それは、ただのキス05
「今日も接待だ。今井、頼むな」
「はい、わかりました」
新美は、取引先や本社との接待には、必ず誰かを連れて参加する。酒が弱い新美のフォローをするためだ。
今までは、酒が好きな島崎が同行していたが、彼は酒が好きというだけで、強い方ではなかった。一番強いのは、小原だが、女性を接待に同行させるわけにはいかない。
島崎は、幾度か部長と一緒になって酔っ払い、二人して駅で朝を迎えたことがあったらしい。誰かに見られることはなかったから良かったが、それも時間の問題だということは新美も理解していた。
新美が悩んでいたところに、現われたのは今井だ。歓迎会で部長を介抱したのだから、誰よりも適任だと思われるのは、あたりまえのことだろう。
島崎の代わりに接待に参加した今井は、新美が予想していた以上に良い仕事をした。
相手が新美に酒を勧めてきたら、自らが犠牲になり、勧めてくる酒を飲んだ。酒に弱いわけではなかったから、ある程度は付き合うことができる。
そして、新美が酒を飲まなくても、その場の雰囲気が壊れないよう、話題を変えたりして考慮した。
出来る部下に見えるかもしれないが、今井はただ単に、酔っ払った新美の世話をするのが嫌なだけだった。それなら、自分が代わりに酒を飲んだ方が楽だと考えたのだ。
新美はその時、今井を使えると判断したのだろう。それからは、接待には必ず借り出されるようになった。
「大丈夫か?」
接待の三次会が終わり、ようやく帰路に着いた頃、新美が心配そうに声をかけてきた。
「……何が?」
数歩後ろを歩いていた新美の方を振り向けば、申し訳なさそうに笑う。
「あの人は、底なしだから。少し足がふらついているよ」
手を差し伸べてきたので、ふんと鼻を鳴らす。
「平気だ。駅で朝を迎えることはないから心配するな」
嫌味を投げかければ、新美は苦笑した。
「君がいてくれて助かったよ。いつも苦戦を強いられるが、今回は上手く話が進みそうだ」
「そりゃあ、良かった」
「これからも頼むよ」
新美の言い方は優しかったが、目が笑っていない。接待への不参加は認められないという意味が込められているような気がして、ぞっとした。
「肝臓が悲鳴をあげそうだ……」
ため息交じりに言うと、新美は声を出さずに笑う。
「やはり、その方が楽そうだな」
「は?」
「さっきまでは、敬語を使って息苦しそうだったよ」
会社じゃない時は、敬語じゃなくていい。新美にそう言われていたが、なるべく敬語で話すように気をつけていた。
それなのに、接待が終わった解放感からか、つい気を緩めてしまった。
思わず口を手で押さえて黙れば、今度は声を出して笑う。
「嫌味で言ったんじゃない。私は、あまりそういうのを気にしないから大丈夫だ。ただ、他の人には、きちんとした言葉を使った方がいい」
「……はい」
彼をまともに見られなくて、視線を俯かせた。新美は更に、話を続ける。
「君は、よく人に勘違いされるタイプだろう」
「勘違い?」
意味がわからなくて彼を見上げると、静かに頷く。
「笑顔も苦手のようだし、人当たりが良いわけでもない。だから、君のことをよく知らない人は近寄りがたいと感じる。だけど本当は、誰よりも相手のことを思って、気遣うことができる優しい人だ」
「それが、オレだっていうのか?」
「違うか?」
「前半は当たってると思うが、後半は買い被り過ぎだ」
「まあ、私の印象だからな。君は優しい人だから、私のお願いも素直に聞いてくれるだろ?」
新美は、意味深な笑みを作る。
「そういうことかよ。お願いじゃなくて、命令だろ? 心配しなくても接待には参加する。それで問題ないだろ」
「心配はしてないよ。部下のことは信用している」
「そうかよ」
「心配というか、一つ気になっていることがあるんだ」
急に、悩ましげな表情をするものだから、お返しと言わんばかりに茶化したくなった。
「あれだろ? さっきの人がヅラかどうかってことか? 違和感ありすぎだよな」
「今井、そう何でもかんでも口にするものじゃない。私がそうだったらどうするんだ」
「アンタもヅラなのか? だったら、早いうちに告白しといた方がいいぞ」
くくっと含み笑いをすれば、自分の髪に触れながら、「まだ大丈夫だ」と不安そうに新美が答えた。その姿が妙に可笑しくて、声を出して笑ってしまう。
「笑い過ぎだ。君だって、もう少し年齢を重ねれば、気にするようになるんだぞ」
「オレはハゲてきたら、潔く坊主にする」
「今井が坊主か、恐ろしくて今以上に誰も近づかなくなるんじゃないか?」
反撃されて、ついかっとなってしまう。
「うるせえ、ハゲてきたらしょうがねぇだろ!」
「冗談だ。そう怒るな。しかし、なぜ私たちはこんな話をしているんだ……」
馬鹿馬鹿しいというように、額に手を当てた。
「アンタが気になるって言うから」
「私は、そんなことは気にしていない」
「だったら何だよ」
再び、新美の表情が変わった。まっすぐとこちらを見て、少し言いにくそうに口を開く。
「この間のことだ」
「この間?」
「私が酔っ払って、君にキスをしたという……」
そこまで口にして、申し訳なさそうに目を伏せた。
「そんなこと、いちいち気にするな」
今になって話を戻されては、今井の方が困ってしまう。ゲイだということも知られず、何事もなかったと流してくれたんだと思っていたのに。
「アンタ、覚えてないんだろ? 酔ってたんだから仕方がない。これからは、酒で失敗しないよう気をつければいい。そのために、オレが接待に同行するんだから」
新美をフォローするために言ったのに、それを否定するように彼は首を振る。
「覚えていないのが問題なんだ」
「意味がわからねぇ」
「君は覚えているだろ?」
そう問われて、すぐに返事ができなかった。
自分に触れた新美の唇は、とても心地よかった。熱を持ったように熱い舌が差しこまれ、今井の舌に絡みついてくる。
忘れることなんてできなかった。何度も思い出しては、身体中が火照るのだ。
「君がどんな嫌な思いをしたのか、私にはわからない」
新美は、そう言いながら辛そうに眉根を寄せた。そんな姿に、今井の方が逆に申し訳ない気持ちになる。嫌な思いは一切していなかったからだ。
「もう忘れた。だから、この話は終わりだ」
「ほら、君は今、私に気を遣って嘘を吐いた。優しい人だ」
「嘘じゃねぇ」
「私が覚えているかと訊ねた時、君は答えに迷っていた。ということは、覚えているということだ」
「そうやって分析するのやめろよ。オレだって酔ってたんだ。よく覚えてねぇよ」
「頼みがある」
「アンタ、オレの話聞いてないだろ」
急に両肩を掴まれ、新美が視線を合わせてきた。凝視されて、目を逸らしたくても逸らすことができない。
彼は、低く、はっきりした声で言った。
「再現してみてくれないか?」
「……は? なに、言ってんだ?」
「私が覚えていないから、あの晩にあったことを再現してくれと言っているんだ」
「酔ってんのか? 再現してどーすんだ」
「私も君と同じ嫌な思いを味わいたいんだ。それじゃないと、フェアじゃない」
「どうでもいいよ。っていうか、オレは二度も嫌な思いを味わうんだぞ」
「それは申し訳ないと思う。ここは、堪えてくれ」
「何でそんなことしなくちゃなんねぇんだ。放せ! こんなところ、誰かに見られてみろ。誤解されるぞ」
「大丈夫、誰もいない」
両肩を掴んでいた手に、ぐっと力が込められ、二人の距離が縮んだ。
「今井、命令だ」
――こいつ……。
拳に力が入る。殴りたいと思った瞬間だった。だけど、こんなことで殴っても意味はないだろう。
新美はただ、真面目な性格というだけなのかもしれない。あれから、何日も過ぎているというのに、今井のことを心配し、ずっとそのことを考えていたのだ。しかし、自ら嫌な思いを体験したいというのだから、一歩間違えれば、変人ということも考えられるのだが。
ゲイの今井にとって、男とキスすることには、免疫がある分、通常の人よりは嫌悪感は少ない。ましてや、新美とのキスは、どちらかというと気に入っていた。だから、もう一回くらいならしてもいいかもと、そんなことを思ってしまう自分がいる。
「わかった、好きにしろ」
新美をぎっと睨み上げて答えれば、小さくため息を漏らされた。
「……ムードがないな」
「はぁ? アンタ相手にムードなんか作れるか。さっさとやれ!」
肩を掴んでいた新美の手から力が抜けた。左手が今井の髪を撫で、耳に触れ、そのまま頬に下りてくる。
「今井……」
気持ちのこもった低い声が頭上で響き、感情が高ぶった。新美の顔がゆっくりと近づいてきて、思わず目を瞑る。この間のようなキスをされるのかと想像したら、期待で興奮した。
だけど、それは一瞬、唇に触れただけで終わってしまう。
「え?」
驚いて、つい声を出していた。
新美はというと、気まずそうに頭を掻きながら、こちらをちらちらと見てくる。
どんな嫌な思いをしているのだろうか。不安を抱きながら訊ねてみた。
「……どうだった?」
「ああ……」
しばらく黙っていたから、息が詰まるような思いがした。はっきり言え、と口から出そうになった時、新美が独り言のようにぽつり呟いた。
「思っていたよりも、悪くないものだな」
想像していなかった彼のセリフに、つい、まじまじと顔を見入ってしまった。そんな今井に、新美は頭を下げてくる。
「すまない。今井は嫌な思いをしたというのに」
「……オレだって、別に、嫌だったとは思ってねぇよ」
そう言ってやれば、安心したように、新美の表情が和らぐ。
「そうか、それなら少しは救われる」
「海外だと、キスなんて挨拶みたいなもんだろ」
「まあ、そうだな」
肩の荷が下りたように、新美は心底ほっとしているようだった。
挨拶みたいなもの。それは、今のように触れるだけのキスだった場合に限る。実際あの夜にされたキスは、濃厚的なもので、挨拶どころの話ではなかった。
本当のことを伝えて、また気にされても面倒だ。このことは黙っていよう。
安心しきった新美の顔を盗み見ながら、今井はそう誓うのだった。
*