触れてしまえば、もう二度と
第三章 <9>
グラスに注がれたビールを一気に喉に流し込みそうになった矢神は、一口で止めておく。
酔っぱらってしまえば気は楽だが、根本的な解決にはならない。
相談を聞いてもらっていた杏は、客から注文が入り、カウンター内で慌ただしくしていた。
「杏、オレら、帰るな」
不意に声の人物に視線を移せば、先ほど矢神に迫ってきた男だった。
その男の隣には、男の子といってもいいくらいの幼い顔立ちの男性が立っていた。
どちらかというと童顔の矢神も学生に間違えられることがあるから勘違いという可能性もある。しかし彼は、どう見ても中学生にしか見えなかった。
男の腕にしがみつき、顔をすりすりと密着させている姿は、父親に甘えている子どものようにも見えるが、実際は違うだろう。
未成年に手を出したらまずいのではないのかと、はらはらした。
矢神がちらちらと様子を見ていたことに気づいたのか、男が声をかけてくる。
「あ、さっきはごめんな」
「え?」
「カップリングパーティの参加者だと思って勘違いしたんだよ」
「ああ、大丈夫です……」
それよりも隣にいる男が未成年じゃないのか、気が気じゃない。
そこに、カウンター内で忙しくしていた杏がやってきた。急にうきうきとした声を上げる。
「あら、やっぱり、あんたたちくっついたのねー。合うと思ってたのよ」
「杏のおかげだ。じゃあ、またな」
「はーい、お幸せに」
腕にしがみついていた男性の方は、一切こちらを見向きもせず、隣の男の顔をうっとりとした表情で見つめたままだ。そして、二人はその場を後にした。
「あの男性……成人してるんですよね」
あまりにも心配で、思わず杏に尋ねてしまう。
矢神の言葉に、心底可笑しいというように笑い声を上げて話す。
「大丈夫よ。歩クンはあの顔で三十路だから。ちなみに矢神クンに声かけてた一馬クンは、二十代前半だからね」
「そうなんですか?」
未成年に見える彼が三十路だということにも驚いたが、あの迫ってきた男が自分よりも年下だということに困惑を隠せない。
「人ってわからないものよねー」
「本当に、カップルが成立するんですね」
正直なところ、カップリングパーティといっても半分冷やかしじゃないかと思っているところがあった。
「そうね。アタシたちの場合、出会いってそうそうあるもんじゃないから。話をして嫌じゃなかったらっていう人はわりといるわよ。だから、ウチでもこういうの定期的に開催して出会いの場を設けてるの。気が合えばそのままホテルに行く人たちもいるし、ただ普通に一緒にいてお話だけしている人たちもいるわ。好きな人が自分のこと好きになってくれたら嬉しい……。でも、相手が同性だと、まずはカミングアウトから始めないといけないじゃない。受け入れてくれるかわからないし、ハードル高いのよ」
笑っているけど、どこか寂しげな表情の杏に胸が痛んだ。
だけど、何て声をかけたらいいかわからなかった。
「最初から相手も同じってわかってると楽なのよ。って、ごめんなさい。大ちゃんの話の途中だったわね」
「いえ、すみません、お忙しいのに」
「いいのよー。いろんな人といろんな話するの好きだから」
ふふッと笑って、杏は、自分のグラスに焼酎を注ぐ。
「大ちゃんは、依田のことはなんて言ってるの?」
「そのことで話をしたいんですけど、最近、避けられてるっていうか……」
杏は、ストレートの焼酎をごくごくと水のように飲んでいる。
「杏さんなら何か知ってるかと思って。少しでも遠野のこと知りたくて」
今度は焼酎をこぼさずに、杏はカウンターにグラスを静かに置いた。
「ねえ、矢神クン」
いつもの可愛らしい声ではなく、低音ボイスの杏に少し怖気づく。
「……はい」
「アタシが大ちゃんと依田のこと知ってて、ここでベラベラ喋ると思った?」
顔には出していなかったが、杏の声のトーンから怒りが含まれているのがわかった。
「大ちゃんのこと知りたいなら、自分で本人に聞きなさいよ」
「……そう、ですよね」
矢神は額に手を置き、大きな息を吐く。
焦りすぎた。どうにかしたいという思いだけで突っ走っている。
遠野だって、人から話を聞かれたら余計に嫌な思いをするはずだ。
話さないということは、話したくないということなのだから。冷静に考えればわかることなのに。
「相当参ってるわね。大ちゃん、そんなにひどい状態なの?」
「あんな遠野は、今まで見たことないです。いつも前向きで明るい性格だから、オレも戸惑ってて。だけど、放ってはおけない」
急に杏は、先ほどとは打って変わって、にこやかな笑顔になる。
「良かったわ。大ちゃんの傍に、こんなに大切に想ってくれる人がいてくれて」
「そんなんじゃ……」
「なによー、照れることないじゃない!」
バシッと音が鳴るほど肩を叩かれ、あまりの痛みに思わず肩をさすった。見た目とは違って、これは男の力だ。
「あくまで、先輩として」
「矢神クンって大ちゃんと一緒に住んでるんでしょ?」
「え? まあ……」
そんなことを言った覚えはなかったが、遠野から聞いたのだろう。
「他人と住むの嫌じゃないの? 煩わしくない?」
「部屋が余ってたから、遠野の引っ越し資金が貯まるまでの間、貸してるだけです。そうじゃないとアイツ、ネットカフェに住み着くとか言うから」
「たかが後輩のために? それ、相手がアタシでも一緒に住んでくれた?」
「杏さんと?」
「そうよ」
しばし考えてみるが、杏との共同生活がうまく想像できなかった。
「杏さんのことは、まだよく知らないし……」
「大ちゃんのことだって、よく知らないでしょ? 悪い奴だったらどうしてたのよ」
「アイツは……悪い奴じゃないですよ」
「そう? だって、矢神クンのこと好きなんだから、一緒に住むのも計画的だったりして」
「遠野はそんなことしないです。っていうか、好きって知ってたんですか?」
「大ちゃん見てたら、バレバレよ。矢神クンを見る目が恋しちゃってるって感じだもの」
そんなにわかりやすいのだろうか。今までも遠野の気持ちに気づいている人がいた。
普段接している分には、矢神は遠野の想いはさほど感じてないのだが。
「矢神クンは、大ちゃんのこと信頼してるのね」
「いい加減な奴だと思ってたんですけど、そうじゃなかった。きちんと周りを見て気配りもできる。明るくて性格もいいし、教師に向いてる気がします。だから、今の状態が悔しいんです」
「やだ、惚気聞いてるみたい。お姉さん暑くなってきたわ」
「……お姉さん?」
思わず突っ込んでしまった。
「やーね。どっからどう見てもお姉さんでしょ」
確かにそうなのだ。可愛らしい声で話している時は女性と認識しそうになるが、たまに素が出るせいか、男性だと知っているということもあり、違和感が半端なかった。
「とにかく、そんな熱い想いがあるなら、そのまま大ちゃんにぶつけたら?」
「そうは言っても……」
何度声をかけても、話を逸らされる。
今の遠野が、自分の話を聞いてくれるのか。
不安で押しつぶされそうだった。
でも、それは遠野も同じなのかもしれない。
何か不安に思うことがあるのなら――。
「うじうじするな! 無理矢理でも話しな。心配なんだろ?」
キッパリ言う杏に圧倒されたが、自分よりもずっと男らしかった。
「そうですね。オレ、帰ります」
矢神は席から立ち上がり、清々した気持ちでいた。
「えー、もう帰っちゃうの? ビールも全然飲んでないじゃない」
杏が急に甘えるような声を出してきた。
「杏さんが遠野と話せって言ったんじゃないですか」
ころころと変わるから、どれが本当の姿かわからなくなる。
「今じゃなくてもいいじゃない。せっかく来たのに」
「早く……遠野と話がしたい」
先ほど肩を叩かれたこともあり、杏に気合いを入れられ、背中を押されたような気がしていた。今なら、遠野に声をかけて話し合える。そんな強い思いがふつふつと湧いてきていた。
「矢神クンがそう思ってるなら、邪魔しないわ」
ここに来て、遠野ことは何もわからなかった。だが、自分が何をすべきか改めて考えることができたのだ。
杏は相変わらず苦手なタイプではあるが、話せて良かったと感謝していた。
人と話すだけでこんなにも気持ちを入れ替えることができる。それなら、きっと遠野も話すことで何かが変わるかもしれない。
「アタシも大ちゃんのことは心配してるのよ。矢神クンならきっと支えてくれるって信じてる。だから、これは杏さんからの大サービス!」
両手を胸の前でグーの形にして、小首を傾げて可愛らしい笑みを浮かべる。まるでアイドルのポーズみたいに。
これは素でやっているのか、計算なのか。
「なんですか?」
若干呆れつつ、お金を置いて、店の出口に向かった。
後ろからついてきた杏が、真剣な声色ではっきりと言う。
「依田宗一は、大ちゃんにとって本当に好きだった人なのよ」
振り返れば、杏の顔から笑みは消えていて、哀しげな表情で矢神を見つめる。
「きちんと話聞いてあげてね、矢神クン」
「……はい」
「頼んだわよー」
店の外まで出てきて、手を振って送ってくれる杏に、礼をして矢神は店を後にした。
杏の最後の言葉に、もやもやが募った。
依田が遠野にとってどういう相手なのか、予想はできてた。たぶん、そうなのだろうと。
もしかしたら、確信が欲しくてこの店に来たのかもしれない。
それならどうして、こんなにも胸が痛むのか。
今もこの時間、遠野は依田と会っているのだろうか。本当に好きだったという相手と、夜遅くまで会って話だけで終わるわけがない。
矢神は、お酒はほとんど飲んでいなかった。
それなのに、吐きそうなほど苦しくて胸が張り裂けそうだった。
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