それは、ただのキス

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それは、ただのキス03

 今井は、力には自信があった。それでも、自分よりも一回りも大きい身体を持ち上げることは、なかなか困難なことだ。
「部長、起きてください」
 新美に声をかけながら、身体を揺すってみた。彼は顔を上げて返事はするものの、すぐにテーブルに突っ伏してしまう。新美の腕を持ち上げた今井は、自分の肩に乗せた。
「帰りますよ、立ってください」
 持ち上げるようにすれば、新美は辛うじて立ち上がった。だが、思うように動いてはくれない。小原の言うとおり、新美を引きずって移動するしか方法はないようだ。
 描いてもらった地図を頼りに、新美の自宅へと向かう。
 地図には、さっきまで飲んでいた居酒屋とコンビニエンスストアしか描かれていなかった。こんなのでわかるのかと内心不安だったが、店を出てから数分で、目的地にたどり着く。
 そこは、想像していたよりも小さく、古びたアパートだった。部長クラスなら、もっといいところに住んでいてもおかしくないのだが、表札に『新美』と書かれているから間違いはないのだろう。
 自宅が一階だったことに感謝する。新美を引きずりながら階段を上がるのは、さすがにきつい。
 ドアの前まで来て、小原が言っていた鍵のことを思い出した。半信半疑のまま、新美の上着の左ポケットを探ってみる。すると、本当に鍵が出てきた。
 あまりの驚きに、独りごちる。
「……これって、やばいんじゃねぇの」
 無防備すぎる新美に、恐怖を覚えた。営業部のみんなが良い人ばかりだからいいが、これでは、自宅に勝手に入られても文句を言えないだろう。
 今井は、新美を抱えながら、鍵を回してドアを開けた。
「部長、着きましたよ」
 暗くてよく見えないが、玄関は少し狭いようだ。大人二人で移動すれば、あちこちにぶつかる。
 手探りで明かりのスイッチを探し、何とか電気を点けた。すると、玄関に飾られていた小物が床に散らばっていることに気づく。だが、それらを拾うのは後回しにし、とにかく新美を部屋に入れることが先だと考えた。新美の体重が、今井の肩に重く圧し掛かっていて、そろそろ限界だったのだ。
 窓から差し込む外灯の明かりが、うす暗い部屋の中を照らしている。部屋の電気を点けなくても、奥にベッドがあることがわかった。
 彼の身体を引きずりながら、そのベッドを目指す。短い距離をやっと進んだ今井は、そこに捨てるように、新美を放り投げた。
「ああ、重い」
 自分の肩をさすり、辛そうにしている今井とは反対に、新美は、何事もなかったように、すやすやと眠っている。
「大丈夫ですか?」
 とりあえず声をかけてみた。だが、反応は返ってこない。
 試練は終わった。そう思って、ほっと息を吐けば、新美が呻くような声を上げる。
「部長、具合悪いですか?」
 慌てて様子を窺った。額に汗を浮かべ、しばらくの間、苦しそうにしていたが、それも徐々に治まっていく。
 静かになったのを確認すると、今度は、水が欲しいと訴え始めた。
 今井は、急いでキッチンの冷蔵庫に向かった。中を開けてみるが、ミネラルウォーターは常備していないようだ。
 仕方がないので、目についたコップを適当に取り、水道の水を入れて持っていく。
「部長、水ですよ」
「うん……」
 返事はするが、新美は起き上がろうとはしない。
「水、いらないんですか?」
 段々と怒りが込み上げてきた。
 なぜ、酔っ払いの介抱をしなくてはいけないのか。酒が飲めないのなら、飲まなければいいだけのこと。新卒の若い奴らとは違って、社会人を長く経験した、いい大人なのだから、それぐらいわかるはずだ。
 いくら仕事ができたとしても、酔っ払って部下に面倒をみてもらうなんて、ありえない。
「水飲んでください。オレ、もう帰りますんで!」
 不満をぶつけるように、きつい言い方をした。
 相手はアルコールが回っていて、意識がはっきりしていない。少しぐらい強く言ったところで、何とも思わないだろう。
 すると突然、新美がむくりと身体を起こした。
「起きましたか? はい、水」
 目の前にコップを差し出したら、新美が手を伸ばした。
 しかし、今井が手にしていたコップを取らずに腕を掴んでくるものだから、その拍子に、床にコップが落ちてしまう。
 プラスチックだったから、割れはしなかったが、水が床にこぼれてひどいことになった。
「もう、どうするんですか、これ」
 片づけようと思ったが、新美は掴んだ腕を引っ張ってくる。
「ちょっと、いい加減に……」
 彼の手を退けようとしたが、そのままベッドに引きずり込まれた。
 今井も酔っていたせいか、思うように反応ができなかったのだ。気づいた時には、今井の身体の上には新美が乗っかる形になっていて、なぜか彼の唇が、自分の唇に重なっていた。
 新美の肩を押して身体を離そうとしたが、びくともしない。目を覚まさせるために背中を強く叩いてみた。彼の体重が、重く圧しかかるだけで唇は離れない。
 しかも、彼は意識があるのか、徐々に口づけが深くなっていった。唇を挟むように、何度も角度を変えながら口づけをしてくる。次第には、唇を割って舌が侵入してきた。
「んっ…ふ……」
 身体の力は抜け、既に抵抗する気力はなくなっていた。
 新美の熱い舌が、今井の口内をゆっくりと犯していく。歯茎や上顎を舌で撫で上げられ、ぞくぞくと背筋が震えた。
 久しぶりの触れ合い。その快感は強烈なもので、全身が支配されているように思えた。
 普通なら、同性である男にキスをされても、嫌悪感しか抱かないだろう。だが、今井は男性を愛するゲイだった。
 相手は好きな男ではない。それでも、うっとりするような口づけに、つい夢中になってしまう。
 唇が離れたと同時に、今井の荒い呼吸が部屋に響き渡った。身体が熱く火照っている。それは、アルコールのせいではないことは充分に理解していた。
 新美はというと、今井の身体の上でおとなしくなり、再び眠りについたようだった。
「こいつ……なんで、こんなにキス上手いんだ……」
 女遊びなんて知らなくて、趣味が仕事というような男だ。
 イメージとはかけ離れた新美に、胸が高鳴っていた。



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