触れてしまえば、もう二度と

プロローグ

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 その後、彼女の方から連絡が入り、二人で会うことになった。

 矢神は、たった一度の過ちなら許してもいいのではないかと考えていた。

 今までこんなに長く付き合った相手はいなく、将来のことを考えたのも彼女が初めてだった。それほどまでに、彼女のことを想っていたのだ。

 だが、話を聞けば、嘉村と関係を持ったのは半年も前からだと言う。その間ずっと、彼女と嘉村は、矢神を裏切り続けていたということだ。

 そして、彼女が続ける言葉に愕然とする。

 

「あーやに会えなくてずっと寂しかった。彼とは浮気じゃないの……本気なの、ごめんなさい」



 仕事とはいえ、彼女が何も言わなかったのをいいことに、放ったらかしにしていたのは矢神の方だった。

 支えられていたのは自分だけで、彼女の支えにはなっていなかった。離れていても心が繋がっているなんてことは、現実にはなかったのである。

 何度も謝り、涙を見せる彼女を責める気にはなれなかった。ただ悔しくて辛くて、自業自得なのだと自分に言い聞かせるしかなかったのだ。







「これ、矢神先生のですよね? 印刷したまま放置されてました」



 テスト問題を印刷したまま忘れていた矢神のところに、嘉村が親切に持ってきてくれる。

 あれから嘉村とは、何事もなかったように接していた。

 お互いあのことには一切触れず、業務だけをこなして過ごしていたのだ。

 だが、仕事だと割り切っていても、平然と話しかけてくる嘉村が時には苛立ちを覚えることもあった。

 礼も言わずに無言で用紙を受け取れば、即座に間違いを指摘してくる。



「五問目と六問目、同じ問題です」



 頼んだわけでもないのに、勝手にチェックされたことに腹が立った。

 しかし、用紙を確認すると、確かに五問目と六問目が全く同じ問題になっている。その他にも間違いが多く、いったい自分は何を作っていたのかと問い質したくなった。

 溜め息を吐きながら再びパソコンに向かうと、自分の席に着いた嘉村が静かなトーンで呟くように言う。



「矢神先生、最近ミスが多いですよね。気をつけてください」



 ――誰のせいだと思っているんだ。



 叫びたい気持ちを押さえつつ、嘉村の発言は無視して、テスト問題を作るのに専念した。

 放課後のせいか、職員室には矢神と嘉村の二人しかいなかった。

 遠くから生徒の楽しそうな声は聞こえていたが、二人の間には沈黙がひたすら流れ、その空間がとても嫌な雰囲気だと矢神は感じていた。

 嘉村がどう思っているのかはわからなかったが、矢神にとっては、彼と一緒にいることが苦痛で仕方がなかった。

 同じ職場なのだから、避けるといっても限度がある。嫌でも話をしなきゃいけない時は訪れる。

 矢神は真面目な人間だから、仕事に支障がきたすのはどうにも許せなかった。ましてや生徒にまでこの影響が及んでも困る。

 自分の弱さを知っていたから、この状況を続けていくのは無理があると思っていた。

 どうすべきなのかは、矢神自身が一番理解しているのだ。

 作業を一端止めた矢神は、思いきってずっと胸にあったことを口にした。



「嘉村が本気なら、それでいいよ」



 校内で、相手を呼び捨てにすることはほとんどなかった。

 あえて普段の呼び方にしたのは、プライベートのことだからだ。

 それは、負け惜しみにも聞こえる言葉だったかもしれないが、矢神の本心だった。

 彼女のことは大切だったが、それと同じく同僚の嘉村のことも大切に思っていた。

 聞こえていないのか、意味がわからなかったのか、嘉村は何も答えなかった。

 だが、それでも矢神は、自分の気持ちに一区切りをつけたのである。




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