触れてしまえば、もう二度と

第二章 3話

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 それから楢崎は、学校に来なくなった。以前と同じ、無断欠席だ。あの日、様子がおかしかったのと関係しているのだろうか。

 心配ではあったが、正直なところ矢神は、楢崎が欠席してくれてホッとする。

 いつまた、彼に責められるかもしれないその状況に、苦痛を感じていた。朝、学校に行くのが困難なほどに。

 だから、彼の姿が目に入らないだけで、矢神は救われたのだ。

 しかし、そんな心境もすぐに変わることになる。



「楢崎、また無断欠席してますね。やっぱり、矢神先生でもダメでしたか」

「榊原先生でも手を焼いてましたからね」



 他の先生たちから嘲るように笑われ、それが癇に障った。矢神は、仕事に対してプライドが高く、負けず嫌いだ。

 全て完璧にできるとは思ってはいないが、楢崎が学校に来ないのは不本意ではない。受け持ったクラスの生徒を学校に来させて、全員卒業させる。それが目標だった。日向のように辛い思いをする生徒が、これ以上増えないように。

 矢神はできるだけのことをやろうと、楢崎の自宅に電話をかけてみることにした。だが、何度かけても留守電になるばかり。

 一度、楢崎の両親とも話をした方がいいかもしれない。

 そう思った矢神は、楢崎の自宅を訪ねることを決める。

 早くに仕事を切り上げて、住所を頼りに楢崎の自宅に行ってみた。迷うことなくすぐに辿り着いたが、そこで思わず息を呑む。庭が広い、豪邸とも言える大きな一軒家だったからだ。表札に楢崎と書かれているから、ここで間違いないのだろう。

 小さく息をついて気合いを入れ直し、震える指でインターホンを押した。

 しばらくしても応答がなかったから、もう一度インターホンを押そうとしたら、ガチャっと音がして「はい」と向こうが返事をする。矢神は慌てて答えた。



「圭太くんのクラス担任をしております、矢神と申します」



 緊張のせいか、高めの声が出てしまった。



「どうぞ」



 相手はそれだけ言って、ぶつりとインターホンが切れた。

 恐る恐る門をくぐり、広い庭を通って玄関まで進んだ。背筋を伸ばし、深呼吸をして身構える。すると、玄関のドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、楢崎本人だった。



「……先生」



 彼は眼鏡を直しながら困ったような顔して、すぐに俯いた。



「話がしたかったんだけど、ご両親は?」

「仕事で、帰りは遅いです」

「そうか」

「せっかくだから入ってください、先生」



 楢崎の言葉に矢神は頷き、家の中に入った。

 そこでも息を呑むような代物がたくさん置いてあって、目を奪われた。高級そうな家具や置物、絵画など、矢神には縁遠そうなものばかりだ。つい落ち着きなく、辺りをきょろきょろと見回してしまった。

 矢神は、楢崎の部屋に案内された。ベッドがあり、机の上にはパソコンが置いてある。他の場所と比べて、彼の部屋は物が少なく、殺風景で寂しい感じがした。



「適当に座っててください。コーヒー淹れてきます」



 楢崎が矢神を置いて部屋を出ようとしたから、引き止める。



「ああ、気遣わなくていいよ。ここ座って」



 矢神は自分が座った目の前の床を指先で叩き、座るように言った。楢崎は素直に頷き、向き合うように正座する。



「何で休んでる? 身体の調子が悪いわけじゃないだろ。オレに会いたくないからか?」



 さっそく話を進めれば、楢崎が見据えてくる。



「先生には会いたい……でも、ボクと付き合ってくれないんですよね」



 眼鏡の向こうの表情は悲しそうだ。



「それは言ったはずだ」

「付き合ってくれるまで学校には行きません」



 はっきりとした口調で言い放ち、膝の上で拳を握る。



「それは困る。授業についていけなくなるし、おまえを留年させるわけにはいかない」

「じゃあ、付き合ってください」



 埒が明かない。同じことの繰り返しだった。彼と話をしても無駄なのだろうか。

 相手は大事な生徒なのに、放っておきたくなる。どうでもいいと諦めの気持ちが、何度も生まれそうになった。



「あの日は、あんなにボクを受け入れてくれたのに」



 楢崎が床に両手をついて、矢神の顔を覗き込むように距離を縮めてきた。



「それは……謝るしかない」

「すごく感じてました。もしかして、男の人を相手にするの初めてじゃないんですか? ボクのことすんなり受け入れてたし、あ、でも少しきつかったですね。夢中だったから忘れてたけど、その時の動画も撮っておきたかったなあ、ねっ」



 軽く首を傾けて、同意を求めてくる。

 答えようがなかった。全く記憶がないのだ。どうして楢崎とそんなことになったのか、あの日の自分に聞いてみたいくらいだ。

 関係を持ってしまった以上、楢崎と付き合うしか方法がないのだろうか。それで学校に来てもらえるなら、その方法を選ぶべきなのか。

 今まで自分が貫いてきたことに反しているが、既に間違いを犯している。引きかえせないところまできているのかもしれない。



「わかりました」



 急に何か閃いたような表情をして、楢崎は胸の前でぽんと手を叩いた。



「それなら、先生からボクにキスしてください。そしたら、ホテルのこともなかったことにしますし、学校にもきちんと行きます」

「え?」



 キス――それだけで、許してもらえるなら。

 矢神は即座に頭を振った。一瞬でも、そう考えた自分が嫌になる。

 生徒と教師の関係を超えて、一度は間違いを犯してしまったかもしれない。それでも、これ以上同じことを繰り返してはいけないのだ。

 改めてそう決意すれば、楢崎が腰を上げ、矢神の首に腕を絡めてくる。



「先生って、たまにイラッときますね。ボクだけのものになってよ」



 突然その場で矢神を押し倒した挙句、馬乗りになって首を絞めてきた。



「……ぁっ」



 矢神は首を絞める楢崎の腕に手をかけ、バタバタと抵抗するように脚を動かすが、びくともしない。この細腕のどこにそんな力があるのだろうか。



「ねえ、苦しい? ボクもすごく苦しいよ。先生、このままだと死んじゃうよ、ボク、殺人者になっちゃう、早く答えて、ボクと付き合う? ねえ、聞いてる?」



 矛盾していた。首を絞められていては、上手く喋ることができない。答えを聞く状態ではないだろう。

 息もできず、苦しくて、次第に矢神の頭はぼうっとしてくる。遠のきそうな意識の中で、薄ら笑いを浮かべている楢崎の顔が視界に入っていた。

 こんなことをさせているのは、自分のせいなのだ。矢神は後悔しながら、もうだめだと思った。

 次の瞬間、楢崎の部屋の扉がガチャリと開く。



「圭太」



 名を呼ばれたと同時に、楢崎はびくりと身体を震わせ、矢神を解放した。



「ごほっ、ごほっ、ごほっ」



 急に圧力から解放され、激しく咽た。

 楢崎はというと、矢神の上に乗ったまま怯えるように相手の名を口にする。



「まさちゃん……」

「何してる」



 極めて冷静な声で、その主は言葉を吐いた。



「こ、これは、あの……」



 矢神は、見覚えのある姿に、頭を巡らせた。息を整えながら記憶を辿れば、思い出す。そう、彼は、クラスメートである合田《ごうだ》匡《まさし》だった。



「先生、何で、圭太に跨れてるんですか」



 答えようと思ったが、意識が朦朧としていて、上手く言葉を口にすることができなかった。



「違うの、違うの、まさちゃん」



 矢神に馬乗りになっていた楢崎は、急にしおらしい声を出して矢神から降り、合田に近づいた。落ち着いてきたのか、矢神は身体を起こし、声を出す。



「楢崎の様子を、……見に、」

「そうですか、じゃあ、もうけっこうです、オレがいるんで。先生は帰ってください」



 厳しい声でぴしゃりと言われ、何も言い返せない。学校で見る合田とは、だいぶ印象が違った。



「……わかった」

「それと、圭太のことは、放っておいてください」



 意味がわからなかった。だけど、放っておくわけにはいかないのだ。



「それはできない。オレは担任だから、君たちを見守る。困っていることがあれば力になる」

「ありがとうございます。圭太は、オレがきちんと学校に行かせますから、先生は帰ってください」



 この場を去れと言わんばかりの剣幕で、合田は矢神を見据えた。

 今日のところは、これ以上何を言っても無意味のような気がした。諦めるしかない。



「……楢崎、明日は学校に来いよ」



 そう言い残し、矢神は楢崎の家を後にした。

 いったい何しに、自宅まで来たのかわからない状態だった。何も解決されていない。教師とは何なのだろう。生徒のためと言いつつ、自分のために動いているようにも思えた。

 この問題は、ずっと続くのかもしれない。矢神が諦めて楢崎の言うことを聞くか、楢崎が矢神を許すまで。

 








「ただいま」



 帰宅すれば、エプロン姿の遠野が、小走りで玄関まで来て出迎えてくれた。



「おかえりなさい、矢神さん」



 その笑顔が、優しくて、沈んでいた心が癒されていく。まるで砂漠のオアシスのようだ。思わず、縋ってしがみつきそうになったのを辛うじて堪えた。心も身体も、かなり疲れているのを実感する。



「矢神さん、最近顔色優れませんね。無理してるんじゃないですか?」

「少しくらい無理しないとダメだろ。担任になったんだ、生徒のこと、もっとわかってやらないと」

「……そうかもしれませんが。今夜は食べられそうですか? 夏休みからずっと食欲ないですよね。今日は少し涼しいので、温かいうどんにしてみました。野菜あんかけうどんです」

「うん、食べるよ」

「良かった。じゃあ、準備しますね」



 いそいそとキッチンに向かう途中に、遠野が再びこちらを振り返った。



「矢神さん」

「ん?」

「前も言いましたけど、何かあったらオレにも相談してくださいね。同じ二年の担任ですから、役に立つこともあると思いますよ」

「……ああ」



 ありがたい申し出だったが、相談できるわけがなかった。

 どんな風に話しても同じ。生徒と関係を持ったことを言ったら、軽蔑されるだけだ。

 遠野の中で自分は美化されていると、矢神は感じていた。だから余計、遠野にだけは知られたくなかった。他の誰よりも、そんな風に見られるのは嫌だったのだ。



 
 
 


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