触れてしまえば、もう二度と

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  第一章 <6>  

「今日も一日、何とか乗り越えた……」
 矢神は辺りを見渡しながら、こそこそと隠れるように校内の廊下を歩いていた。
 あれから遠野を避けている。どんな顔をして話せばいいのか、わからなくなっていた。
 告白された直後よりも、その状況は悪化している。
 遠野が普段通りでいればいるほど、矢神の方が意識してしまうからだ。気にしないというのは、端から無理だったのだ。
 今では一番仲が良かった嘉村だけじゃなく、遠野とも気まずくなり、あまりの居心地の悪さに職場を変えた方がいいんじゃないかと本気で考えるようになっていた。
 心機一転すれば、全てが上手くいくような気がしていたのだ。
 それは甘い考えだということはわかっていたが、思うようにいかないこの状況も、自分のどんよりとした暗い気持ちもどうにかしたかった。
 やっと職員室の前まで辿り着くと、派手なジャージが目に入ってくる。
「やばい、遠野だ……」
 慌てて回れ右しようかと思ったその時、聞き捨てならない言葉を耳にした。
「大ちゃん、さよなら」
「さよなら、また明日」
 振り返れば、遠野は柔らかい笑顔を浮かべたまま、帰っていく生徒に手を振っていた。
 矢神は、さっきまで避けていた遠野の元に自ら歩み寄った。
「遠野……先生」
「あ、矢神先生、どうしました?」
「どうしました、じゃない! 今、生徒に大ちゃんって呼ばれてなかったか?」
「はい。生徒が二年になってからそう呼ばれることが多くなりました」
 少しはにかみながら遠野は答える。
「なぜ、注意しないんだ!」
「え? フレンドリーでいいかなって。矢神先生もあーやって生徒に呼ばれてますよね?」
「他でどう呼んでるか知らないが、オレの前ではそんな風には呼ばせねーよ!」
「そうなんですか? あーやって可愛いのに。オレも呼びたいです」
「そういう問題じゃない! なめられてるってわからないのか?」
「なめられてますかね……」
「そうだろ! 教師が生徒を導くんだ。フレンドリーじゃダメなんだよ。目上の人にはきちんと……」
 そこまで言って、矢神は急に黙ってしまった。不思議そうに遠野が顔を覗き込んでくる。
「矢神先生?」
「いや……オレがここまで言うことじゃないな。遠野先生のやり方があるだろうし……」
 矢神は、自分のやり方は間違っていないとは思っている。だけど、それが正しいかどうかというのはわからないのだ。
 遠野の言うように生徒と友達感覚でいたら、生徒の気持ちをもっと理解できたのかもしれない。
 ある一人の生徒を思い浮かべた。卒業させることができなかった生徒。未だに悔やんでも悔やみきれない。
 担任が遠野みたいだったら、あの生徒は自分の将来の夢を話してくれただろうか。
 長年教師をしている人からは、生徒が退学することはよくあることだから気にするな、と言われたこともあった。それでも矢神は、誰一人退学させたくなかったのだ。
 黙ったまま職員室に入っていく矢神に、遠野は足早に近づく。
「矢神先生の言うとおりですよね。教師をあだ名で呼ぶのは良くないかもしれません」
「……そうとも言い切れないよな」
 様子がおかしいと感じたのか、遠野は気を遣うように話題を変えてきた。
「矢神先生、今日も残業ですか?」
「うーん、今日は家に帰るかな。何か疲れたから……」
「じゃあ、オレも家に……うわあああああ」
 矢神が両手を上げて背筋を伸ばしている横で、突然頭を抱えて遠野が大袈裟に叫んだ。
「何だよ、いったい……」
「オレ、もう少しで家がなくなるんです」
「は? その冗談つまんねーよ」
 遠野のふざけた冗談だと思った矢神は、さらっと流した。
「冗談じゃありません。オレの住んでる寮が取り壊しになるんですよ」
「そういえば、何かお知らせ回ってきてたな。あれ? おまえ、寮に住んでるんだっけ?」
「そうです……」
 がっくりと肩を落として落ち込んだ様子。確かに自分の住んでいる家がなくなるというのは、ショックなことだろう。
 何とか励ますように矢神は言葉にした。
「じゃあ、この機会に引っ越せばいいじゃねえか。あそこ古いだろ」
「古くても家賃掛からないんですよ! それに、引越し費用なんてありません」
「家賃くらい払えるだろ。引越し費用だって、貯金ないのか?」
「貯金はありますが……」
「じゃあ、いいじゃねえか」
 何も問題ないと感じた矢神は、自分の席に着こうとすると、遠野に肩を掴まれ宣言される。
「ダメです! オレは、将来自分の家を持つ夢があるんです。そのための貯金なんですから!」
「そんなの知らねーよ。仕方がないだろ、取り壊しになるんだから。あの寮ってあんまり人住んでないって話じゃないか」
「オレと、寮の管理人のおばあちゃんだけです」
「あっそ……」
 それは、取り壊しになるなと矢神は心の中で思ったが、あえて口にはしなかった。
「しかも、今週中に出てけって言うんですよ。ひどいと思いませんか?」
「おい、その寮のお知らせが回って来たのって、確か何カ月も前の話だぞ?」
「あれ、そうでしたか?」
 頭を掻きながらけろっとした顔で遠野は言った。
 本当にいい加減な奴だと矢神はため息を吐くしかなかった。
 そして、更に呆れるような発言を続けたのだ。
「ネットカフェに住もうかな……」
「なっ……おまえバカか! そんなところ生徒に見られたらどうするんだよ!」
「穴場があるんですよ」
「そんなのは関係ないだろ!」
「だって、貯金使いたくないんですもの。けっこう居心地がいいらしいですよ」
「どこの情報だ! 教師がそんなことするな!」
「大丈夫ですって」
 何も心配していないようで、遠野はへらへらと笑う。
「大丈夫なわけないだろ!」
「じゃあ、学校からもっと離れたところの……」
「おまえは本当にバカだなっ!」
「そんな、バカバカ言わないでください。わかってますから」
 強く言いすぎてしまったのか、遠野は再び落ち込むように俯いてしまった。
 矢神は少しやわらかい口調で言いなおす。
「わかってるなら、おかしな考えするな」
「だって、オレ住むところなくなるんですよ。ネットカフェがダメなら野宿ですか……あっ、池田さんにお願いしようかな」
「池田さん? 不動産屋か?」
「駅で寝泊まりしている……」
「それって……何でそんな知り合いいるんだ……」
「いい人ですよ。頼んでみようかな。ダンボールとか新聞ってけっこう暖かいんですって」
 遠野の様子からして、とても冗談を言っているようには見えなかった。というよりも、遠野なら平気でそういうことをしそうだった。何となくさっきよりも楽しそうにも見える。感覚が普通と違うのだろうか。
 自分に関係ないことならこのまま放っておきたいところだったが、遠野が問題を起こせば、学校全体、そして矢神にも被害が及ぶ。そうなれば、生徒も無事では済まされない。
 矢神は少し考えてから、もう一度遠野に尋ねた。
「本当に引っ越し費用ないのか?」
「はい……」
「実家は?」
「実家は……あまり世話になりたくないんですよね」
「まあ、それはわからないでもないが……」
「大丈夫です! どうにかします!」
「どうにかって……」
「今日、池田さんに会いに行きます!」
 遠野は目を輝かせて胸を張った。
 こいつ、本気だ。
 遠野の恐ろしさを感じて思わずぞっとした矢神は、止むを得ず最後の手段に出ることにした。
「ああ、もう、わかったよ! オレの家に来い。部屋が一つ物置きにして余ってるから少しの間貸してやる」
「え!? そんな悪いです……迷惑になりますよね」
 急に申し訳なさそうにしおらしい態度を取るから拍子抜けする。
「おまえが駅に寝泊まりする方が、ずっと迷惑がかかるんだよ……」
「本当にいいんですか?」
「その代わり部屋は広くないから荷物は減らせ。あと、引っ越し費用をすぐ貯めろ。それが貯まったら出て行けよ」
「はい、ありがとうございます」
 先ほどまでの落ち込んでいた様子は一切なくなり、本当に嬉しそうに遠野は矢神に笑顔を向けたのだ。





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