それは、ただのキス

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それは、ただのキス04

「今井」
 身体を揺すられ、ふと目を覚ました。新美の姿が、視界に入る。
「……部長?」
 なぜ、自分の部屋に新美がいるのか。寝ぼけた頭で考えていれば、戸惑うような顔で彼は言う。
「君は、なぜ、私のベッドで寝ているんだい?」
 はっとして起き上がった今井は、辺りを見渡し、思い出す。ここが、部長である新美の部屋だということを。
 新美にキスをされた後、彼の体温が心地よくて、眠ってしまったのだ。アルコールが入っていたから余計だろう。スーツは、着たままだったから皺になっていた。何もかもが嫌になってくる。
「昨夜は、部長を家まで送って……」
 落ち着きを保ちつつ、順序良く説明しようとしたところに、新美が口をはさんでくる。
「私に、何かしたのか?」
 自分では意識していなかったが、上司の部屋で眠ってしまったことに対して、今井はかなり動揺していた。そのことは新美にも伝わっている。だから彼は、気遣うためにも冗談を交えたのだろう。
 だが、肝心の今井には通じなかった。
「は? 何かしたのは、アンタだろ」
 上司である新美を睨みつける。彼は、目をぱちくりさせた。
 新美の表情を確認して、まずいと思ったが、口に出してしまったのだから、もう遅い。ベッドから静かに下りた今井は、視線を逸らしながら言った。
「すみません……帰ります」
「待ってくれ」
 腕を掴まれ、帰るのを拒まれた。恐る恐る振り返れば、新美は申し訳なさそうに眉を下げる。
「私は、君に何をしたんだ?」
「いや、大丈夫です」
 手を振り解けば、新美が立ちはだかるように、今井の目の前に移動してくる。
「言ってくれないか。上司でもはっきり言うのが君の持ち味だろ」
 言ったところで信じてもらえるはずがなかった。だからといって、何も答えなければ、新美は納得しないだろう。
 息を吐いて、覚悟を決める。
「部長が……」
「私が?」
「キス、してきたんです……」
 案の定、新美はひどく驚いた顔をして、信じられないというように首を振った。
「酔ってたんだと思いますよ」
 こんなことを言っても意味がない。おかしなことを言う奴だと思われるだけだ。今井は、素直に口にしたことを後悔していた。
 これから一緒に働いていくのだ。なるべく問題は起こしたくなかった。上手く誤魔化してやり過ごせば、済んだことなのに。
 新美はがっくりと肩を落とし、深いため息を吐いた。そして、顔を上げて、今井を捉えるように、まっすぐとした視線を向けてくる。
「すまなかった。こんな男にキスをされては、さぞ気持ち悪かっただろう」
「あ、いや……」
 胸が痛んだ。ゲイの今井は、新美が思っているようには感じていなかった。むしろ、久々の快感に酔いしれていたのだから。
「酒を飲むと、ダメだな。本当にすまない」
 深々と頭を下げてくるから、どうしていいかわからなくなる。
「オレも、酔ってたんで。だけど、部長は酒が飲めないのに、どうして昨夜は飲んだんですか?」
 今井の疑問に、新美は微笑んで答える。
「君の歓迎会だ。めでたい席で飲まないのは失礼だろ」
「でも」
「そうだな、それなのに、君に嫌な思いをさせてしまった」
「オレは大丈夫ですけど、飲めないのに飲むのは危険です。酔っている隙に、家に入られたり、財布すられたり、危ないと思います」
 心配して言ったのに、新美はすごく可笑しそうに声を出して笑う。
「なんですか?」
「会社じゃない時は、敬語じゃなくていいぞ。さっきのように、くだけた喋り方の今井は、とてもいきいきしていた」
 反省しなくてはならない。またもや、上司に対しての言葉づかいがなってなかったのだから。
「すみません……」
「気にするな。もう、昼か。嫌な思いをさせたお詫びといっては何だが、昼ごはんを作ってあげよう」
「……はぁ」
 曖昧に返事をすれば、リモコンを手渡された。
「テレビでも見て、待ってなさい」
 新美はとても心の広い上司なのだろう。今井は、おとなしく従うことにした。
 テレビの前にあるテーブルに着き、ネクタイを外して、ワイシャツの第一ボタンを開けた。
 テレビに流れていたのは、グルメ番組のようで、おすすめ和食店が紹介されていた。さば味噌煮御膳や天ぷら御膳など美味しそうな料理が映し出され、お腹が鳴ってしまう。
 何を食べさせてくれるのだろうか。キッチンで準備している新美の後ろ姿を見ていると、何だかわからないが、落ち着いた気持ちになるのだった。
 しばらくの間、お腹を空かせて、待っていれば、新美がクリアガラスのボウルにいっぱい詰まったものを持ってくる。それは、素麺だった。
「たくさんあるから、遠慮しないで食べなさい」
「……これ」
「そうめんは、嫌いだったか? お中元でたくさんもらったから余っているんだよ」
「そうじゃなくて、茹ですぎじゃね?」
 山盛りの素麺は、軽く四人前くらいはあるように見える。
「そうなんだ。少ないと思ってどんどん鍋に入れていったら、いつの間にかこんなに増えてしまってな」
 はははと笑う新美に、合わせるように今井も笑った。
 彼は、しっかりしているように見えるが、実は天然じゃないのかと疑惑が浮かんだ。
「食ってたら、次第になくなるだろ」
 そう言って、今井は遠慮なく箸をつけた。
「おお、今井は頼もしいな」
 その後、二人で必死になって、山盛りの素麺を食べた。
 テレビは、相変わらずグルメ番組が流れている。新美が接待で使ったことのある店も、何件か紹介されていたのだが、そのたびに箸を置いて、店のおすすめ料理を力説で語ってくれた。どちらがグルメ番組か、わからない。
 食べながらでいいよと笑えば、相手に熱意が伝わらないからダメだと言う。彼は、強いこだわりを持っているようだった。
 山盛りあった素麺を何とか食べ切ると、新美がせわしなく立ち上がり、再びキッチンへ向かう。
「もう、そうめんはいらねぇぞ」
「ああ、わかっている。今井、コーヒーは好きか?」
「好きだけど」
「美味しい豆が手に入ったんだ。淹れてあげよう」
 そう言ってすぐに、ごりごりと豆を挽く音が聞こえてきた。同時にいい香りが漂ってくる。
 彼と過ごした時間はまだ浅いのに、この時だけは、昔から知っているような、とても心地よい空間に感じた。
 十以上も離れた年上は好みではなかった。年が離れているなら、年下の方がタイプなのだ。今井は、若い男を自分の言いなりにさせるのが好きだったから、年上相手だとそうはならない。
 彼とは、恋愛に発展することは絶対にないだろう。ただの上司と部下の関係。そう確信していた。
 しかし、そんな新美に対して気持ちが変わっていくことになろうとは、この時の今井は想像もしていなかったのだ。




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