に行った時にそういう話題をしたのだろう。

 ここまで情報が筒抜けだと、返って腹をくくれる気がした。



「結婚って言ったって話だけなんだから、別れることもあるだろ。オレより嘉村の方が良かったんだよ」



 なぜこの男に、こんなことをわざわざ説明しないといけないのか。傷をえぐるような自分の言葉に辛くなった。

 だけど、吹っ切れるのにはちょうどいいのかもしれないと感じた。

 心のどこかで望みを捨てきれてないところがあった気がする。あれは夢で実際には起こっていなかったんじゃないかと、不意に現実逃避したくなる。

 それではいつまでたっても気持ちが切り替えられない。自分に真実を突き付けた方がいいのだ。



「矢神さん……」



 遠野の方が今にも泣きそうな声を出すから、呆れてしまう。



「同情するなよ。もうずいぶん前に終わったことなんだから」

「矢神さん……」



 更に名前を呼ばれ、悲しいというよりも、面倒という気持ちの方が強くなってくる。



「あのな、遠……」



 振り返って一言言ってやろうと思った瞬間、矢神の身体が温かいものに包まれる。

 一瞬何が起きたのかわからなかった。

 だが、背中の温もりと自分の身体に回された腕を確認し、遠野が後ろから抱き締めてきたことを知る。



「おい……慰めてるつもりか?」

「だって、矢神さん、泣いてます……」



 何を根拠にそんなことを言うのか。そんな女々しい男だと思われているということに怒り奮闘する。



「誰が泣くか! いいから離せ」



 周囲に人がいないからまだ良かったが、男同士がこんなことをしていたら勘違いされてもおかしくはない。

 腕を振り解こうともがいた。遠野は更に、力を込めて矢神の身体を抱き締めてくる。



「こんな矢神さんを放っておけません」

「ふざけるのもいい加減に……」

「好きです……」



 矢神は自分の耳を疑った。



「は……?」



 咄嗟に身体が固まってしまったが、すぐに聞き間違いだと思いなおした。

 だけど、遠野は縋るように矢神の身体を抱き、耳元に微かな吐息が掛かる。そして、再び遠野が囁いたのだ。



「矢神さんのことが、ずっと好きでした……」



 切なげで、だけど優しく心地良い声が響いた。



「なに、冗談……」



 すぐにいつもの陽気な遠野に戻ると思っていた。それなのに、腕に込める力が矢神をしっかりと守るようで、とても冗談を言っているようには感じなかった。

 いつの間にか、矢神は抵抗するのを止めていた。不思議と嫌悪感がなかったからだ。なぜか安心感さえも与えてくれる。

 先ほどまで肌寒いと感じていた矢神の身体は、この時だけは、熱を持ったように熱くなっていた。




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