触れてしまえば、もう二度と * 番外編 *
暑い夏の夜に 02
そして、花火大会の当日。
仕事が終わった後の夕方、二人は浴衣に着替えた。
帯が結べないという矢神に、遠野は綻びそうになる顔を引き締めながら、帯を結んであげる。
浴衣の上からでも矢神に触れられるのだから、嬉しくて仕方がない。また浴衣だと、本当に痩せているのがよくわかった。これで太ったなんて言うのだから驚いてしまう。
「杏さんって、男物、持ってるんだな」
矢神の言葉に、遠野は笑いを堪えることができなかった。杏の名前を出した時の矢神が、何とも言えない表情をしていたのは、このことを意味していたのだろう。
杏というのは、バーを経営している遠野の友人だ。男性だが、女装の趣味があり、店でも女性の姿をしている。その姿は、誰が見ても男性だとは思わないだろう。
「恋人に、男物の浴衣を着て欲しいとお願いされて買ったそうです。一度しか着てないそうですが」
「恋人って、男?」
「はい、男です」
「ふーん……」
矢神は微妙な表情を浮かべて、何かを考えているようだった。
杏から借りた浴衣は、グレーに黒の縞が入り、ところどころに紫色の細い縞も入っていてセンスが良い。白い帯も合っている。
帯が結び終わった後、矢神は自分の姿を鏡に映していた。なぜか納得いかないようで、首を傾げる。
「……何か、派手じゃないか?」
「そんなことないですよ。すごく似合ってます」
可愛い浴衣姿の矢神に、今すぐにでも抱きつきたいくらいだった。だが、冷静を装い、落ち着いた声で言った。
この姿が見たいがために、この計画を練り、杏にも浴衣を借りたのだ。それを知られるわけにはいかなかった。
その後すぐに、遠野も浴衣に着替え、リビングで待つ矢神の元に急いだ。
「それじゃ、出かけましょうか」
矢神が、遠野を上から下まで観察するように見た後、何か言いたげな顔をする。
遠野の浴衣は自前で、白に近い生成り地に、薄いグレーの縞が入ったものだ。遠目では白の浴衣に見えるだろう。帯は落ち着いた紺色にした。
「オレ、おかしいですか?」
浴衣を見せるように手を広げれば、矢神はぷいっと顔を横に向けて、視線を逸らす。
「いや、別に……」
不思議に思ったが、あまり気にしないでおくことにした。
不安になって気分が落ち込んでは、もったいない。幸せな時間は、これからやってくるのだ。
二人が祭りの会場に着いた頃には、辺りは暗くなっていた。
家族連れや恋人同士など、大勢の人たちが集まっている。それは、昨日見回りで来た時よりも多く感じた。そして、花火大会があるからなのか、浴衣姿の人がほとんどだ。
「初日より、人多いな」
矢神がうんざりするように言った。
「やっぱりそうですか? オレが昨日見回りに来た時も、こんなにはいませんでした」
蒸し暑い気温と人込みの熱気で苦しくなりそうだった。それに、大勢の人で溢れているから、自由に移動できなくて、かなりストレスだ。
仕事じゃないのに、矢神をこんなところに連れてきてしまった。大丈夫だろうか。
遠野はそんな思いでいっぱいになる。
「よし、まずはチョコバナナかな」
「え?」
一瞬、矢神が何を言ったのか理解できなかった。思わずじっと見つめていれば、一気に不機嫌な顔になる。
「何だよ」
「えっと、食べるんですか?」
「腹、空かねえの?」
「そういえば、空きましたね」
腹が空いたからチョコバナナ、というのはどうかと思ったが、あえて口には出さなかった。
矢神は、チョコバナナが売っている屋台の前で足を止めた。子どもたちが喜びそうなカラフルなチョコバナナが、たくさん並んでいる。
「おまえは?」
「あ、オレは、隣の店のたこ焼きにします」
「あっそ」
たこ焼きの出店には、お客が一人いて、焼きたてのたこ焼きと一緒に美味しそうな生ビールを注文していた。こんな暑い日には、やっぱりビールが飲みたくなる。昨日は仕事で飲めなかったが、今日は違う。
「矢神さん、ビール飲んでもいいですか?」
「いいんじゃねーの。見回りに来たわけじゃないんだから」
投げやりに言い捨てた後、矢神は店の親父からチョコバナナを受け取っていた。遠野も隣で、たこ焼きとビールを頼んだ。
出来立ての熱々のたこ焼きとカップから泡が溢れそうなビールを零れないように持ち、矢神のところに戻った。彼は既に、チョコバナナを食べている最中だった。
その食べる姿に、遠野は目を奪われる。もしかしたら、口を開けて眺めていたかもしれない。
普段は考えないようにしているのに、いつもと違う格好をしているせいなのだろうか。
祭り会場の薄明かりに照らされた矢神の浴衣姿が、なまめかしい。その結果、チョコバナナを食べる矢神の姿から、卑猥な考えが頭を過ぎった。
バナナを咥える小さな唇や、その唇を舐める舌、全てが艶っぽい。あんな風にされたらどうなるだろう。
美味しそうにバナナを頬張り、そのことに熱中している矢神を自分のものにしたい。
遠野は、食い入るように見つめていた。
「食わねえの?」
「へ?」
急に話しかけられたせいで、おかしな声が出た。
「たこ焼き、熱いうちの方が美味いだろ」
「は、はい」
自分がひどい妄想をしていたことを矢神に知られることはないだろう。だが、申し訳なくて背を向ける。
そして誤魔化すように、冷えたビールをごくごくと喉に流し込んだ。次に、たこ焼きを一つ、焦って口の中に入れたら、熱さが口いっぱいに広がって火傷をしそうになる。
「熱っ、はう、はついです」
「慌てて食べるなよ」
背中越しに、可笑しそうに笑う矢神の声が響いた。
「はぁ、熱かった」
熱いたこ焼きを飲み込んで、矢神の方を振り返れば、今度は違う店の方に歩みを進めていた。
「次はリンゴあめだな」
「またですか?」
「何言ってんだ。祭りだぞ。ここでしか食べられないものがたくさんあるんだよ」
乗り気に見えなかったから、祭りなんて好きじゃないのかと思っていた。だが、案外楽しそうで遠野はほっとする。
「金魚すくいとかはいいんですか?」
どんな反応するのか気になって、そんなことを言ってみた。すると、真剣な答えが返ってくる。
「金魚は、ペルシャがいたずらするからダメだ」
「じゃあ、あとで射的とかやります?」
「それいいな」
顔を綻ばせる矢神は、まるで少年のような目をしていた。
リンゴあめとイチゴあめをそれぞれ一つずつ買い、次はわたあめのお店へと足を向けた。遠野は矢神の後についていくだけだ。
「わたあめは、絶対に買わないとな」
思いっきり祭りを楽しんでいる矢神が可愛くて、遠野は口元が緩むのを必死で堪えていた。
袋に入ったわたあめを受け取った時の矢神の笑顔は、写真に撮っておきたかったくらいだ。
「あれ、大ちゃん?」
不意に、女性の声で名を呼ばれた。振り向けば、そこには学校の生徒たちがいた。浴衣姿の女子とラフな格好をした男子数人だ。
「うわっ、あーやもいるじゃん」
その中の一人の男子生徒が、げんなりする声を上げた。
「あーや、だと?」
振り返った矢神も、生徒たちの姿に気づいたようだった。だが、あだ名で呼ばれたせいか、眉を顰めたように見えた。
「矢神先生、浴衣ってことは、プライベート?」
「二人、仲いいんだね」
「男同士で来るなんて、先生たち彼女いねーの?」
生徒たちは、楽しそうにきゃっきゃっと騒いでいた。そんな生徒たちに、矢神は一喝する。
「おまえら、祭りを楽しむのもいいが、浮かれて遅くまで遊んでるんじゃないぞ」
普段、矢神にこんなことを言われたら生徒たちはおとなしくなる。だがこの時は違った。生徒たちは面白そうに、くすくすと笑うのだ。
「いやいや、それ説得力ないよ」
「先生、わたあめ持ってるもん」
「は!? わたあめ関係ないだろ!」
怒りを露わにするが、生徒たちには一向に伝わっていない。
「私も、わたあめ買おうかなー」
「なつかしいよなー」
完全に生徒たちは楽しんでいた。
「おまえら……」
矢神は、怒りで震えている。
「まあまあ、矢神先生、今日はお祭りですから」
「お祭りだからだろ!」
フォローするように遠野が間に入るが、矢神の怒りは収まらない。
「生徒たちもわかってますよ。ね、みんな、矢神先生の言うことわかってるよね?」
「はい、悪いことしませーん」
「花火終わったら帰りまーす」
生徒たちは順番に、宣誓するように軽く手を上げた。だが、顔は笑っている。
「新学期になったら、覚えておけ……」
矢神がそう苦し紛れに言っても、何とも思ってないようだ。
「先生たちも、楽しんでくださいね」
最後には嬉しそうに手を振って、生徒たちは人込みの中に消えて行った。
「くそっ、だから嫌なんだよ」
矢神は悔しそうに、下駄の先で地面を蹴った。
「何がですか?」
「祭りだよ。生徒にバカにされるから来たくなかったんだ」
そんな理由で――遠野は吹き出しそうになった。
それなら、わたあめを買わなければいいだけのことなのに、誘惑には勝てないのだろう。
だが遠野には、生徒たちが矢神をバカにしているようには見えなかった。むしろ、親近感を抱いているように思えた。
普段見せない矢神の姿に、距離が近づいたと生徒は感じたのではないだろうか。遠野も矢神と一緒に過ごすようになって、それを実感しつつあったからだ。
誰に対しても厳しい人だから、彼は誤解されやすい。だけど、本当はとても思いやりのある優しい人なのだ。
「あ、矢神さん、そろそろ花火の時間です」
不意に、腕時計を確認すると、いつの間にか開始時間が迫っていた。
「え? もう?」
祭りで買い物をする矢神に夢中になりすぎて、気づくのが遅れてしまった。
「花火の会場に急ぎましょう」
遠野のメインは、このお祭りではなく、花火大会なのだ。
ただの花火と言ってしまえばそれまでだが、矢神と一緒に見るのをずっと楽しみにしていた。これを逃したら、一生後悔するだろう。
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