触れてしまえば、もう二度と
第二章 3話
1ページ/1ページ
それから楢崎は、学校に来なくなった。以前と同じ、無断欠席だ。あの日、様子がおかしかったのと関係しているのだろうか。
心配ではあったが、正直なところ矢神は、楢崎が欠席してくれてホッとする。
いつまた、彼に責められるかもしれないその状況に、苦痛を感じていた。朝、学校に行くのが困難なほどに。
だから、彼の姿が目に入らないだけで、矢神は救われたのだ。
しかし、そんな心境もすぐに変わることになる。
「楢崎、また無断欠席してますね。やっぱり、矢神先生でもダメでしたか」
「榊原先生でも手を焼いてましたからね」
他の先生たちから嘲るように笑われ、それが癇に障った。矢神は、仕事に対してプライドが高く、負けず嫌いだ。
全て完璧にできるとは思ってはいないが、楢崎が学校に来ないのは不本意ではない。受け持ったクラスの生徒を学校に来させて、全員卒業させる。それが目標だった。日向のように辛い思いをする生徒が、これ以上増えないように。
矢神はできるだけのことをやろうと、楢崎の自宅に電話をかけてみることにした。だが、何度かけても留守電になるばかり。
一度、楢崎の両親とも話をした方がいいかもしれない。
そう思った矢神は、楢崎の自宅を訪ねることを決める。
早くに仕事を切り上げて、住所を頼りに楢崎の自宅に行ってみた。迷うことなくすぐに辿り着いたが、そこで思わず息を呑む。庭が広い、豪邸とも言える大きな一軒家だったからだ。表札に楢崎と書かれているから、ここで間違いないのだろう。
小さく息をついて気合いを入れ直し、震える指でインターホンを押した。
しばらくしても応答がなかったから、もう一度インターホンを押そうとしたら、ガチャっと音がして「はい」と向こうが返事をする。矢神は慌てて答えた。
「圭太くんのクラス担任をしております、矢神と申します」
緊張のせいか、高めの声が出てしまった。
「どうぞ」
相手はそれだけ言って、ぶつりとインターホンが切れた。
恐る恐る門をくぐり、広い庭を通って玄関まで進んだ。背筋を伸ばし、深呼吸をして身構える。すると、玄関のドアがゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、楢崎本人だった。
「……先生」
彼は眼鏡を直しながら困ったような顔して、すぐに俯いた。
「話がしたかったんだけど、ご両親は?」
「仕事で、帰りは遅いです」
「そうか」
「せっかくだから入ってください、先生」
楢崎の言葉に矢神は頷き、家の中に入った。
そこでも息を呑むような代物がたくさん置いてあって、目を奪われた。高級そうな家具や置物、絵画など、矢神には縁遠そうなものばかりだ。つい落ち着きなく、辺りをきょろきょろと見回してしまった。
矢神は、楢崎の部屋に案内された。ベッドがあり、机の上にはパソコンが置いてある。他の場所と比べて、彼の部屋は物が少なく、殺風景で寂しい感じがした。
「適当に座っててください。コーヒー淹れてきます」
楢崎が矢神を置いて部屋を出ようとしたから、引き止める。
「ああ、気遣わなくていいよ。ここ座って」
矢神は自分が座った目の前の床を指先で叩き、座るように言った。楢崎は素直に頷き、向き合うように正座する。
「何で休んでる? 身体の調子が悪いわけじゃないだろ。オレに会いたくないからか?」
さっそく話を進めれば、楢崎が見据えてくる。
「先生には会いたい……でも、ボクと付き合ってくれないんですよね」
眼鏡の向こうの表情は悲しそうだ。
「それは言ったはずだ」
「付き合ってくれるまで学校には行きません」
はっきりとした口調で言い放ち、膝の上で拳を握る。
「それは困る。授業についていけなくなるし、おまえを留年させるわけにはいかない」
「じゃあ、付き合ってください」
埒が明かない。同じことの繰り返しだった。彼と話をしても無駄なのだろうか。
相手は大事な生徒なのに、放っておきたくなる。どうでもいいと諦めの気持ちが、何度も生まれそうになった。
「あの日は、あんなにボクを受け入れてくれたのに」
楢崎が床に両手をついて、矢神の顔を覗き込むように距離を縮めてきた。
「それは……謝るしかない」
「すごく感じてました。もしかして、男の人を相手にするの初めてじゃないんですか? ボクのことすんなり受け入れてたし、あ、でも少しきつかったですね。夢中だったから忘れてたけど、その時の動画も撮っておきたかったなあ、ねっ」
軽く首を傾けて、同意を求めてくる。
答えようがなかった。全く記憶がないのだ。どうして楢崎とそんなことになったのか、あの日の自分に聞いてみたいくらいだ。
関係を持ってしまった以上、楢崎と付き合うしか方法がないのだろうか。それで学校に来てもらえるなら、その方法を選ぶべきなのか。
今まで自分が貫いてきたことに反しているが、既に間違いを犯している。引きかえせないところまできているのかもしれない。
「わかりました」
急に何か閃いたような表情をして、楢崎は胸の前でぽんと手を叩いた。
「それなら、先生からボクにキスしてください。そしたら、ホテルのこともなかったことにしますし、学校にもきちんと行きます」
「え?」
キス――それだけで、許してもらえるなら。
矢神は即座に頭を振った。一瞬でも、そう考えた自分が嫌になる。
生徒と教師の関係を超えて、一度は間違いを犯してしまったかもしれない。それでも、これ以上同じことを繰り返してはいけないのだ。
改めてそう決意すれば、楢崎が腰を上げ、矢神の首に腕を絡めてくる。
「先生って、たまにイラッときますね。ボクだけのものになってよ」
突然その場で矢神を押し倒した挙句、馬乗りになって首を絞めてきた。
「……ぁっ」
矢神は首を絞める楢崎の腕に手をかけ、バタバタと抵抗するように脚を動かすが、びくともしない。この細腕のどこにそんな力があるのだろうか。
「ねえ、苦しい? ボクもすごく苦しいよ。先生、このままだと死んじゃうよ、ボク、殺人者になっちゃう、早く答えて、ボクと付き合う? ねえ、聞いてる?」
矛盾していた。首を絞められていては、上手く喋ることができない。答えを聞く状態ではないだろう。
息もできず、苦しくて、次第に矢神の頭はぼうっとしてくる。遠のきそうな意識の中で、薄ら笑いを浮かべている楢崎の顔が視界に入っていた。
こんなことをさせているのは、自分のせいなのだ。矢神は後悔しながら、もうだめだと思った。
次の瞬間、楢崎の部屋の扉がガチャリと開く。
「圭太」
名を呼ばれたと同時に、楢崎はびくりと身体を震わせ、矢神を解放した。
「ごほっ、ごほっ、ごほっ」
急に圧力から解放され、激しく咽た。
楢崎はというと、矢神の上に乗ったまま怯えるように相手の名を口にする。
「まさちゃん……」
「何してる」
極めて冷静な声で、その主は言葉を吐いた。
「こ、これは、あの……」
矢神は、見覚えのある姿に、頭を巡らせた。息を整えながら記憶を辿れば、思い出す。そう、彼は、クラスメートである合田《ごうだ》匡《まさし》だった。
「先生、何で、圭太に跨れてるんですか」
答えようと思ったが、意識が朦朧としていて、上手く言葉を口にすることができなかった。
「違うの、違うの、まさちゃん」
矢神に馬乗りになっていた楢崎は、急にしおらしい声を出して矢神から降り、合田に近づいた。落ち着いてきたのか、矢神は身体を起こし、声を出す。
「楢崎の様子を、……見に、」
「そうですか、じゃあ、もうけっこうです、オレがいるんで。先生は帰ってください」
厳しい声でぴしゃりと言われ、何も言い返せない。学校で見る合田とは、だいぶ印象が違った。
「……わかった」
「それと、圭太のことは、放っておいてください」
意味がわからなかった。だけど、放っておくわけにはいかないのだ。
「それはできない。オレは担任だから、君たちを見守る。困っていることがあれば力になる」
「ありがとうございます。圭太は、オレがきちんと学校に行かせますから、先生は帰ってください」
この場を去れと言わんばかりの剣幕で、合田は矢神を見据えた。
今日のところは、これ以上何を言っても無意味のような気がした。諦めるしかない。
「……楢崎、明日は学校に来いよ」
そう言い残し、矢神は楢崎の家を後にした。
いったい何しに、自宅まで来たのかわからない状態だった。何も解決されていない。教師とは何なのだろう。生徒のためと言いつつ、自分のために動いているようにも思えた。
この問題は、ずっと続くのかもしれない。矢神が諦めて楢崎の言うことを聞くか、楢崎が矢神を許すまで。
「ただいま」
帰宅すれば、エプロン姿の遠野が、小走りで玄関まで来て出迎えてくれた。
「おかえりなさい、矢神さん」
その笑顔が、優しくて、沈んでいた心が癒されていく。まるで砂漠のオアシスのようだ。思わず、縋ってしがみつきそうになったのを辛うじて堪えた。心も身体も、かなり疲れているのを実感する。
「矢神さん、最近顔色優れませんね。無理してるんじゃないですか?」
「少しくらい無理しないとダメだろ。担任になったんだ、生徒のこと、もっとわかってやらないと」
「……そうかもしれませんが。今夜は食べられそうですか? 夏休みからずっと食欲ないですよね。今日は少し涼しいので、温かいうどんにしてみました。野菜あんかけうどんです」
「うん、食べるよ」
「良かった。じゃあ、準備しますね」
いそいそとキッチンに向かう途中に、遠野が再びこちらを振り返った。
「矢神さん」
「ん?」
「前も言いましたけど、何かあったらオレにも相談してくださいね。同じ二年の担任ですから、役に立つこともあると思いますよ」
「……ああ」
ありがたい申し出だったが、相談できるわけがなかった。
どんな風に話しても同じ。生徒と関係を持ったことを言ったら、軽蔑されるだけだ。
遠野の中で自分は美化されていると、矢神は感じていた。だから余計、遠野にだけは知られたくなかった。他の誰よりも、そんな風に見られるのは嫌だったのだ。
Copyright (c) Sept Couleurs All rights reserved.