触れてしまえば、もう二度と
第三章 <5>
――オレ、矢神さんに迫っちゃいますよ。
遠野がそう言っていたせいで、矢神は妙に意識をしてしまっていた。
職場の学校では、まさか迫るようなことはしないだろうから安心なのだが、家に帰れば違う。好きな相手がずっと傍にいるのだ。
今まで抱きしめられたり、ベッドで添い寝されて迫られたりということは多少あった。幸運なことにそれ以上のことはされていない。欲情して理性を失えばどうなるだろうか。
矢神にとっては、遠野は同性で恋愛対象にはならないせいか、告白されてもいまいちピンとこないところがあった。遠野の方も、普段そんな素振りは見せない。だから、一緒にいても安心しきっていた。最初の頃に比べれば、今では気心知れた落ち着ける相手なのだ。
矢神がいつものようにリビングのソファーでテレビを見ていれば、風呂から上がった遠野が隣に座った。
冷蔵庫に冷やしてあった缶ビールを開けて、ごくごくと喉を鳴らして飲んでいる。
長い髪はまとめていなかったから、さらさらと揺れた。
不意にこちらを見た遠野と視線が交わった。
「矢神さんも飲みますか?」
「オレはいい」
酒を飲んで酔えば、ろくなことがない。しばらくは遠野の前でアルコールを入れてはいけない気がしていた。
テレビの方に視線を戻せば、遠野がソファーに寄りかかりながら、手をついたから身体がびくつく。
指の長い大きな手が、矢神の太ももに触れるか触れないぎりぎりのところにあった。緊張で身体がこわばる。
さりげなく距離を取りつつ、遠野との間にクッションを置くという、あまり意味のないことをしていた。
「矢神さん」
「はい」
急に呼ばれて、思わず高い声を出して姿勢を正した。
「この間、本屋に行きたいって言ってましたよね? オレも買いたい本があるので、明日帰りに行きませんか?」
帰りに行くということは、一緒に帰るということだ。
後輩と帰ることは何も問題はないが、ただの後輩ではない。好意を持っている相手に答えを出さずに、このままでいいのか。
気まずくなりたくないというのは矢神のエゴだ。はっきりさせたら、遠野だって次の相手に気持ちを向けられる。
それはわかっているのに、踏ん切りがつかなかった。
「嫌ですか?」
「……嫌、ではない」
遠野と一緒にいるのが嫌だとか、嫌いだという方がわかりやすくて良かった。つい、そんなこと考えてしまう。
「駅通りの本屋の近くに、パンケーキ専門店がオープンしたじゃないですか。そこにも行きましょうよ」
ウキウキとパンケーキ専門店のチラシを目の前に出してきた。
今、女子高生の間で評判のパンケーキ専門店だ。生徒からおすすめされてチラシをもらったらしい。
いちごやバナナなどのフルーツが乗ったパンケーキに、クリームとチョコがかかっている。とても魅力的だ。
「おまえ、甘いもの苦手じゃなかった?」
「ここの店は、甘さ控えめだから苦手な人にもおすすめって、生徒たちが言ってました」
「そうなんだ」
「それに今、オープンキャンペーン中でパンケーキ1枚追加無料ですよ! 極厚ふわふわパンケーキが堪らないらしくて」
遠野の方が、甘いものが好きなんじゃないかというくらいに興奮気味だ。
「こんなところに男二人で行きにくいだろ。うちの生徒もいるだろうし」
「いいじゃないですか。それにオレ、矢神先生と行くって生徒に言いましたよ」
「は? オレが行くって言ってないのに?」
「行きますよね?」
ニコニコと笑顔で、断る隙を与えない。
「人気の店なんだから混んでるだろ」
「じゃあ、そんなに混んでなければ行きましょう。決まりです」
声を弾ませ、気持ちが舞い上がっているというのが手に取るようだ。
たかが本屋に行くだけ。甘いものだって好きではないのに。
――出かける相手がオレだからか。
好きな相手なら、どこに行くのも嬉しいはず。そのことに気づいて、困った思いと共に気恥ずかしく感じた。
翌日の放課後、いつもより早く上がり、約束通り遠野と駅前の本屋にやってきた。
本屋に入ると、学生や仕事帰りのサラリーマン、OLたちで賑わっていた。
たくさんの本が並んでいる本屋は、いるだけでわくわくしてくる。
店員のおすすめPOPを読んだり、目につく表紙の本を手に取ったり、いろんな本に出会えるから、時間を忘れて居続けしまう。そして、ついつい数冊一気に買い込むから困るのだ。
電子書籍は場所を取らなくていいが、矢神は紙の本で読むのが好きだった。
自宅にも買って読んだ本が山になりつつあり、そろそろ処分も考えないといけないと思っていた。
とりあえず今日は一冊だけ。お目当ての本を手に取り、遠野の傍に寄った。
「おまえの欲しい本ってなに?」
「お気に入りの和食レシピ本が発売されたんですよ。簡単でわかりやすくて、それに写真がいつもおいしそうなんです。これ見てください。矢神さん、和食がいいって言ってたからもっと上手くなりたくて」
――オレのために本を?
確かに矢神は和食がいいと言った。それだけのためにレシピ本を買うのか。ネットで適当に探せば、いくらでもレシピなんて見つかるはずなのに。
頭の中でいろいろ考えていれば、不思議そうに顔を覗き込まれた。
「中華もありますけど、そっちの方がいいですか?」
近すぎるほど遠野の整った顔が目の前にきて、思わず仰け反る。
「和食、好きだよ……」
どんな時も自分のためではなく、矢神中心で考えていることに驚いた。遠野の中では、矢神が一番なのだ。
少し嬉しくなった矢神は頬が緩みそうになり、咳払いで誤魔化した。
「矢神さんは何の本を買うんですか?」
矢神は手にしていた本の表紙を隠そうとしたが、間に合わなかった。
「オレもそういうの読んだ方がいいですかね」
ネットで試し読みした時に欲しいと思った、生徒指導についてノウハウが載っている本だ。こういうのを読んで勉強しているとか、恥ずかしいからあまり知られたくなかった。
「ちょっと参考にするだけだ。読みたいなら貸してやるけど、遠野はおまえらしくやればいいよ」
「オレは、矢神さんみたいな先生になりたいです」
「いや、なれないだろ」
「ひどいですね」
遠野は不貞腐れた声を出した。
「悪い意味じゃないって。オレとタイプが違うんだからさ、遠野にとって良いやり方ってあるはずだろ」
「オレにとって、ですか? でも、矢神さんみたいに、生徒にピシーッと言ってみたいです」
「それは言えよ。メリハリつけろよな。だいたいさ」
「はーい。じゃあ、レジにいきましょうか」
また説教が始まると思ったのか、遠野は適当にあしらう。
「おまえ、こういう時はホント話そらすよな」
「ほら、早く。パンケーキが待ってますよ」
背中を押されながらレジへ向かえば、
「大稀?」
と、すれ違いざま、遠野の名前を呼んだ人物がいた。
ネクタイを締めたスーツ姿の男性。身長は遠野と同じくらいだ。髪の毛は肩くらいの長さで顎鬚もあり、サラリーマンとは思えず、職業が想像できない。年齢はかなり上に感じた。
「久しぶりだな」
少し笑みを浮かべてその男性は、遠野に話しかける。
下の名前を呼ぶということは親しい間柄なのだろう。だが、当の本人は彼に向き合ったまま口を閉ざし、表情を硬くしている。
矢神は自分がいるから話しにくいのではないかと考えた。
「オレ、おまえの本も買って来てやるから」
「え?」
遠野からレシピ本を奪うように取り、矢神はその場を離れる。
何となく、雰囲気が悪くて居づらいというのもあった。
レジに並んでいる間、ちらっと遠野の方を確認すれば、何か二人で話をしているのが見えた。
――やっぱり、オレがいたから話しにくかっただけか。
緊張感漂ういつもとは違う遠野の状態に、矢神は戸惑いを覚えていた。
――どういう関係なんだろう。
気にすること自体おかしな話なのだが、二人のただならぬ雰囲気になぜかもやもやが募った。
レジが済んでも、遠野の方はまだ話をしているようだ。
声をかけて話を折るのも悪いので、本屋の目の前のベンチに座り、買った本を読んで待っていることにした。
表紙を眺めた後、ページをめくり、活字を読んでいく。
帰宅途中の人たちがざわめく中、集中することは容易だったが、遠野のことを考えてしまい、本の内容は全く頭に入ってこなかった。
遠野には知り合いがたくさんいる。声をかけられたって何ら不思議ではない。
それなのに、なぜそんなに気になるのか。
相手がどうとかではなく、遠野の様子がいつもと違ったことが気がかりだったのだ。
明るくて前向きで楽天的。悪く言えば何も考えていないといったところだが、矢神とは正反対のポジティブな性格は、羨ましく思えた。
その遠野が、相手に対して笑みひとつこぼさないなんて。
「矢神さん、お待たせしました」
「え?」
顔を上げれば、目の前に遠野が立っていた。
「あ、えっと、話、終わったんだ……」
慌てるように立ち上がり、本を袋にしまうのも手こずる始末。かなり挙動不審になってしまった。
「じゃあ、行くか。混んだら嫌だし」
「どこ行くんですか?」
「パンケーキ、食いに行くんじゃねーの?」
あんなに張り切っていたのに拍子抜けする。これでは、矢神が行きたいと言っているようなもので急に恥ずかしくなった。
「おまえが行きたいって言ったんだろ」
「あ……そうでしたね。行きましょうか」
普段通りの遠野――そう見えて、全く違う。
矢神に向けた笑顔は、顔に張り付いた不自然な表情だった。
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