触れてしまえば、もう二度と
第一章 <7>
悩みを聞いているうちに、いつの間にか矢神の家に後輩が同居することになっていた。
そして休日のこの日、その人物が引っ越してくるのだ。
荷物だけは先に届いていたので部屋に運んでもらい、その後は本人が来るのを待つ。
約束の時間よりだいぶ遅れて、チャイムが鳴った。
「遅い!」
無造作に玄関の扉を開けた矢神は、そこにいるのが遠野だと確信して、少しキツイ口調で言った。遠野が困った顔をして、頭を掻きながら答える。
「すみません。道路が混んでて……」
「連絡ぐらい寄こせ」
はい、と返事をして誤魔化すように笑い、遠野は玄関の外に目を向けて言った。
「あの、矢神さんの車の横にバイク停めてきたんですけど、いいんですよね?」
「許可もらったから大丈夫だよ。それよりも突っ立てないで入れば」
珍しく遠慮がちに自分から動こうとしないので、遠野を部屋に入るよう促した。
「お邪魔します」
部屋の中を一通り案内しようとしたが、矢神はあることを思い出し、立ち止まって遠野の方を振り返った。
「オレ言い忘れたんだけど……おまえ、アレルギーとかないよな?」
「アレルギー?」
突然の問いだったせいか、遠野は何のことかと不思議そうに首を傾げた。
「アレルギーだよ! あるのか、ないのか!」
「えっと……これといってないですけど……」
「じゃあ、大丈夫か」
一人で納得していると、気になったらしく、遠野の質問攻めに合う。
「矢神さん、アレルギーあるんですか? 辛いですよね。何の食べ物がダメなんですか? あ、もしかして花粉とか? それともハウスダスト?」
的外れな問いかけに、なおさら言い難くなった。だが、これから同居するのだから隠しておけるわけもない。
「矢神さん?」
すぐに答えないから、今度は矢神の名前を何度も呼んできた。仕方がないと諦めた矢神は、恐る恐る言葉にしてみる。
「……オレ、猫飼ってるんだ」
「猫ですか?」
視線を感じたようで、遠野が奥の部屋の方を振り向いた。そこには、ドアの隙間からこちらを見ている真っ白な猫の姿がある。
「わあ! かわいいですね! オレ、猫好きですよ」
「そう……」
普通の反応で、矢神は少しほっとする。
以前、猫を飼っていることを付き合っている彼女に伝えたところ、意外だと笑われたことが矢神の心のダメージになっていた。それ以来、猫を飼っていることは誰にも言っていない。
「名前はなんて言うんですか?」
「……ペルシャ」
「ああ、ペルシャってすごく毛が長いから手入れ大変ですね。それで猫の名前は?」
「……だから、ペルシャだって言ってんだろ」
「ペルシャ? それって猫の種類の名前ですよね?」
「何だよ、オレが飼い主なんだからどんな名前つけようが勝手だろ! ペルシャ猫だからペルシャで悪いか!」
いろいろ突っ込まれるのが面倒で強気に出れば、遠野は何も言い返さなくなる。
「……悪くないです」
「ペルとかペルにゃーとか、その時によって呼び方が変わるんだよ」
「可愛いですね」
「そうだろ」
自分の意見と一致して嬉しくなった矢神は、大きく頷いた。
「いえ、矢神さんがです」
しかし、すぐに違う答えが返ってきて愕然とする。
「おまえ、感覚がおかしいよ」
「そうですか? おいで、ペルシャ」
遠野は猫の目線になるようにしゃがんで、猫に話しかけた。すると、遠野の方を見ていた猫が急にぷいっと横を向き、部屋の中に入ってしまった。人間でいえば、かなり感じが悪い態度だ。
「あれ、おかしいな。オレ、動物に好かれる方なのに」
首を傾げた遠野が、少し残念そうな声を出した。
「嫌われてやんの」
遠野と猫のやり取りが妙に面白くてツボに入った矢神は、お腹を抱えて可笑しそうに笑った。
「そんなに笑わなくても……」
普段学校では、あまりこんな姿を見せない矢神だが、自分の家だということで気が緩んでいたのだろう。
「はぁ、腹痛い。おまえでも嫌われることあるんだな」
「飼い主に似るって本当ですよね」
「何だそれ」
少し不貞腐れたように言った遠野の言葉の意味はわからなかった。
「それにしても広い部屋ですね。2LDKですか? きちんと片付いているし、ゴミとか汚れとかほとんどないですよ。どうしよう、オレ、すぐ汚しちゃいそうです。いつもこんなにきれいにしてるんですか?」
トイレからバスルーム、キッチンやリビングなど一通り眺めながら、遠野がはしゃぐような声を上げた。
矢神は普段から部屋を散らかす方ではないが、ここまで大袈裟な程に言われると居たたまれなくなる。
「おまえが来るから掃除して、ちょっと片付けただけだよ。きれいに見えるのは新しいからだろ」
この部屋を契約したのは一年前。気に入ったのは、前の彼女だった。
デートの帰りにたまたま冷やかしで寄っただけだったのに、彼女はかなり乗り気で矢神は内心焦った。一人で住むには広すぎるし、毎月の家賃だって払えるかどうか不安だった。
だけど、「こんなキッチンだったら毎日ごはん作りたい」なんて可愛く言うもんだから、思わず契約してしまったのだ。
将来一緒に住めばいいとかノンキなことを考えていたあの頃の自分を罵倒したい。
矢神はそう本気で思っていた。
別れたと同時に解約しても良かったが、賃貸契約期間は二年。あと一年の我慢だった。
「遠野の部屋は左側な。荷物運んであるから、好きに使っていいよ」
「ありがとうございます」
自分の部屋を見るなり、遠野はまた高らかな声を上げた。
「こんな広い部屋を貸していただけるんですか?」
どれだけ狭い部屋に住んでいたのだろうかと不安になった。
そして部屋に積まれたダンボールの山に、自分のことじゃないのにため息が出そうになる。
「荷物片付けるの手伝おうか」
「いいんですか? お願いします」
二人でダンボールの箱を次々と開けて行き、中のものを出していく。
「ベッドは置くのか? 狭くなるかもな」
「あ、オレ、布団派です」
「あっそ」
今までの経験上予想はしていたが、ここまで日本男児だと素晴らしく思えてくる。
あとは何だろう。まさかフンドシを愛用しているとかだろうか。
思わず想像して吹き出しそうになった。
「どうかしました?」
おかしな想像しているのを危なく気づかれそうになり、慌てて話を逸らす。
「いや、おまえ、荷物少ないなと思って。オレが言ったから減らしてきたのか?」
「元々少ないんです。家具とかは寮に備え付けてあったのでそれを使ってました」
「ジャージが一番多いんじゃないか。それにしても派手だな。脚、長っ!」
遠野のジャージを自分の身体に合わせてみると、その大きさがよくわかる。羨ましい限りだった。
「おまえ、身長どのくらいあるんだ?」
「一八〇くらいでしょうか。最近また伸びたんですよね」
「そうなんだ……」
自分で聞いておいて軽く凹みそうになる。
「矢神さんはどのくらいですか?」
「オレに身長を聞くな! 最近の生徒はデカイ奴ばかりだからホント嫌になるよ」
遠野の大きなジャージを眺めながら、矢神は大きなため息を吐いた。
既に成長が止まってしまったからどうにもならないのだが、せめて一七〇は欲しかったと暗い気持ちになってしまう。
「矢神さんってバランスがいいですよ」
気遣いなのか、遠野がそんなことを言い出す。
「どこがだよ」
「オレは手足が長いから気持ち悪いです」
矢神に見せるように遠野は両腕を水平に伸ばした。気持ち悪いとは思わないが、両腕を伸ばしたせいかいつもより身体が大きく見える。
「モデルみたいだって言われるだろ?」
皆からそう思われているだろうから言ってみただけだったが、矢神のセリフに遠野の表情がぱっと明るくなった。かなり嬉しそうだ。
「矢神さんに褒められると照れますね」
「……褒めてないけど」
自己流に解釈する遠野のポジティブ脳に呆れてしまう。だが、このくらいポジティブだと人生楽しいだろうなあ、と何本ものジャージをダンボールから出しながら矢神はぼんやりと考えていた。
「そうだ。矢神さんにプレゼントがあるんですよ」
「え、マジで?」
遠野のプレゼントという言葉に嬉しくなり、弾んだ声を上げてしまった。
「はい、これからお世話になるので。よろしくお願いします」
遠野から手渡されたそれは、キレイな包み紙に包まれ、真っ赤なリボンまでもがついている。
「何か気を遣わせて悪かったな。開けてもいいか?」
「どうぞ」
微笑む遠野に釣られて矢神も笑みが零れた。
せっかくもらったプレゼントだったから、包み紙が破れないように慎重に開いていく。中のものを取り出して広げると、それはパジャマだった。
「水玉……?」
「違います、マカロンです。可愛いですよね。オレとおそろいですよ」
遠野が自分の分のパジャマを広げた。たった今、矢神がもらったパジャマと色違いのマカロン柄のパジャマである。遠野は白地、矢神のは紫でかなり派手だ。
「はあ……」
思わずお礼を言うのも忘れるぐらい、そのパジャマから目が離せなくなる。
「あと、マグカップや茶碗も同じ柄があったのでペアで買ってきました」
「わざわざ買ってこなくても良かったのに。カップとかはオレの家にあるんだぞ。金を使うな」
「そうなんですけど、何か買い物してたら嬉しくなっちゃって」
「そんなんじゃ金貯まらないだろ。極力、オレの家のものを使え」
「楽しいですよね、同棲って」
矢神の話を流すように遠野がさらっと言ったから、重要な部分を聞き逃しそうになった。
「……今、何て?」
「え? 同棲って楽しいなあって」
とびっきりの笑顔で本当に嬉しそうな声で言った。矢神は思わずその場で立ち上がり、遠野を指差して叫ぶ。
「おまっ……、同棲じゃねえ! 同居だ、おまえは居候だよ!」
「たいして変わらないじゃないですか」
矢神が言った意味を理解してないようで、遠野は無邪気に笑った。
「変わるよ! 全く違うだろ! 他でおかしなこと言うなよ!」
「わかりました。同棲は内緒ですね」
「内緒じゃない! いや、同棲じゃ……ああ、もういいよ……」
矢神の言葉にぽかんとしている姿を見て、何を言っても無駄だということに気づく。
遠野の発言にダメージを食らい、フラフラになりながら矢神は部屋を後にした。
今の状況は、遠野からすれば同棲になるのだろう。改めて遠野が自分のことを好きだということを自覚する。
いくら問題を起こすかもしれないからといって、学校のため、生徒のために、自ら犠牲にならなくても良かったのではないだろうか。
誰から頼まれたわけでもない。何が起こっても仕方がないことだ。
ふと、この先のことを想像して背筋が寒くなった。今更、出て行けとも言えるわけがない。
「オレ、選択間違えたかもしれない……」
矢神が廊下で項垂れていると、足元で猫のペルシャが励ますように一鳴きしたのだった。
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