触れてしまえば、もう二度と
第三章 <6>
ここ数日、遠野は部活の顧問として学校に残っていて帰りが遅い。
普段は外部委託のコーチがいるのだが、休みをとっているため、代わりに遠野が対応することになった。
矢神の方はというと、夕食用の買い出しの帰りだ。
部活で遅いだろうから夕食は適当に食べると言ったら、帰ってから作るので買い出しだけしてくださいとお願いされていた。
忙しい時はわざわざ作らなくてもいいのに。そこは絶対に譲らない遠野なのだ。
「買いすぎたかな」
頼まれたものの他に、遠野が好きそうなものを買ってしまった。
食パンやヨーグルト、牛乳にチーズなど、矢神にとってはどこのものでも同じ気がするが、遠野はこだわりがある。
最近では感化されたように矢神の方も、いつもと同じじゃないと嫌だと思うようになっていた。
そのため、けっこうな荷物で持って帰るのが嫌になる。
冷蔵庫を確認した時にいろいろ切れていたのだ。買って帰ればきっと喜ぶはず。
尻尾を振って嬉しそうにする愛らしい大型犬が、なぜか遠野と重なって頭に浮かんだ。
「しかし、重いな……」
――こんなに買わなければ良かっただろうか。
店から出て後悔している時だった。
「すみません、少しいいですか?」
後ろから声をかけられた。
何か困っているのかと思ったが、以前、遠野がスーパーから出てすぐ保険の勧誘にあったという話を聞いたことがあった。断っても、目の前でチラシを出されて延々と説明を聞かされる。本当にしつこくて大変だったらしい。
――これか!
警戒しながら声の主の方を振り返った。
営業スマイルを浮かべるその男性は、知らない人物なのに、なぜか見覚えがあるように感じた。どこかで会ったことがあっただろうか。
「突然で驚きましたよね。この間、遠野大稀と一緒にいませんでしたか?」
「あっ!」
思わず大きな声を出していた。そのせいで、周りにいた人たちが何事かと一斉にこちらを向いたので、気恥ずかしくなる。
その人物は、本屋で遠野に声をかけてきた男性だ。
この間はビシッとスーツを着ていたが、今日は黒のパンツに、白のTシャツの上からグレーのVネックカーディガンを羽織ったラフな格好。
全く違う印象を受ける。顎鬚と肩まである髪の長さの特徴で思い出された。
「良かったです。違ったらどうしようかなと思ったんですが。私は、依田と言います」
「矢神です。遠野とは同じ職場で」
「もしかして先生ですか。どうりで。大稀とは違って、きちんとされているイメージがあったので」
「いえ、そんな」
褒められていることに慣れていない矢神は、急に照れくさくなる。
「大稀とは、彼が学生の頃に私が家庭教師をしていて。この間は久しぶりの再会でした」
依田と名乗った男性は低姿勢で物腰柔らかく、とても落ち着いていた。自分よりも随分年上に感じる。
「実は、大稀に連絡先を渡したんですが、連絡をもらえなくて困っているんです」
「そうだったんですね。遠野とは同居しているのでよかったら家に来ますか? すぐ近くなんですよ。たぶん、そろそろ帰ってくる頃だと」
普段ならよく知りもしない人を家に招くことはしないのだが、依田の人柄なのだろうか。遠野の知り合いということもあって、警戒心が全くなかった。
「ありがとうございます。今回は急で申し訳ないので、もしよければ大稀に連絡するよう伝えてもらえますか?」
「いいですよ」
「名刺を切らしてるので、これで」
鞄から出したメモに、依田という名前と携帯電話の番号を書いて渡された。ささっと書いていたはずなのに、とても綺麗な字だ。
「大稀にも番号渡してますけど、一応」
「わかりました。伝えておきます」
「助かります。矢神先生」
「あ、いや、先生じゃなくていいですよ」
「いえ、教師はとても素晴らしい仕事ですからね。それでは失礼します」
優しい笑みを浮かべて礼をして去っていく。
「なんか、すごい人良さそうな人だったな」
正直なところ、第一印象は軽く遊んでそうなイメージを抱いた。
しかし、真面目で礼儀正しい人だった。外見で判断しては良くないなと改めて考えさせられる。
「ただいま」
家に帰った途端、いつものように声を出したが、遠野はまだ学校だから返答はない。
夕食用に買ってきた肉や野菜などを冷蔵庫に入れた。ふと、キッチンから眺めたリビングを見て、ため息を吐く。
シーンと静まる空間。今まで一人で暮らしていたはずなのに、遠野がいないだけで家の中が広く感じた。
そんな矢神を慰めるように、猫のペルシャが足元に擦り寄ってくる。あごの下を撫でてやれば、喉をゴロゴロ鳴らした。
「ごはん食べるか?」
猫用の器に適量のエサを入れてあげれば、待っていたかのようにガツガツと食べ始める。猫の目線になるようしゃがんで覗き込んだ。
チラッとこちらを見るが、エサに夢中でかまってはくれない。先ほどの甘えモードはどこへやら。
こんな猫の自由気ままなところが好きなのだが、この時はなぜか寂しさを感じていた。
「今日の晩飯、何作るんだろ」
聞いておけば良かったと後悔した。料理は得意じゃないが、野菜を切るなど下準備くらいならできそうだ。
いつも全てを遠野に任せっきりで、食事が出てくるのを待つだけなんて。
働いて忙しいのはお互い様なのだから、矢神はもう少し考えるべきなのだ。
着替えるため部屋に足を進めれば、玄関の扉が勢いよく開いた。
「矢神さん、ただいま帰りました。今、ごはん作りますね」
慌てるように靴を脱ぎ、即座にキッチンへ向かう。
「お腹空きましたよね?」
遠野が1人帰ってきただけで、急に騒がしくなる。そのことに、思わず笑みが溢れそうになった。
「お疲れさま。そんな焦るなよ。オレも今帰ってきたところだ。やっぱり部活やってるときは作らなくていいぞ。弁当かなんか適当に買ってくるから」
「オレが作って食べたいんです!」
「まあ、それならいいけど」
ネクタイを外しながら矢神は、先ほどあった出来事を思い出す。
「そうだ。さっき遠野の知り合いに会ったんだよ」
「誰ですか?」
遠野はこちらを向かないままエプロンをして、食事作りの準備を整えていた。
「えっと、ヨダさんだっけ? ほら、本屋で会った」
その名を出した途端、急にドタドタと矢神に近づいてきた。洗った手は濡れたままで、床にぽたぽたと水滴が落ちる。
「なんで? どうして会ったんですか!?」
すごい剣幕で詰め寄られ、若干引いてしまう。
「どうしてって、声かけられたんだよ。遠野と一緒にいたオレのこと覚えてたみたいで」
「何か……言ってましたか?」
「おまえと連絡取れなくて困ってるって、連絡してないのか?」
「はい、忙しくて……」
「急に忙しくなったもんな。連絡先もらったんだろ? 合間見て連絡した方がいいぞ」
「そうですね……」
遠野の表情は、すごく疲れているように見えた。やはり相当無理をしているのかもしれない。
「料理、なんか手伝おうか?」
「あ、大丈夫です! ささっと作っちゃいますんで」
――だよな。
手伝えば、返って邪魔になるのは目に見えていた。
「部屋でパソコンしててもいいか? まとめたいものがあって」
「はい。できたら呼びますね」
今日の夕食は、茄子とピーマンの肉みそ炒めと冷奴だった。あれから30分もかからず、食事の用意ができたと呼ばれたのだ。
「ご飯は冷凍してたもので、味噌汁は即席で申し訳ないんですけど」
「十分だよ。オレがご飯炊いておけば良かったよな。気が回らなくてごめん」
「いいんですよ。料理担当はオレです」
一緒に住みはじめてから、いつの間にか遠野が料理担当になっていた。矢神がほとんど料理をしないからなのだが、毎回手間暇かけていることに申し訳なくなってくる。
「じゃあ、いただきます。これ好きなんだよな」
茄子はどちらかと言うと苦手の方だった矢神だが、遠野の作る茄子とピーマンの肉味噌炒めは大好物なのだ。
それを知ってか、頻繁にメニューに出てくる。
期待して思いっきり口に入れた矢神は、いつもと違う味に困惑した。飲み込んで、思わず言葉にしてしまう。
「なんか、これ……」
「どうしました? おいしくないですか? 急いでたから味見しなかったんですよね」
遠野も箸で口に運ぶと、目をギュッと閉じて表情を歪めた。
「ごめんなさい。砂糖を入れたと思ったんですけど、塩だったみたいです」
「珍しいな。やっぱり忙しいからじゃないか」
「本当にすみません。違うもの何か作ります」
その場を立ち上がろうとする遠野を慌てて止めた。
「待て、大丈夫だ。食べられるって。気にするなよ」
見ていられないほど落ち込む様子の遠野に、精一杯の励ましの言葉をかけた。
元はといえば、先に帰ってきた矢神が食事を作れるのなら、遠野に負担がかからないのだが。
「明日からオレが作ろうか? 簡単なものなら、なんとか……」
自信はなかった。それでも、これ以上遠野に無理をさせられないと感じていた。ネットで適当にレシピを見れば、何かができあがるだろう。
「矢神さんも忙しいじゃないですか」
「おまえよりは忙しくねーよ」
「でも、家賃払わない代わりにオレが料理担当なんですから」
「え? そんなの決めたっけ?」
「決めたわけじゃないですけど、オレが嫌なんですよ。明日からは気をつけますから」
「無理はするな。後片付けはオレがやるから、風呂入ったらさっさと寝ろよ」
「はい……」
肩を落としてガックリしている姿は、まるで捨てられた犬みたいだった。
疲れていたらこれくらいのミスはよくある。たいしたことじゃない。
いつもの明るさで笑い飛ばせばいいのに、余裕がないのだろう。
少し休めばいつも通りになるはずだ。
だが、矢神の考えは甘く、これだけでは終わらなかった。
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