触れてしまえば、もう二度と

プロローグ

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 しかし、悪いことは続くものだ。

 時は二月も半ば過ぎ、卒業間近だった矢神のクラスの生徒の一人が傷害事件を起こした。

 その生徒は、学年でトップの成績を持ち、クラスでリーダーシップが取れる人気者で、矢神も一目置く存在だった。

 早くに推薦で大学も決まり、何も問題がないように思えていた矢先のことだ。

 警察に呼ばれた矢神は、こんなことをしたのには何か理由があるのだと思い、その生徒と対面した。

 警察の話では反省している様子とのことだったが、矢神の姿を確認した途端、生徒の表情が険しいものに変わった。

 椅子に座っている生徒と同じ目線になるよう、矢神はしゃがんで優しく声を掛ける。



「いったいどうしたんだ? おまえらしくないな」

「……大学になんか行きたくない」

「え?」



 今回の理由を尋ねているのに、違う返答が返ってきて矢神は少し戸惑った。



「何を言ってるんだ?」

「僕は、大学に行きたくないんだ! 音楽でメシを食っていきたい。それなのに、あーやが……先生が、無理やり大学を勧めたんじゃないか!」



 生徒は、矢神に詰め寄る形で泣き叫ぶような声を上げた。

 落ち着かせるために生徒の両腕を優しく掴めば、崩れ落ちるように矢神の胸に顔を埋め、身体を震わせて泣き出したのだ。

 その生徒が言うように、大学を勧めたのは担任である矢神だった。

 それはその生徒のためだと思って勧めたことだったし、両親にも説得を頼まれていたからである。

 もちろん、生徒自身も大学に進むことを望んでいると思っていた。矢神が大学を勧めた時も彼は、「頑張ります」と笑顔で答えてくれたからだ。

 しかし、それは、両親や矢神を安心させるための偽りの笑顔だったのかもしれない。

 本当は、彼の中では違う目標、誰にも言えない夢があった。それをずっと押し殺していたのが、今になって爆発してしまったのだ。

 大学に進むことが正しい道だと単純に思っていた。どうしてもっと彼の話を聞いてあげられなかったのだろう。

 何も気づけなかった自分自身に、矢神は失望するのだった。

 更に状況は悪化した。

 その生徒の両親に、息子が傷害事件を起こしたのは、全て担任である矢神の責任だと責められることになった。

 癖のある両親ではあったが、以前から頼りなかっただの、責任を取れだの、ここぞとばかりに言いたい放題。

 矢神は黙って受け止めるしかなかった。

 それから両親との話し合いは、しばらく続いた。







 その後、学校側は矢神に非はないと判断し、何も処分を下さなかったのである。

 ただ、傷害を起こした生徒は退学処分となってしまい、矢神は自分のせいだとひどく落ち込むことになった。

 生徒の気持ちを誰よりもわかっているつもりだった。だが、何一つ理解していなかった自分の愚かさにショックを隠しきれないでいた。

 こんな時、唯一弱みを見せられる相手は同僚の嘉村だけだ。

 話を聞いてもらいたい。助言が欲しい。だけど、今は躊躇われる。

 付き合っていた彼女を取られたあげく、その相手に弱音を吐くなんてことができるわけがなかった。矢神にもプライドはある。

 この気持ちをどうやって回復すればいいのかわからず、途方に暮れる。

 自分の机に両手をついた矢神は、がっくりと頭を下げて溜め息を吐いた。

 すると、突然背後から声を掛けられる。



「矢神先生……大丈夫ですか?」



 誰もいないと思っていたから、思わずびくりと身体が震えた。

 振り返れば、そこには体育教師である遠野大稀《とおのだいき》がいた。

 小柄である一六七センチの矢神より十センチ以上も高い身長の遠野は、手足が長く、母親が外国人というだけあって整った顔立ちをしていた。

 校内ではいつも長い金髪を一つにまとめ、その日本人離れした姿は、モデルと間違えられてもおかしくなかった。

 ただ、ジャージ姿でいることが多いので、体育教師にしか見えないのである。



「ああ、大丈夫だよ」



 投げやりにも聞こえる言い方で矢神は答えた。そしてすぐに遠野から視線を外し、帰る準備を始める。



「でも、疲れた顔してます」

「元からこういう顔だよ……」



 普段は、どんな時も明るく陽気な遠野なのだが、矢神の様子を気遣ってか妙におとなしい。

 だが、四つ下の後輩に、今の状態の自分は見られたくなかった。

 学校から処分が下されなかったとしても、自分の生徒が退学処分になったことは変わらないのだから。



「矢神先生のせいじゃないと思います。生徒と充分に向き合ってました」



 悪気はないのだろうけれど、相手が触れられたくないことを気にせず口にするのも遠野の特徴ではあった。

 矢神の場合は、相手のことをいろいろ考え過ぎて、結局何も声をかけることができないことが多い。全くの正反対のタイプなのだ。



「本当に、向き合っていただろうか……」



 考えれば考えるほど、生徒の為と言いつつ、ただ業務としてこなしていただけのようにも思えた。

 信頼関係なんて何もなかった。ただの自己満足。うわべだけの関係だったのではないだろうか。

 自分の無力さに悔しくなる。思い出すこと全てが苦痛に変わり、その重みに耐えきれなくなりそうだった。

 突如遠野が、和ませるかのように明るい声を出す。



「あの、良かったらこれから食事に行きませんか?」



 顔を見上げれば、遠野は優しく微笑んでいる。

 なぜか、見慣れているはずのその男の顔がとてもきれいだなと感じた。



「矢神先生?」

「ああ、悪い。一人になりたいんだ……」



 そう告げれば、遠野はしゅんと落ち込む様な素振りを見せた。

 だけど、今の矢神に気遣う余裕はなかった。



「お疲れ様……」



 そのまま矢神は、学校を後にした。

 辺りは既に暗くなっていて、気温もすっかり下がり、真っ白い息が口から吐き出される。



「さむっ……」



 矢神は、首から下げていたマフラーをしっかりと巻きなおした。

 嘉村と遠野とは年齢が近いということもあり、仕事の帰りに三人で食事に行くことがあった。

 彼女との一件以来、嘉村とそういう付き合いがなくなったから、自然と遠野とも行くことがなくなっていた。

 食事の誘いは、彼なりの精一杯の励ましなのはすごく感じていたが、矢神にとっては、遠野の人懐こい性格が少し苦手なところがあった。

 いつもなら付き合うこともできただろう。

 今の精神状態では、一緒にいられる自信がなかった。

 優しい遠野に当たり散らしてもおかしくない。だから、断わったのだ。




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