触れてしまえば、もう二度と * 番外編 *

モドル | ススム

暑い夏の夜に 01

 誰もが浮かれる夏休み。補習や部活がある生徒もいるが、みんな楽しそうに笑顔で、普段とは少し違って見えた。
 そして、なぜか教師である遠野大稀とおのだいきも、生徒と一緒になって浮かれていたのである。
 その理由は、花火大会デートが近付いてきているからだった。もちろん相手は、同居している矢神史人やがみあやとだ。夏休み前からひそかに計画していた。そのことを考えれば、顔の筋肉が緩んで仕方がない。
 しかし、一つだけ問題がある。それは、遠野はまだ矢神を誘っていなかったのだ。いったいどうする気なのか。
 矢神の方は、夏休みに入ってからずっと、新しく担任になるクラスのことで頭がいっぱいのようだった。
 前任の榊原さかきばら先生の引き継ぎは簡単のもので、あとは矢神にお任せというのだ。信頼されているのはすごいことだが、本人にとっては厳しい状況だろう。学校でも、自宅でも、矢神は険しい表情をしていた。生徒に対して真面目で真っ直ぐな人だから、根を詰め過ぎてしまう。
 少し力を抜けばいいのに、と遠野は矢神を見ているといつもそう感じていた。
 だが、そんな真面目な矢神だからこそ、遠野は好きになったのだ。





「矢神さん、入りますよ」
 自宅に帰ってくるなり、部屋にこもったまま出てこない矢神に、遠野は声をかけた。
 扉を開ければ、矢神は机に向かって、たくさんの書類とパソコンを眺めている。
「夕食どうしますか?」
「いらない」
 軽く手を振っただけで、遠野の方を見向きもしない。悔しくなったので、部屋の中に入り、矢神の傍まで近づいた。
「でも、昨日も食べてませんよね」
「蒸し暑いせいか食べたくないんだ。昼に食ったからいいよ」
「……菓子パン一つじゃないですか。やっぱり夏休みの間もお弁当作ります」
 同居するようになってから、昼の弁当は遠野が作っている。夏休みの間は作らなくていいと言い出したのは矢神だった。教師は、長期の休日を取るのは難しい。それなら、少しでも負担を減らしてやりたいという、矢神の気遣いなのだろう。
「面倒だろ? 夏休みだけでも楽してろよ」
「面倒じゃないですよ。矢神さんの健康の方が心配です」
 遠野は矢神のことを思って、少しきつい口調で言った。すると、彼は眉間に皺を寄せてこちらに顔を向ける。
「なんだよ、もう若くないからって言いたいのか?」
「いや、そういうわけじゃ」
 意図しない答えが返ってきたので、遠野は慌てて手を振って否定した。
「二、三日抜いたって平気だって。ダイエットにちょうどいい。最近太ったんだよ。おまえの作った飯、食ってるせいかな」
「それのどこが太ったんですか?」
 どこからどう見ても細身のシルエットの矢神に、ため息が漏れた。矢神はお腹を擦りながら、苦笑を浮かべる。
「見えない部分がひどいの。だから、オレのことは気にしなくていいよ」
 そう言って、再びパソコン画面に視線を戻した。
 遠野は、矢神が本当に太ったのか、その見えない部分を確認したいぐらいだった。
 しかし、そんなことよりもご飯を食べたくないというのは問題だ。気にするなというのが無理な話で、心配に決まっている。日頃の疲れも溜まっているのではないだろうか。
 遠野は、絶好の機会がやってきたと思った。あの計画を実行することにする。
「矢神さん、夏休みなんだし、少しリフレッシュした方がいいんじゃないですか?」
 矢神を気遣うつもりで言ったのに、当の本人は遠野の顔を見て渋い顔をした。
「おい、オレたち教師は、夏休みじゃないぞ。生徒が夏休みなんだ。関係ないだろ」
 矢神に強く言われると、いつもは引き下がってしまう遠野だったが、今回は違った。
「それでも、休みは大事です。矢神さん、最近夜も遅くまで仕事してますよね。ダメですよ。矢神さんが倒れたら、二学期から生徒たちはどうするんですか? 一日休むだけでも違います。無理しないでください」
 ものすごく早口で、まくしたてるような喋り方になってしまった。パソコンに向かっていた矢神は、少し呆れているようにも見えた。だけど、小さくため息を吐いた後、遠野の顔を見上げる。
「まあ、おまえの言うこともわかるけど」
「ですよね!」
 遠野は、胸の前でぽんと手を合わせる。
 同意されたことに嬉しくなってテンションが上がった。そこで一気に、畳み掛けるように詰め寄る。
「再来週のお祭り、最終日の三日目に花火大会があるの知ってますか? 気分転換に浴衣着て一緒に行きましょう。きっと楽しいですよ」
「祭りは、交代で見回りがあるだろ」
 キーボードをぱちぱち打ちながら、矢神は遠野の話を適当に受け流すように答えた。
「矢神さんは、見回り一日目ですよね? オレは二日目なんで大丈夫です」
 得意気に言えば、矢神は困ったような顔をする。
「ああ……オレ、三日目になった。朝比奈あさひな先生が都合つかなくなったって言うから、代わってあげたんだ」
「え!? そうなんですか?」
 あまりの衝撃的なことで、余程ひどい顔をしていたのだろう。遠野の様子に、矢神も少し驚いているようだ。
「……うん、おまえ、大丈夫?」
「それなら、仕方がないですよね……」
 見回りの割り振りを担当したのは、遠野だった。みんな平等にと言いつつも、花火大会がある三日目には、遠野と矢神が見回りに当たらないようにしていたのだ。
 だが、盲点をつかれた。矢神なら、他の教師が出られないと言えば、率先して代わりに出るタイプだ。仕事に対して、本当に真面目だから困る。
 もっと早くに誘っていれば、それも免れたのだろう。ただ、誘うタイミングがずっとなかったのだ。
 計画は丸つぶれだった。なかなか予想通りには、事が運ばないもの。
 落ち込んだ遠野は、肩を落として矢神の部屋から出て行くのだった。





 それから幾日かして、遠野は、朝比奈先生から花火大会に誘われる。
「ずっと仕事ばかりだから、気分転換しませんか?」
 遠野が矢神を誘ったのと同じようなセリフで、度肝を抜かれる。彼女とは、どこか似ているということだろうか。
「あ、でも、その日は朝比奈先生……」
 祭りの三日目、朝比奈先生は都合がつかないからと言って、矢神と見回りを変わってもらったはずだ。その都合というのが、遠野と花火大会に行くことだったのだろうか。しかし、そんな予定はまだ立っていない。
「私、見回りは一日目なんです。遠野先生は、二日目ですよね?」
「……はい」
 英語教師の朝比奈先生は、遠野と同じ年ということもあり、割と話をすることも多かった。
 女性の中でも身長の低い彼女は、肩までの長さの髪に、毛先をくるりとカールさせている。いつも笑顔でいるので、男子生徒だけじゃなく、男性教師からも可愛いと人気があった。
 前に、彼氏がいると聞いたこともある。こんなにも男性陣から人気が高いのだから、選び放題ではないだろうか。
 そんな朝比奈先生が、なぜ自分を誘うのか。遠野には全く見当がつかず、頭を捻るしかない。
 しかも、そのせいで、遠野が計画していた矢神との花火大会デートがダメになってしまったのだ。更に、落ち込むことになる。
 朝比奈先生は、悪い人ではない。特に断る理由もなかった。だが、あまりにも気分が沈んでいたので、予定が入っていると丁重にお断りするのだった。
 今年の夏は終わった。そんなことが、遠野の頭の中に浮かんだ。
 また来年がある――そう前向きに考えてみたかったが、来年には、矢神に恋人ができているかもしれない。そうなってしまえば、彼を誘えるわけがなかった。今、フリーの身である矢神だからこそ、ただの同居人として、深い意味はないと装い、気軽に誘えるのだ。
 こういう機会は、もうやってこない気がする。
 遠野には珍しく、ネガティブな考えだった。
 今回、矢神と花火大会に行けると思っていただけに、ショックが大きいのだろう。





「おい、遠野! 煮立ってる!」
 突然腕を掴まれ、矢神の怒鳴り声が響いた。その瞬間、遠野は、はっと我に返る。
 目の前には、素麺を茹でていた鍋がぐつぐつと煮立っていて、慌てて火を止めた。
「何、ぼーっとしてんだよ。危ないだろ」
「……すみません」
 花火大会の計画が崩れてから、遠野は魂が抜けたようになっていた。それのせいで、学校でもミスばかりしている。
 この時も、夕食の素麺が伸びて、ひどいものになってしまった。
「美味しくないですね……」
「大丈夫だよ。これ、いろいろ入れると美味いな」
 素麺だけでは物足りないので、胡瓜を細く切ったものや錦糸玉子、ツナに梅干し、胡麻、擦った生姜などいろいろ具を混ぜられるように準備した。
 そのおかげか、しばらく食欲がないと夕食を拒否していた矢神も、その伸びた素麺をたくさん食べてくれる。それだけで、遠野は救われた。
 いつまでもくよくよしていても始まらない。矢神とどこかに行くのは、また違う機会が巡ってくるかもしれない。その日を楽しみに待っていよう。それに今は、傍にいられるだけで幸せなのだ。
 そう自分に言い聞かせて、伸びた素麺をすすった。
 しばらく二人とも、黙ったまま素麺を食べていて、リビングにすする音だけが響いていた。
 そんな中、不意に矢神が話しかけてくる。
「あのさ」
「はい?」
「おまえ、花火大会、行きたいのか?」
 矢神は気にしてくれていたのだろう。何日も前の話題を振ってくれる。そんな優しさに嬉しくなった。
「もう大丈夫です」
 心配かけたくないから笑顔で答えれば、歯切れの悪い言葉が返ってくる。
「あ……そう、なんだ……」
「どうしたんですか?」
「三日目、見回り代わってもらったから……」
「え?」
「大丈夫ならいい、変なこと言って――」
「一緒に行けるんですか? 花火大会!」
 思わず遠野は箸を持ったまま席から立ち上がり、目の前にいる矢神に近づくように身を乗り出した。
「……行けるけど、他の誰かと行く予定してたんじゃないのか?」
「してません!」
 遠野ははっきりと答えた。矢神以外に行きたい人はいない。そういう意味を込めて。
「浴衣は持ってないから、着て行けないぞ」
「それは問題ないです。あんずさんが貸してくれました」
「杏さん……?」
「楽しみですね」
 複雑な表情をする矢神とは反対に、遠野は上機嫌だ。
 一気に気分が浮上する。現金なものだ。
 あの真面目な矢神が、誰かに見回りを変わってもらうなんて、普通ならありえない。
 奇跡が起こったことに、遠野は幸せを噛み締めるのだった。







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