触れてしまえば、もう二度と
第一章 <8>
矢神はある物音で目が覚めた。眠りが浅いので少しのことで起きてしまうのだ。
猫がいたずらしているのかと思ったが、昨日から遠野が同居していることを寝ぼけた頭でぼんやり思い出す。
昨夜は、引っ越しの片づけが終わった後、外で軽く食事をし、「適当に使っていいから」と言ってさっさと部屋に籠ってしまった。
仕事が溜まっていたというのもあるが、家で二人きり、何を話せばいいのかもわからず、一緒にいるのが気まずかったのだ。初日からこんな状態では先が思いやられるだろう。
サイドテーブルの上の目覚まし時計に目をやれば、時刻はまだ五時を回っていなかった。
「あいつ、随分早いな……」
慣れない家で何か困っているのかもしれない。
咄嗟にそう判断した矢神は、眠たい目を擦りながら起き上がり、自分の部屋を出た。
廊下にいた猫のペルシャが、ご飯を催促するように鳴きながら矢神の脚に絡みついてくる。
リビングには明かりが点いていた。ペルシャを抱き寄せドアを開ければ、キッチンに遠野が立っていた。
「矢神さん、おはようございます。起こしちゃいましたか?」
「おはよ……っていうか何してんだ?」
遠野はエプロン姿だったが、妙に似合っていて全く違和感がなかった。
「朝食の準備を、矢神さん食べますよね?」
「食べるけど、冷蔵庫に何もなかっただろ」
「近くのコンビニでいろいろ買ってきちゃいました。お米だけ勝手に使わせてもらったんですけど」
ペルシャにご飯をやりながら遠野の周りを見ると、買ってきたものが入った袋が何個か置かれている。
「わざわざ買ってきたんだ……」
いったい何時から起きて準備をしていたのだろう。それとも、昨夜矢神が部屋に籠った後に、買いに出掛けたということも考えられる。
「オレ、これくらいしかできないので」
遠野は申し訳なさそうに少し笑った。
最初、彼は家賃を半分払うと言ってきたのだが、それでは金が貯まらないから意味がないと断わったのだ。
そしたら、今にも泣きそうな困った顔をして、
「オレは矢神さんに何をすればいいんですか?」
と言うもんだから、
「余計なことはするな! 早く金を貯めてここから出て行くことだけを考えろ!」
と怒鳴ったのだった。
余っている部屋を貸しているだけなのだ。金が欲しいわけではない。
だからたぶん、遠野はない頭で考え、部屋を借りているお返しに朝食を作ることを考えたのだろう。
それにしても、遠野が料理をするとは思わなかった。
全くイメージしていなかった矢神は、半ば驚いていた。
面倒だから買ってきたものを食べる。そんな大雑把な感じなのかと勝手に想像していた。現に矢神はそのタイプなのだ。
「簡単なものですがどうぞ」
矢神が支度を終えた頃には、テーブルの上に美味しそうな匂いが漂う朝食が並んでいた。
「うん……」
遠野と向かい合って座り、朝食を囲む。何かおかしな感じがしたが、料理を目の前にしたら、そんなことはどうでも良くなった。
ご飯に味噌汁、焼き魚に冷や奴、普通の和食だ。こういう食事をしたのはいつ以来だろう。
いただきます、と言った後、無言で食べていれば、遠野がじっと矢神を観察するように見つめていた。
何だろうと不思議だったが、こういう場合、感想を言うべきではないかと頭に浮かんだ。
「ああ、えっと、美味いよ」
「そうですか、良かったです」
矢神のその言葉を聞いて安心したのか、遠野も料理に箸を付け始めた。
「今までも自炊してたのか?」
「寮では食事は出たんですけど、休日だけは自分で作って食べてました」
「すごいな……」
感心する矢神を見て、遠野は不思議そうに首を傾げた。
「矢神さんは自炊してないんですか?」
「料理は全然しないよ。面倒だし」
「じゃあ、食事はどうしてたんですか?」
「外食、って言っても金かかるから仕事後に遠野たちと行くくらいかな。あとはほとんどコンビニ。朝食は、ヨーグルトとかバナナ食べたりしてた」
「そうなんですね。ごめんなさい、勝手に朝食作っちゃって」
急に申し訳ないというようにしょんぼりし始める。矢神は慌てた。
「いや、あれば食べるよ。オレが作るの面倒なだけだから。あ、でも、無理して作らなくていいぞ」
「オレは朝食はガッツリ食べる方なので、これからも作ります。よかったら矢神さんも食べてくださいね」
「わかった。っと、あんまりのんびりしてると時間なくなるな」
「もう出ないとまずいですか?」
一緒になって焦って立ち上がる遠野を矢神は制止させた。
「オレは早く行くけど、おまえは合わせなくていいぞ。もう少し遅くても十分間に合うからな!」
念を押すように強く言えば、遠野はきょとんとして、はいと返事をした。
矢神はいつも余裕がありすぎるくらいの時間に家を出ていた。だからそれに合わせて一緒に出るのは悪いと思った。だが、一番の理由は、これから毎朝一緒に通勤するのは避けたいということだった。
嫌というわけなのではない。職場でも家でも共に過ごすのだから、少しくらい一人の時間が欲しいと考えたのだ。
「じゃあ、先に行くな」
キッチンで後片付けしている遠野に、悪いと思いながら声をかけて玄関に向かった。すると、ぱたぱたと矢神の後を追って遠野が駈けてくる。
「これ持っててください」
差し出された布に包まれたものは、どこからどう見ても弁当箱にしか思えない。
「あの……これは」
「お昼のお弁当です。一人分も二人分作るのも変わらないので矢神さんの分も作りました」
「そうなんだ……」
「矢神さん、お昼はいつも菓子パンとかしか食べてないから」
そんなところまで見られていたことに恥ずかしくなる。
ありがとうと言うべきなのか、嬉しいような困ったような複雑な思いで矢神は遠野から弁当を受け取った。
「行ってくる」
再度そう言って玄関を出ようとしたら、
「矢神さん、忘れ物です」
と、遠野が言い出した。咄嗟にポケットの携帯電話と鍵を確認するが持っている。
「えっ、何?」
振り返れば、遠野は無邪気に両手を広げた。
「いってらっしゃいのちゅーです」
一瞬何のことを言っているのかわからなくて呆気に取られたが、目を瞑って顔を突き出す遠野を見てすぐに理解した。
「ば、バカかっ!」
思いっきり心の底から言葉をぶつければ、遠野は面白いというように声を出して笑う。
「冗談ですよ。いってらっしゃい」
手を振る遠野を睨みつけて矢神は玄関を出た。
朝食と昼の弁当を作ってもらい、キスでいってらっしゃいなんて、まるで新婚夫婦だ。どこからどう見ても幸せな図だろう。相手が男でなければ。
遠野は矢神を好きなのだ。冗談と言っていたキスも本気なのかもしれない。
このついでというような感じの弁当も、わざわざ矢神のために作ったのではないだろうか。
「オレ、弁当箱持ってなかったよな……これも買ったのか……」
パジャマと同じマカロン柄の布で包まれている。矢神はその弁当箱を持ち上げじっと見つめた。
自分には相手への気持ちがない。それなのに、愛情たっぷりのこの弁当を受け取ってしまった。これは正しいことなのか。
矢神の中に余計な悩みが増える。
「朝から疲れる……学校でも会うんだよな」
ため息を吐きながら駅に向かう矢神の足取りは、一気に重くなった。
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