それは、ただのキス

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それは、ただのキス06

「今井、まだ終わらないのか?」
 終業時間はとっくに過ぎ、時刻は二十時を回っていた。他の職員も、既に帰っていて、事務所には、部長の新美と今井しか残っていなかった。
 新美は、滅多なことがない限り、部下よりも先に帰ることはなかった。たまに、帰りづらい時もあるが、『上司のことは気にしないで帰る』というのが、この営業部で決められていることだった。
 だから、新美のためにも、そろそろ帰りたいところだったが、自分の仕事が溜まっているから、そういうわけにもいかない。
「もう少しかかりますので、お先にどうぞ」
「私もまだ仕事があるんだが、この後、予定がないなら、食事をして帰らないか?」
「……はぁ」
 突然の申し出に、戸惑うような返答をしてしまった。それを新美にすぐさま指摘される。
「なんだ、その気のない返事は。どっちの意味だ? 行ってもいいという返事か? それとも嫌だということか?」
「いえ、少し驚いただけです。接待が続いていたから、もう外で食事をしたくないって言ってましたよね?」
「確かに言ったな。しかし、遅くまで仕事をして、家に帰って一人で食事をするのは、少し寂しくないか?」
「そうですけど……」
「無理にとは言わない。あと、仕事の後の食事は、プライベートだから、敬語じゃなくて構わないよ」
 笑顔を浮かべてそう言った後、新美はパソコンに視線を戻し、仕事を続ける。
 見透かされているように思えた。今井も、家に帰って一人で食事をするよりは、誰かと一緒の方がいいに決まっている。だが、相手が会社の上司となれば、話しは別だ。反対に気疲れしてしまう。だから、新美はあえてプライベートだと強調したのだろう。
 その食事は、プライベートなのかもしれない。だが、上司からの命令のようにも感じた。
 今井は、書類を眺めながら深いため息を吐く。
「わかりました。あと、三十分で仕事終わらせますので、部長も終わらせてくださいね」
「食事に行ってくれるのか?」
 新美の弾むような声が上がった。
「どこまでもお付き合いしますよ」
「それは有難い。三十分で終わらせよう」
 結局、二人とも三十分では仕事は終わらず、会社を出たのは、それから一時間も後のことだった。



「少し歩くが、駅の方まで行けば、美味い小料理屋がある。そこは酒の種類も多い。君は何でも飲めるんだったかな?」
 新美は、お酒が飲める店を薦めてきた。自分はアルコールを受け付けないのに、こういう情報だけは、しっかり持っているのだ。
「アンタは飲まないんだろ? 腹が減ったからメシだけでいい」
「私に合わせてもらっては悪いと思ったんだが。それなら、この時間でもやっている定食屋はどうだ? 駅から反対方向になってしまうが、美味くて安い私のお気に入りの店だ」
「どこでもいいよ」
「じゃあ、そこへ向かおう。ビールもあるから、私に遠慮しないで飲んでくれ」
 新美が勧める定食屋には、歩いて一〇分もしないうちに、たどり着くことができた。あまり大きくないそのお店の看板には、オヤジの食堂と描かれていた。
 のれんをくぐって新美が中に入っていく。
「こんばんは」
「らっしゃい」
 店主の声が響いた。掠れたダミ声だった。
 新美の後を追うように今井が店内に入れば、仏頂面をした店長と目が合う。
「好きな席に座りな」
 投げやりな言い方で、とても客を歓迎しているようには思えなかった。
 新美は、迷わず窓際の席に着いた。ここに来るときには、いつもそこに座っているのだろうか。
 今井も彼の向かいの席に座り、ネクタイを緩めながら、メニューを眺める。思っていたよりも、メニューは豊富だった。腹が空いているせいか、どれもこれも食べたくなって迷ってしまう。
 そんな今井の気持ちを察したかのように、新美が口を開く。
「この店のしょうが焼き定食は絶品だよ」
「そうなのか?」
「私は、しょうが焼き定食にするよ」
 そう言った途端、店主が水を持ってきた。水が零れるくらいの衝撃で、テーブルの上にコップを置いたから、思わずムッとくる。
「今井は、どうする?」
「ああ、じゃあ、オレもしょうが焼き定食で」
「しょうが焼き、二つだね」
 店主は、笑みを見せるどころか、反対に怒っているような顔をして今井を見た。かなり感じが悪い。いつの間にか、店主と睨み合うような形になっていた。
 そんな二人の雰囲気を変えるように、新美が店主に言葉をかける。
「あと、ビールもお願いできるかな」
「お客さん、飲めないんだろ?」
 店主の台詞に、今井は驚いた。新美の酒がダメということを知っていたからだ。
「私じゃなくて、彼が飲むから。コップは一つでいいよ。よろしく」
 店主は頷き、厨房に戻っていく。
 二人の会話の感じから、新美はこの店にかなり通い詰めている様子が窺えた。
「勝手に注文してんじゃねぇ」
「飲むだろ?」
「アンタが注文したからな」
 新美は酒が飲めないくせに、仕事の後にビールが飲みたくなる気持ちをよく理解しているようだった。
 一度厨房に戻った店主が、ビールとコップを持ってやってくる。そして、先ほどと同じく投げやりな態度で、今井の前にビールとコップをどっかり置いた。そして、何も言わずに、去っていくのだ。
「ちっ、あれってどうなんだ」
 どうにも店主に苛立ってしまい、つい舌打ちをしてしまった。新美は、おかしそうにふふっと笑う。
「店主はシャイなんだよ」
「どこがだ? ったく、あんな態度でよく営業できるな」
「話してみると案外普通の人だよ。料理も美味しいし、気にしない方がいい」
「気にしないって、無理だろ」
「彼も、誤解されやすいんだ。君と同じでね」
「似ても似つかねぇよ」
「慣れたら、店主の態度も可愛いと感じるよ。ほら、料理が来るまで、ビールを飲んで待ってなさい」
 新美がビールの瓶を持ったから、反射的にコップを差し出した。
「……どうも」
「お疲れさま」
 上司を目の前にして、一人で酒を飲むのは気が引けたが、新美が気にするなと繰り返し言うから、それに甘えることにした。
 キンキンに冷えたコップに注がれたビールを口にする。仕事上がりに飲むのは最高だと思える瞬間だ。喉が渇いていたということもあって、一気に飲み干してしまう。
 コップを置いてふうっと息を吐けば、新美は嬉しそうにビールを注いでくる。
「いい飲みっぷりだね。私も飲みたくなってくるよ」
 その言葉を聞いてぎょっとした。
「……アンタは止めとけ。酔った後、誰が介抱すると思ってんだよ」
「そうだな。酒が飲めるのが羨ましいよ」
 寂しそうに呟く新美の言葉は意外だった。
「酒が嫌いなわけじゃないんだな」
「ああ、美味いと感じるが、身体が受けつけないんだ」
「そりゃあ、かわいそうに」
「調子の良い時なら、一杯くらい大丈夫だよ」
 催促するように、にっこり微笑んできた。少しくらいならと思わせるような表情。しかし、この前のことがあるから、新美には悪いが、とてもじゃないが飲ませられない。
「……またの機会にしろ」
「そうか……」
 俯き加減で残念そうに言うから、罪悪感に苛まれる。
 やはり、一人だけ酒を飲むのは良くない。次からは気をつけよう。そう今井は、考えを改めるのだった。
「お待ちどう」
 そこに、しょうが焼き定食を持った店主がやってきた。
 テーブルの上に、雑に置くものだから、味噌汁がゆらゆらと揺れてこぼれそうになっている。文句が口から出そうになったが、しょうが焼きのいい香りが漂ってきて、そんなことはどうでもよくなった。
「いただきます」
 山盛りのキャベツの上に、厚切りのしょうが焼きがたっぷりと乗っている。ご飯も大きなお椀で、わかめと油揚げの味噌汁の他、漬物と冷奴がついていて、ボリューム満点だ。味も今井の好みの味で、夢中になって食らいついていた。
「美味いか?」
「ああ」
「ご飯は、おかわり自由だよ」
 今井のお椀のご飯は、既に少なくなっていた。それに気づいた新美が、そう教えてくれる。それと同時に、店主がやってきて、お椀を寄越せと言わんばかりに手を伸ばしてきた。
「……お願いします」
 店主にお椀を渡せば、今度は先ほどよりもご飯が大盛りになって返ってきた。
 店主の態度は、とても良いとは言えない。だが、料理はとても満足のいくものだった。ぺろりと全て食べ終えれば、新美がふっと口元をほころばせる。
「君は、体型の割にけっこう食べるんだね」
「あ? チビだって言いたいのかよ」
「ああ、すまない。そう意味じゃない。そんなに食べるのに痩せているから羨ましいと思ったんだよ。私は、油断すると腹が出てくるからね」
 困った顔で笑いながら、新美は腹を擦った。
「オレだって若くないからな。ジムに行ったりして、太らないように気をつけてる」
「君もジムに行っているのか? 私も最近始めたんだ。なかなか続かないんだが、今井を見習うことにしよう」
「お客さん」
 二人の話を割るように、店主が恐い顔をして声をかけてきた。新美が時計を見て、はっとする。
「あ、もう店じまいか。つい長居してしまったな」
 店主は、窓の外を指差した。
「雨が降ってきた。強くなったら困る。早く帰った方がいい」
「そうか、ありがとう。じゃあこれで」
 新美が支払いを済ませてしまったので、今井は焦った。ビールも一人で飲んだのに、更に奢ってもらっては気が引ける。
「オレ、払います」
「今日はいいよ。私が誘ったんだから。店主、ごちそうさま」
「……ごちそうさまです」
 店主と新美、二人に向けて、今井は言葉を口にした。
 店の外に出ると、店主の言っていた通り、降り出していた雨が強くなってきていた。
「くそっ、今日の天気予報、雨降るなんて一言も言ってなかったぞ」
 苛立ちを口にすれば、新美も納得するように、「そうだな」と返事をした。
 少し待てば、小降りになるかもしれない。そんな考えはすぐに消え失せた。降っている雨は、小雨になるどころか、ひどくなる一方だ。
「しょうがねえ、駅まで走るか」
 考えても仕方がない。今井は思いきって、土砂降りの中を駈け出した。
 激しく打ち付ける雨が、たちまち全身を冷たく濡らす。辺りは暗くて、足元はほとんど見えなかった。 走っている間、何度も水たまりにはまり、水が跳ね、革靴の中もぐっしょりだった。
 駅まで、そう遠くないはずなのに、その時は、辿りつかないんじゃないかと思えるほどの道のりに感じた。
 しばらくすると、急に腕をぐいっと引っ張られる。
「おわっ」
「待て、今井」
 息を荒げた新美が、膝に手を当てて苦しそうに頭を垂れた。
「少し……休もう」
 その様子は、あまりにも辛そうだった。
 ちょうど近くに、屋根のある店が目に入った。シャッターは下りていて、もう営業はしていない。そこで、雨宿りがてら少し休むことにした。 
「……大丈夫かよ」
「すまない。食べた後に走るのはキツイね……」
 雨で乱れた髪を整えながら、新美は苦笑した。
 普段からきっちりとした七対三の分け目は、既になくなっていて、前髪が額に落ちてきていた。それを必死で、直そうとしている。
 前髪を下ろした方が若く見えるのに、なぜそのヘアスタイルなのか。気になってはいたが、聞くタイミングが見つからなかった。
 彼のスーツから、水滴が滴り落ちる。雨に打たれて、全身ひどい状態だ。それは、今井自身も同じなのだが、いつもピシッと決めている部長からは想像できない姿だった。
 そういえば、あの日の夜も、こんな風に乱れていた。
 今井は、新美が酔っていた時のことをぼんやりと思い出す。
 服も髪もめちゃくちゃで、だらしなく、締まりのない顔をしていた。部下の前で見せる姿ではないと残念に感じたが、距離が縮まったような気もした。上司とはいえ、彼も同じ人間。そう思ったら、気を張る必要はないとすごく楽になった。新美の人柄のせいもあるのだろう。一緒にいても、相手が上司ということを度々忘れそうになるのだ。
「どうした? 冷えるか?」
 突然、新美がこちらを向いたので、視線が交差する。心臓が激しく跳ね上がった。
「別に……」
 慌てて顔を背けた。いつの間にか、彼に目を奪われていたようだった。
 頭を振って、気を確かに持とうとした。
 どうかしている。疲れとアルコールのせいだろうか。おかしな気分になる前に、さっさと帰った方がいい。
 降り続ける雨は、止みそうになかった。再び駅まで走ったとしても、身体が冷えて風邪をひいてしまいそうだ。大通りに出て、タクシーを拾った方が早いかもしれない。
 いろいろ頭を巡らせていれば、ふと名前を呼ばれた。
「今井」
「ん?」
 顔を上げた瞬間、その衝撃は訪れた。
 この間より、少し長く感じる。それは、新美の唇が自分の唇に触れた時間。
 彼の唇が離れた後も、何が起きたのかすぐに理解できなくて、しばらく呆けていた。だが、次第に現実を取り戻していく。
 今井はきっと睨み上げ、力を込めて新美の腕をがっつり殴った。
「痛い、暴力はいけないよ」
 悲鳴のような声をあげて、新美が殴られた腕を擦っていたが、そんなことは無視して、食ってかかった。
「アンタ、何してんだ!」
「この雨だ、誰もいないよ」
「そうじゃねぇよ」
「君が、キスして欲しいというような顔で、こちらを見るから、つい」
「……え?」
 やわらかな声で優しく言うから、危なく信じそうになった。
「っんな顔、するわけねぇだろ」
「そうか、私の勘違いだったか。すまない」
 謝罪はするが、悪びれた様子を見せずに、新美は静かに笑う。からかわれたのだろう。
 今井は、心の中で舌打ちをした。
 新美の勝手な行動に、腹を立てていたのは事実だが、それよりも、自分自身にイライラを募らせていた。
 なぜなら、彼にキスされたことを一瞬でも喜んだ自分がいたからだ。
 冷たい頬と身体が、火照って熱くなったような気がした。



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