触れてしまえば、もう二度と

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「矢神さん、ご飯冷めちゃいますよ」

「え?」



 顔を上げれば、目の前に遠野の姿があった。彼の声で現実に引き戻される。家に帰ってからもずっと、矢神は頭を悩ませていたのだ。



「さっきからぼーっとして大丈夫ですか?」

「ああ……」



 取り繕うように、テーブルの上に並んでいた箸と味噌汁の器を取って口に運んだ。



「やっぱり校長先生のお説教だったんですね。笑顔で厳しいこと言うところが苦手なんですよ」

「説教じゃないよ……」

「そうなんですか? オレ、頼りないですけど、愚痴るだけでもすっきりすると思うんで何でも言ってくださいね」

「ん……」



 言うつもりはなかった。そもそも遠野に相談したり、愚痴ったりしたら、面白おかしく流されそうな気がして。

 だけど、遠野の作った野菜たっぷりの具だくさんの味噌汁が妙に上手くて、自然と口から言葉が出ていた。



「榊原先生が辞めるみたいで、その後任を頼まれた」

「すごいじゃないですか。榊原先生が辞めるのはちらっと聞いていたんですが、矢神さんが後任なら頼もしいですね」

「まだ返事はしていない」

「どうしてですか?」

「……うん、ちょっと考えるところがあって」

「日向くんのことですか?」

「何で!?」



 遠野の口からその名前が出てくるとは思わなかったから、驚いて軽く咳き込んだ。



「あ、違ったらすみません」



 日向誠一《ひなたせいいち》、退学した生徒の名前だ。

 普段なら生徒が退学しても、すぐに忘れられてしまうような感じだった。だが、日向の場合は親が何度も学校に訪れて騒ぎになったから、遠野も名前を覚えていたのだろう。



「日向は成績がかなり良かったら大学を勧めた。それが一番あいつのためにいいと思ったからだ。だけど、日向がやりたいことは大学に行くことじゃなかった。他にやりたいことがあったんだ。誰にも言えず、悩んで苦しんでいたんだろうか。オレがもっと早く気づいてやれば、あんなことにはならなかったかもしれない……」



 なぜかわからなかったが、誰にも言ったことのない話を聞かれてもいないのにべらべらと喋っていた。言わずにはいられなかったのだ。自分のことを話すのは苦手としている矢神にしては、珍しいことだった。



「そんなに思われているなんて日向くんは幸せですね。きっと矢神さんの思いは届いてますよ」

「届くわけない。あいつの気持ちをわかってやれてなかったんだぞ。学校を出て行く最後の時も、オレの顔を一度も見てはくれなかった」



 担任だというのに生徒を守ることができなかった。彼は絶望しただろう。今もどうしているのか何も知らない。

 連絡をしてみようと何度も思ったが、何て声をかけていいか言葉が見つからなかったのだ。



「教師も人間です。日向くんの時は気づけなかったかもしれないけど、次はきっと生徒の気持ちをわかってあげられますよ」



 落ち着いた静かなトーンで言葉にした遠野は、優しい笑顔を浮かべていた。

 そう言われるだけで救われるような気がした。自分自身を信じてみようと思えることができる。

 彼のように辛い思いをさせないために、生徒のことを前以上に気にかけて考えていけばいい。ただそれだけのこと。

 だが、日向のことを思い出すと、居たたまれない気持ちになる。

 また同じことを繰り返すだけなのでは、と前に進む一歩を踏み込めずにいた。

 
 
 


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