触れてしまえば、もう二度と

第二章 2話

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「楢崎は真面目に学校来てますね。矢神先生のおかげでしょうか、さすがですね」



 同じようなことをいろんな先生から言われた。楢崎の無断欠席は、榊原先生でも頭を悩ませていたからだろう。

 だけど、楢崎が学校に来ているのは矢神のおかげではない。楢崎は自分の意思で学校に来ている。矢神は何もしていないのだ。

 帰りのホームルームが終わり、矢神が教室を出ると、後ろから軽く肩を叩かれた。振り返れば、そこにいたのは楢崎だった。



「楢崎、どうした?」



 思わず、声が上擦りそうになった。あれから楢崎とは、会話どころか視線すら合わせていない。そうしていたのは、矢神の方だった。元々楢崎は、積極的に授業に参加するタイプではなかったから、そうしていても誰も不自然には感じなかったはずだ。



「……相談が、あるんですけど」



 か細い声を出し、俯き加減で楢崎は言った。



「相談? 今日じゃないとダメか?」



 なるべくなら楢崎と関わりたくなかった。担任である以上それは無理な話ではあるが、彼とどう接したらいいのか、まだわからずにいた。



「今日がいいです」



 俯いたままだが、楢崎ははっきりと答えを口にした。少し迷ったが、いくら関わりたくないからといって生徒をないがしろにはできない。それに、彼との関係は自分が蒔いた種なのだ。



「わかった。相談室で待ってろ。先生もすぐ行くから」



 矢神がそう伝えると、楢崎が口角を吊り上げ、笑みを浮かべたように見えた。





 職員室の自分の机を整理してから、矢神は相談室へ向かった。

 ノックをして中に入ると、椅子に座っていた楢崎は顔を上げた。席を立とうとしたので、それを制止して楢崎の目の前に座る。



「何かあったか? 相談って」



 学校に出てきてくれることで安心していたが、彼の方から相談を持ちかけてくるとはよっぽどのことだ。やはり成績のことだろうか、それともクラスメートの関係で悩んでいるのか。

 いろいろ頭を巡らせていれば、楢崎が眼鏡を指先で直しながら、口元を不気味に歪める。



「先生、ボクの恋人になってくれる決心がついたかなと思いまして」

「え?」

「だいぶ時間をあげましたよ。もう答えが出てもいい頃ですよね」

「それは……」

「もしかして、このままボクのことを避けて、なかったことにするつもりだったんですか?」



 ほとんど図星だけに、何も言い訳ができない。おとなしい楢崎が、こんな風に自分から行動を起こしてくるなんて予想していなかった。矢神の中で考えがまとまったら伝えるつもりで、それまでは距離を置こうと思っていた。悪い大人だ。



「そんなこと、させませんよ」



 楢崎は、悔しそうに唇を震わせている。



「前にも言ったように、オレは生徒とは付き合わない」



 楢崎が納得するような答えは、何も浮かんでいなかった。だけど、これだけは絶対に譲れない。既に、生徒と一線を越えるという過ちを犯しているのだから尚更だ。



「先生、脱いでください」

「は!?」



 楢崎の唐突な申し出に、自分でもびっくりするくらいおかしな声が出た。

 彼とは、時折会話が噛み合わなくなる。いくら冷静に話を進めようとしても、すぐに話を逸らされてしまうような気がしていた。それは天然なのか、意図的なのか。

 生徒の中には、いろんな子たちがいる。それぞれに合わせて接してきた。その中でも楢崎は、個性的というのか、独特な雰囲気を持っている。



「ボクの言うこと聞けないんですか?」

「ここは学校だ」



 いたって真面目に答える矢神に、楢崎は可笑しそうに笑った。そして、おもむろに立ち上がり、ゆっくりと矢神の傍に歩み寄ってくる。



「学校じゃない場所ならいいんですか? 大丈夫ですよ、先生。こっちに来てください」



 楢崎に手を引かれ、矢神は相談室の奥の方へと移動させられた。



「ここまで来ると、死角になって扉から見えません」

「……楢崎」

「ボクが、脱がしましょうか? あの時みたいに」



 そう言いながら楢崎は、口元に笑みを浮かべて矢神の胸に手を伸ばす。ネクタイを緩めて、外したそれを無造作に床に捨てた。再び胸に手を伸ばし、ワイシャツのボタンを丁寧に外していく。



「ボクも細いって言われますけど、矢神先生もすごく細いですよね」



 眼鏡を持ち上げ、矢神を観察するようにじっくり見ている。

 抵抗はできたはずだ。だけど矢神は、楢崎がする動作を黙って見ていた。そうすることでしか、償えないと思ったからだ。

 はだけたワイシャツから見える肌に、楢崎の指が触れる。冷たい感触に、身体がびくりと震えた。



「ここでするセックスって、すごく興奮するんですよ」



 まるで、経験があるかのような言い方だった。



「ねえ、先生、してみます?」



 楢崎は甘く囁くように呟き、小首を傾げる。分厚い眼鏡で、あまり表情が確認できないのに、その姿が妙に艶っぽく感じられた。



「何言って――」



 矢神が言葉を最後まで口にする前に、楢崎がワイシャツの下から背中に腕を回し、抱きしめてきた。



「ボク、もう勃ってます。わかりますよね?」



 太ももに硬いものがあたっていたから、それはわかった。なるべく楢崎を挑発しないように、静かな声で言い聞かせる。



「楢崎、君とは、もう、そういう関係にはならない」

「どうしてですか? 学校に言ってもいいんですか? このままボクのものになってください」



 早口でまくしたてられた後、矢神に唇を寄せてきた。顔を背ければ、首元に唇を押し付けてくる。



「楢崎!」



 やめさせようと楢崎の身体を押しやった。だが、反対に壁に押さえつけられ、低い声で彼は言う。



「責任、取ってくれるんでしょ?」



 矢神は動けなくなった。それをいいことに、楢崎は舌を首筋に這わせた。生ぬるい舌の感触に、矢神は嫌悪感しか抱かない。耐えるように目を瞑っていれば、そのまま胸の方へと唇を移動させていく。吸い付くような音を立てながら。

 ここで身を委ねれば、彼は満足してくれるのだろうか。きっと、今が終わってもまた次がある。矢神が楢崎と付き合うまで続くのだ。彼の好きなようにさせていても解決はされない。

 どう償えばいいのかは全くもってわからない。それでも前に進むには、楢崎が納得してくれるまで話し合うしかないのではないか。過ちを繰り返すよりは、いいはずだ。

 そう思った瞬間、携帯電話が鳴り響き、驚きで二人は身体を小さく震わせた。

 矢神の携帯電話は職員室に置いてきていたから、楢崎のものなのだろう。その音が鳴った途端、楢崎は急に矢神から身体を離し、震える手でポケットから自分の携帯を取り出した。画面をしばらく眺めていた後、怖々と電話に出る。



「はい」



 相手が誰なのかは、矢神にはわからなかった。だけど、電話の相手に対して楢崎はすごく低姿勢だった。しかも、話しているうちにどんどん顔が青ざめていく。電話を持つ反対の手で、眼鏡を何度も上げたり、髪の毛を掴むように触ったりと落ち着かない。ぼそぼそと小さな声で話していたから、内容までは理解できなかったが、まるで相手を恐れているようにも感じられた。

 電話を切った後、楢崎はふらふらと鞄を持って相談室から出ようとした。様子がおかしい楢崎が心配になり、矢神は声をかける。



「楢崎、大丈夫か?」



 その問いかけに、楢崎はただ「帰ります」と答えるだけだ。

 

「おい」



 先ほどまでとは違い、矢神の方には一切目もくれず、出て行ってしまう。

 ネクタイは外れ、ワイシャツがはだけた状態の矢神は、楢崎を追いかけることはできなかった。ただ、突然襲いかかった嵐が過ぎ去り、ホッとして力が抜ける。

 崩れるようにしゃがみ込めば、何だか泣きたくなるのだった。

 
 
 


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