触れてしまえば、もう二度と
第二章 <6>
遠野の看病のおかげか、矢神の熱はすぐに下がった。
多少の熱なら休んだりはしないが、調子が悪ければ、生徒や他の教師に迷惑をかけることもある。だからこそ、日頃から体調管理には充分に注意していたのに、油断していたようだ。
「矢神さん、大丈夫でしたか?」
自宅の玄関を開けた途端、先に帰っていた遠野が慌てるようにやってきた。何事かと思って、少し驚いてしまう。
「あ? うん、大丈夫だけど……」
「良かった、今日、一日中忙しくて、矢神さんに声かけられなかったんですよね」
確かに遠野は、席に座ることなく、朝からずっと慌ただしく過ごしていたのを矢神も目にしていた。
熱を出したあの日以降、何かといえば、矢神を心配するような言葉をかけてくる。最初は有難いという気持ちもあったが、こう何度も続くと、いい加減うんざりしてくるのだ。
「子どもじゃないんだから、そんな心配する必要もないだろ」
呆れ口調で、遠野をほったらかしてそのまま自分の部屋に行けば、なぜか後をついてくる。
「心配ですよ。昨晩も、咳してましたよね……」
「今朝、何ともないって言っただろ」
「本当ですか?」
そう言いながら顔を近づけてきたので、胸を強く押しやった。
「もう熱はない。オレのことは放っておけ」
きっぱり言って、部屋から追い出すために、しっしっと手で払った。
遠野は不満そうな表情をしたが、すぐに何かを思い出したかのようにはっとする。
「矢神さん、ちょっと気になることがあって」
「何だよ」
ネクタイを外し、ワイシャツのボタンに手をかけたところで、じーっと観察するように見てくるから、着替えにくくなった。
イラつく気持ちを落ち着かせるようにして、どっかりベッドに腰を下ろす。
「で? 気になることって? さっさと話せよ」
「はい、矢神さんのクラスの楢崎くんなんですが」
「……楢崎が、どうかしたか?」
彼の名前が出てきて、急に心臓が跳ね上がった。
「彼、身体が弱いんでしょうか。いつも調子が悪いからって体育の授業をお休みするんです」
「ずっと休んでるのか?」
「そうなんです、どうしたらいいですかね……」
休みがちな楢崎は、学校に来たとしても医務室で一日を過ごし、授業に出ないことが多い。遠野だけじゃなく、他の教師からも相談を受けていた。
「わかった、オレが楢崎と話してみるよ」
「ありがとうございます」
楢崎の名前に敏感な自分がいた。何を言われるかと、つい構えてしまった。彼の話題が終わってほっとしていれば、遠野が再び話をする。
「それと、もう一つ」
「まだ、あるのかよ」
遠野は、まっすぐとした眼差しで、語り始めた。
「オレ、なるべく我慢しようと思ってるんですけど、つい矢神さんを目で追っちゃうんです」
どうでもいいことを打ち明けられ、がっくりと肩を落とすしかない。
「それは、今すぐ止めろ……」
「ですよね、オレが矢神さんのこと好きだって、みんなにバレちゃいますよね」
「いや、それはないから心配するな」
「そうですか?」
「ああ、普通は男が男を好きだって思わないから」
しれっとして答えれば、少し考えたような仕草をしたあと、口にする。
「でも、遠野先生は矢神先生が好きなんですよねって、楢崎くんに言われたんです」
「は? 何で、楢崎が?」
「だから、バレてるのかなって……」
そんなに遠野の行動は、わかりやすいのだろうか。少し心配になる。
同居して、一緒にいる時間が増えていくうちに、馴れ合いの関係になるのも嫌だった。だから矢神は、学校では極力、一線を引くためにも遠野とは距離を置くようにしている。だが、それも無意味だったのかもしれない。思い起こせば、矢神が距離を置いていても、遠野の方から声をかけてきていた。
「おまえ、何て答えたんだよ」
「好きだよって」
「バカか!」
思いっきり蹴ってやろうと足を伸ばした。だが、ひょいっと簡単にかわされる。
「そこで、否定しても何かおかしいじゃないですか。あ、でも、尊敬しているということは付け加えました」
「きっちり否定しろよ。生徒なんて、おもしろおかしく噂して楽しむ奴らばかりなんだから」
「大丈夫ですよ、普通は男が男を好きだって思わないですから、その噂が流れても冗談だってわかります」
「ネタにされそうだ……」
頭を抱えていれば、遠野が少しトーンを落とした声を出す。
「それはいいんですけど、心配なことが……」
「何が?」
これ以上、どんな心配なことがあるというのだろうか。顔を上げると、あまり見たことのない真剣な面持ちで、こちらに視線を向ける。
「楢崎くんって、どんな生徒かよくわからないんです」
「……普通の生徒だよ」
何を『普通』というのか、矢神に説明できる自信はなかったが、そう答えていた。遠野は、表情を変えないまま続けた。
「オレが矢神先生のこと好きだってわかったからなのか、楢崎くんも矢神先生のことが大好きだって言うんです」
「……そう」
話しの展開が嫌な方向に進んでいて、今すぐにでもこの話題を終わらせたかった。
「いい先生だもんねって言ったら、彼は恋愛感情だって言いました。学生の頃は先生に憧れることってよくあることだから、恋愛で好きになってもいいと、オレは思うんです」
「くだらねー」
「え?」
「生徒が誰を好きだの、嫌いだの、そんなことどーでもいいことだろう。オレたちには関係ない。聞き流しておけばいいんだよ。すぐに飽きる」
「あ、でも……」
「楢崎には、体育の授業に出るように言っとくから。もういいだろ。着替えるから、あっち行ってろ」
遠野の身体を押しやり、部屋から追い出そうとしたが、扉のふちにつかまって一向に出て行こうとしない。
「まだ、話の続きが」
「あとで聞いてやる。今は出てけ」
手と足を使って、遠野を部屋から追い出そうとしたが、全くびくともしない。
「待って、これだけ聞いてください。楢崎くんが、矢神先生と、あの、身体の関係があるとか言い出して」
遠野の言葉に、一気に血の気が引いた。遠野の身体から手と足を離し、部屋から追い出すことも忘れ、その場に茫然と立ち尽くす。
「矢神さん、大丈夫ですか?」
顔の目の前で、遠野がひらひらと手を振る。
「ああ……」
「きっと、楢崎くんはオレのこと困らせたかったんだと思います。矢神さんとオレが同居していることも知ってるみたいだったから、対抗するようにそんなこと言ったのかもしれません。でも、他の人にも言ってたら問題になりそうだから、相談したくて……」
楢崎が、なぜ遠野に言ったのか、全く見当がつかなかった。だけど、これだけはわかる。解決したと思っていたのは自分だけで、楢崎は納得していなかったということだ。
「オレのせいで、何かおかしなことになって、すみません」
心配そうに眉を下げ、遠野が顔を覗き込んできた。
「……おまえのせいじゃない。明日、楢崎ときちんと話するから、何も心配するな」
遠野の手前、矢神は冷静を装っていたが、内心ではかなり動揺していた。
翌日の放課後、矢神は楢崎を呼び出し、話し合うことにした。
「ふふっ、やっぱり矢神さん、ボクを呼んでくれたね。二人で話したかったんだ」
相談室で待っていた楢崎は、かなり上機嫌だ。興奮気味に眼鏡を押さえ、声高々に喜びを表す。
「楢崎、『さん』じゃなくて『先生』って呼べって言っただろ」
「もうそんなこと、どうでもいいじゃない。遠野先生から聞いたんでしょ?」
「どういうつもりだ?」
「ん? あいつは信じてなかったね。同居してるからって優位に立ってるって勘違いしてるんだ。ムカツク」
「楢崎、きちんと話を聞け。この間、おまえは納得してくれたんだと、オレは思ってた。でも、違うのか?」
矢神の言葉に、楢崎はちっと舌打ちをした。そして、低い声でぼそぼと呟く。
「裏切ったのそっちだろ、あんなやつと……」
「おまえ、舌打ちをするな」
矢神が声を荒げたと同時に、席に座っていた楢崎が立ち上がったので、思わず一歩引いて身構えてしまう。
「ねえ、これからさ、一人、一人、先生に報告していこうか。ボクたちの関係、誰かは信じてくれるかも」
「そんなことしたら、オレだけじゃなく、おまえまで退学になるぞ」
「矢神さん、怖いの? ボクはいいよ、別に退学になったって」
楢崎はゆっくりと距離を縮めてくる。そして矢神の首に腕を回して、抱きついてきた。くつくつと笑う声が耳元に響く。
「一緒に堕ちるところまで堕ちよう。楽になれるよ」
平然とした態度だった。学校を辞めることに何の躊躇いもないようだ。むしろ、今の状況を楽しんでいる。
矢神の考えは甘かった。何もなかったかのように事が治まると思っていたが、違ったのだ。
過ちを犯したのなら、償わなくてはならない。
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