触れてしまえば、もう二度と

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  第三章 <8>  


 矢神は、BAR「杏」の店の前にいた。
 遠野のことを聞きたくてここまで来たのだが、やはり入りにくかった。
 店の前でウロウロしているから、ただの怪しい人物にしか見えない。
 躊躇していた矢神は、覚悟を決め、思い切って扉を開けた。

「いらっしゃいませ〜」

 甘ったるい声が響く。
 初めて遠野と来た時には、貸切かというくらいお客がいなかったが、この日は盛況のようで、お酒を飲んで楽しむお客の声が騒がしかった。
 矢神の姿を確認した杏が、歓喜の声を上げた。

「やだー、矢神クンじゃない。来てくれたの?」
「こんばんは」
「あら、大ちゃんは?」
「今日は一人です」
「嬉しい。アタシに会いに来てくれるなんて。どーぞ、座って、座って」

 カウンターに座れば、メニューとおしぼりを差し出された。

「最近、遠野はこちらに来てますか?」
「全然よ! まったく顔出さないの。ひどいわよね」

 てっきり毎晩遅いのは、杏のいるこちらの店に来ているとばかり思っていたが、当てが外れた。

「なに飲む?」
「えっと、お酒はちょっと」
「やだ、ここに来て酒飲まないなんてありえないから。何か飲んでよ」
「……じゃあ、ビールで」
「オッケー」

 杏がいなくなった途端、ふうっとため息を吐いた。
 すでに杏のペースに流されそうで不安だった。酒を飲んで酔っ払っては話にならない。
 遠野のことは早くどうにかしないと、取り返しがつかないような気がしていた。だから、少しでも良い方向に導けるよう解決策を見出したかった。
 彼のペースに飲まれないよう気持ちを改める。
 すると、後ろのテーブル席にいた客が、おもむろに矢神の隣に座った。

「へえー、可愛いじゃん。ここ初めて?」

 ぐいっと距離を縮めてきたので、思わず後退りした。

「えっ、あの……」
「緊張してるんだ。大丈夫、みんな優しいよ。どういう人がタイプ?」
「タイプ?」
「オレは、君みたいなきっちりして真面目そうなタイプをベッドでトロトロにするのが好きなんだよね。自信あるよ。どう?」
 
 ――これは、もしかして性的な誘いなのか?
 
 どんな風に断ればいいのか迷った。下手なこと言って逆上されたら少し怖い。
 その男性は、矢神よりひとまわりも大きい筋肉質な体型だった。肩幅も広く、胸板も厚いのは、服の上からでもわかる。こんな男に押さえ込まれたらひとたまりもないだろう。
 この店で何かしてくることはなくても、恨みを買ってあとで仕返しされても困る。
 上手い言葉を探していれば、その男は勘違いをした。

「そんなジロジロ見て、オレの身体に興味ある? 鍛えてるから脱いだらすごいよ。あっちも評判いいから、このあとホテルでさ」

 手の甲に指先で触れてきたから、引っ込めようとしたら咄嗟に手を握られる。そして、さらに距離を縮めてきた。
 
 ――怖い。
 
 身体が固まったように動けなくなった。
 男は相手にできない。興味がないから。どれも回答としては間違っているような気がした。どうすれば、相手を傷つけずに断れるのか。
 そうこう考えているうちに、男は握っていた手にゆっくり指を絡めてきた。顔を近づけ、矢神の腰にそっと手を回す。鼻息が荒いようにも感じた。

「その困った表情、たまらないね。大丈夫、はじめは優しくするからさ。なあ、いいだろ?」
「こら、やめろ」

 杏がカウンターテーブルにビールの入ったグラスを置いて、男らしい声を出した。

「なんだよ。いいところなのに。杏介きょうすけのお気に入りなのか?」
「そうだよ。っていうか杏介って呼ぶな。この人は名札つけてないだろ。そっちで楽しくやってろ」
「ちぇっ、なかなか可愛い子なのに、普通に声かけたらダメなのかよ。杏だけずるいよな」

 そう言って男は、すごすごと後ろの席に戻っていく。

「ごめんなさいね、矢神クン」

 今度は急に猫なで声を出されて、受け入れるのに時間がかかった。

「今日は、カップリングパーティーなのよ」
「カップリング……」
「そうそう、ここで意気投合したらホテルへGO!」
「はあ……」
「矢神クンも参加する? 会費3000円飲み放題付。男性しかいないけど、アタシの知り合いで変な人はいないわよ。さっきのも悪い奴ではないの。ちょっと調子に乗ってるだけ」
「……結構です」
「そうよねー。で、今日はどうしたの? アタシに会いに来たわけじゃないんでしょ。お酒も飲みたくなさそうだし」
「遠野のことで相談があって」
「えー!? なーに、そういうこと?」

 悲鳴のような声を上げた杏は、腰をくねくねさせた。

「どういうことですか」
「恋の相談でしょ? 大丈夫、アタシ得意だから」

 本物かわからない膨らんだ胸の辺りを叩いて、杏は任せてと得意気だ。

「違います!」
「違うの? じゃあ、他に何の相談があるっていうのよー」

 心底ガッカリした顔で、グラスに焼酎をなみなみ注いだ。

「よし! 矢神クン、アタシも飲んでいい?」
「もう入れてるじゃないですか。どうぞ」
「ありがとー。はい、いいわよ、相談に乗るわ。喋って喋ってー」

 本当にこの人に相談していいのか気持ちが淀んだ。しかし、他に話せる人は思い浮かばない。

「遠野とは、昔からの知り合いって言ってましたよね」
「ええ、大ちゃんの兄とアタシが高校の同級生でね。だから、弟の大ちゃんのことは知ってたけど、仲良くなったのはごく最近なのよ。兄がこの店に大ちゃんを連れてきたのがきっかけだったかしら」
「あの、依田さんって知ってますか?」

 段階を踏まずに、咄嗟に名前を出してしまう。
 杏から遠野の昔の話を聞いてからでも遅くはなかったのに、矢神は、かなり焦っていた。

「依田って、宗一そういちのこと?」
「下の名前は知らないんですけど」

 杏の顔から笑みが消えて、グラスに入った焼酎を煽る。

「大ちゃんと依田って言ったら、宗一のことよね」

 やはり杏は、依田のことを知っているようだ。

「遠野と何かあったか知ってますか?」

 思わず、前のめりになって尋ねていた。

「どうして?」
「遠野の様子がおかしくて……たぶん、依田さんと会ってから」
「え……会ったの?」

 驚いた様子の杏は、カウンターにグラスを置く時に手元が狂ったのか、焼酎をぶちまける。

「やーん、もったいない」

 慌てて何枚か持ってきたタオルでカウンターを拭く。

「大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど、もう一杯飲んでいい? ちょっと飲まないとやってらんなーい」
「いいですけど……」

 新しいグラスに焼酎を注ぎながら、杏は話を続ける。

「大ちゃんが会いに行ったの? 依田に」
「いえ、偶然、再会したというか」
「それからも会ってるの?」
「……わかりません」

 そう答えながらも、杏の言葉が胸に突き刺さっていた。
 
 ――もしかして、依田さんと会っているのか?
 
 毎晩帰りが遅いのも、二人で会っているなら納得がいった。
 毎日会って何を話すのだろう。そこまで盛り上がれるほど関係が深いということなのか。
 だけど、それならどうして、遠野はあんなに情緒不安定な状態になる。
 依田のせいだとばかり思っていたが、他に原因があるのか。
 考えれば、考えるほど、頭の中で内容がまとまらない。
 これでは結局ふりだしに戻るだけだ。
 


 
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