「ありがとうございました」
お辞儀をして、店から出ていくお客を見送る。その日、最後のお客だったから、ふっと肩の力が抜けた。
「お疲れ、今日はもう上がっていいよ」
「はーい」
両腕を上げて伸びをした後、腰からエプロンを外し、頭に巻いてあったバンダナを取った。
小此木敦貴は、ここ『らーめん屋じゅんじゅん』で働いている。大学時代からずっとバイトを続けていて、卒業してからは、店主の
葉室潤一に弟子入りしていた。将来、自分のラーメン店を持つことが夢なのだ。
「アツキ、明日の朝は寝坊しないようにね」
「ん、起きられるように頑張る」
携帯電話の画面を見ながら答える敦貴に、店主の潤一は、やれやれというように少し肩をすくめた。
「そういえば、最近あの子、店に来ないね」
「あの子?」
「彼女だよ」
「んー、別れたよー」
何事もないようにあっさり答えれば、潤一は、店の片づけをしながら調子の外れた声を出す。
「はぁ?」
「潤ちゃん、どーしたの?」
その声に敦貴の方が驚き、潤一の顔をまじまじと見てしまった。
「別れたって、まだ付き合って三ヶ月経ってないよね?」
興奮したように身を乗り出してきたので、一歩引いて様子を窺う。
「うーん、一ヶ月かな?」
「前の子も二ヶ月だったし、どうしてそうなるんだ? アツキは悪い子じゃないのに」
まるで自分のことのように、潤一が心配してくれる。有難いことだ。
「だって、めんどーなんだもん。貴重な休みにどっか行こうって言ってさー」
しかし敦貴にとっては、さほど重要なことではないようだった。
「休日にデートって、それ、あたりまえだから!」
ピシッと人差し指を立てて指摘された。
「潤ちゃんは、マメだからできるんだよ。オレ、休みの日は寝てたいし」
不貞腐れたように唇を尖らせる敦貴を、なだめるように優しく言った。
「彼女のこと、好きだったんだろ?」
首を傾げながら、悩ましげな表情を浮かべる。
「んー、どうだろう。いい子だなとは思ったけど」
「ああ、ダメだ! 前の子も、あの子も、敦貴が居る限り、この店には二度と来ないだろう。常連客だったのに客が減ったよ」
信じられないというように頭を押さえながら、潤一はうなだれた。
「えー、そっちの心配?」
てっきり敦貴のことを考えてくれていると思ったら、自分の店の心配だったようだ。
潤一は、らーめん屋じゅんじゅんの為なら、なんだってする。大事な自分の店なのだからあたりまえのことだが、最近では、敦貴にまでその被害が及んでいる。
「アツキはモテるんだから、もっと女性にアピールして、どんどん客を呼んでくれないと」
「オレ雇ってんの、そんな理由? マジ凹む……」
「まあ、それだけじゃないけどね」
口元に意味深な笑みを浮かべる潤一。弟子入り先を間違えたかもしれないと、一瞬不安になった。
「でもさ、潤ちゃんの方がモテるんだから、オレをあてにしなくてもいいんじゃない?」
「オレとアツキは、タイプが違うから客層も違うんだよ」
「そんなもん?」
潤一は、切れ長の目と端正な顔立ちで、男の敦貴から見てもかっこいいのはわかっていた。身長は敦貴より少し低く、線が細いけど、力はあるから男らしい。愛想も良くて話も上手だ。良いところばかりで、女性客はすぐに夢中になってしまうのだ。
だが、付き合っている彼女が一人じゃないのがダメなところだ。二股、三股はあたりまえ。彼女たちもそれを許しているところがまたすごい。そこまでして、潤一と一緒にいたいのだろうか。
しかも、その噂はあちこちに広まり、イケメンラーメン店とネタにされるくらいだ。反対に売り上げが落ちそうなものだが、味が美味いから女性だけじゃなく、男性にも好まれ、客は離れていかずに済んでいる。
「そうだ、アツキ! 今度、高校の同窓会があるんだろ? そこでたくさんの女性たちを店に誘うんだ。そして口コミで広めてもらおう。その女性たちの友達、そのまた友達と広めていけば、うちの店には女性のお客様がわんさか来るようになる。アツキもその中から彼女を作ればいい。どうだ? 最高のシナリオじゃないか」
潤一は、自分の考えに感動して打ち震えていた。
「彼女作らないとダメなの? 当分いらないんだけど。それに、女の子たち誘うのも面倒。男友達なら喋ることもあるだろうけど」
「男の客より女性の客が増える方が嬉しい」
真顔で言われて、少し怖いと思った。本当に女好きなんだと心の中でこっそり呟いた。
「アツキの高校の頃の男友達は、うちの店に来たことある?」
「ないかな? ここで働いてるって言ってないし。だけど、来て欲しい人はいる」
「男友達で? オレはやっぱり女性がいいな」
「潤ちゃん、たくさん女性の知り合いいるじゃん」
「アツキの同級生なら若いだろ。これからは若い子にも、この店の良さをわかってもらわないとね」
店の良さというよりも、潤一の良さをわからせたいと言っているように聞こえた。
「オレ、同窓会に行くかどうか、まだ決めてないし。それに土曜の夜だから店混むんじゃない? 休めないじゃん」
「店は、誰かに手伝ってもらうから大丈夫だよ。心配するな。それよりも、らーめん屋じゅんじゅんのために行きなさい。店主命令です」
「えー」
こんな軽い感じの潤一だが、ラーメン作りに関しては、一変して鬼のように厳しくなる。敦貴は、何度も泣きそうになり、辞めたくなった。
だけど、それ以外は、フレンドリーな気のいい兄ちゃんなのだ。
*