触れてしまえば、もう二度と

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  第三章 <2>  

 放課後になると遠野は、矢神の席に来て、こそっと予定を聞いてくる。
「矢神先生、今日は帰り遅くなりますか?」
 これが日課だった。
「夕食は麻婆豆腐と餃子にしようと思うんですよね。この間、中華が食べたいって言ってたから」
 そして、夕食の話をするのも決まっている。学校でそんな話をするなと、矢神に小言を言われるというのが、いつものパターンだ。わかっているのに同じことをする遠野は、わざとしか言いようがない。
 だが、この日は違った。顔を上げた矢神は、遠野と視線を合わせて言う。
「今日は、もう上がる。一緒に帰るか」
「……え、はい」
 帰る場所は同じだが、二人が一緒に帰宅することはほとんどなかった。ましてや矢神の方から誘ったのは初めてのことだ。遠野も驚いたようだった。





「矢神さん、今日何か変ですね」
「何が変なんだよ」
「なんだろう、優しいっていうか」
「は? 普段から優しくしてやってるだろ」
「いや、優しいんですけど、んー上手く言えないです」
 矢神もそれは自覚していた。優しくしてやろうという気持ちはないのかもしれないが、自然とそうなっているのだろう。
「家に帰ったら、遠野に話がある」
「話? 今じゃ、ダメなんですか?」
「帰ったら話す」
「えー、ドキドキしますよ、何の話ですか? オレ、また何かしましたか? 先週の会議の発言のことかな……」
 うーんと唸りながら、遠野が自分の行動を振り返っていた。
 矢神は、いろいろと悩んだ結果、遠野への気持ちをはっきり伝えようと決めたのだ。
 このまま、曖昧な関係を続けていても仕方がなかった。遠野が好きでいてくれるのは有難いことだったが、期待されていても、この先、矢神の気持ちが変わることはない。 それなら、白黒させた方がいいだろう。実らない相手を想い続けるよりも、次へと気持ちを切り替えるべきだ。それが遠野のためを思う矢神の答えだった。
 矢神が決断したことなどつゆ知らず、隣では、何か閃いたらしく、嬉しそうな声が上がる。
「わかった! オレが生徒と一緒になって、隠れて「あーや」って呼んでいることですか?」
「……おい、おまえ、生徒とそんなことやってんのか?」
「あれ、そのことじゃないんですか? おかしいなあ」
 遠野は頭を掻きながら、首を傾げる。彼のこういう態度を見ていると、自分が真剣に悩んでいるのが馬鹿らしくなってくるから不思議だ。
「だいたいな、おまえは生徒との距離が近すぎるって言ってんだろ。いい加減、教師っていうことを自覚しろ」
「わかってるんですけど」
「わかってない!」
 家に近づいても、矢神の説教はとどまることを知らない。遠野のたった一言が火種となって、日頃の態度へと話が広がっていった。近所に聞こえてしまうんじゃないかというくらいの声の大きさで、それは延々と続く。
「矢神さん、続きは家で話しましょう、ね」
 逃げるように小走りで玄関に向かった遠野が突如、目の前で歩みを止めた。
「なんだ、急に止まるなよ」
 ぶつかりそうになったことに腹を立て、遠野をど突き、追い抜いて玄関に向かえば、ある人物と出くわした。
「あーや」
 高い可愛らしい声で名前を呼ばれ、矢神ははっと息を呑んだ。
 目の前に現われたのは、白いワンピースにカーディガンを羽織った女性。軽く頭を下げて、小さく笑みを浮かべた。
 よく知っている人物。それは、矢神が付き合っていた元彼女、眞由美だった。
 どうしてここにいるのか。そんなことを訊ねることなく、矢神はただ、口を閉ざしたまま、彼女の前で立ち尽くしていた。
「話があって、来たんだけど……」
 そう言いながらも眞由美は、矢神の隣にいた遠野の姿を見て、ためらっているようだった。
 それに気づいたのか、遠野が耳打ちしてくる。
「オレ、どこかで時間潰してきましょうか」
 彼に声をかけられたことがきっかけに、口を開くことができなかった矢神は、言葉を発することができた。
「いい、オレは話することはない」
 吐き捨てるように言い、話を終わらせようとしたが、彼女は引き下がらなかった。
「待って、少しだけでいいの、お願い」
 縋るように両手で腕を掴まれ、振り返れば、眞由美が辛そうな表情をしてこちらを見ていた。
 何かあったのかもしれない。そう一瞬でも考えてしまった自分に、嫌気が差した。
「矢神さん、家に入ってもらったらどうですか? オレ、ちょっと出てきますから」
「おまえがそんなことする必要ない!」
 イライラが募り、遠野に八つ当たりのような言い方をしてしまった。彼は何も悪くないのに、自分に対する苛立ちがそうさせた。
 遠野は、すぐさまその場の雰囲気が悪いと感じたらしく、今度は眞由美の方に話しかけ始める。
「すみません、オレ、遠野っていうんですけど、矢神さんとは職場が一緒で、今は矢神さんの家に居候させてもらってるんですよ」
「え? そうなんですか?」
 遠野の話を聞いた眞由美は、目を丸くして驚いた様子だった。
「オレがいて話しにくいようでしたら、外しますんで」
「いえ、すぐ終わるんで、居ていただいてかまいません」
「ですって、矢神さん。家に入ってもらいましょう」
 勝手に話を進め、遠野は玄関の鍵を開けたのだ。
 気を利かせたつもりなのかもしれないが、矢神にとっては迷惑な話だった。
「お茶入れましょうか」
「おまえは何もしなくていいから、あっちに行ってろ」
 遠野に居てもらっても構わないと、彼女は言ったが、どんな内容にしろ、矢神は彼に聞かれたくはなかった。
「オレの部屋で話そう」
 彼女を自分の部屋へと招き、ドアを閉めた。
 この部屋に、彼女が入ったのは何度もあるはずなのに、今はすごく落ち着かなかった。
「あーやが、他人と住んでるなんてびっくりしちゃった」
「そうか?」
「だって、一人の時間を大切にするでしょ。自分のテリトリーに人を寄せ付けないじゃない」
 自分では意識してなかったが、そんな風に思われていたことに矢神の方も驚いた。
「そんなつもりはないけど」
「私とだって、一緒に住みたくなさそうだった」
 ここに来て、そんな話をされても意味がない。彼女が何をしたいのか、予想できなかった。
 だけど、今だけじゃなく、昔も、眞由美のことを理解していたかと訊ねられたら、ノーと答えるだろう。
「そんなことより、話ってなんだ?」
 さっさと終わらせて、帰ってもらいたかった。心の中がざわざわと蠢いていて気持ち悪い。
「うん、話ね」
 眞由美は話をする気がないのか、人の部屋を勝手に見て周り、矢神と向き合おうとしない。
「オレも疲れてるんだ。話がないなら帰ってくれないか」
 少しきつい言い方をした。そうしないと、彼女に流されてしまいそうだった。
 眞由美のことは何とも思っていない。そう自分に言い聞かせるように、わざと辛くあたる。
「なあ、いい加減にしろよ」
「ねえ、あーや、これって」
 背を向けていた彼女が、不意にこちらを振り返った。手には何かを持っている。小さな黒いケースのようなもの。
 自分の部屋になかったものだ。そう記憶していたから、その時は眞由美が持ってきたものだと思った。
 随分前のこと。それが何なのか、矢神が思い出すまでに時間がかかったのだ。
「あっ」
 気づいた時には遅かった。彼女の手から取り返す前に、ケースを開けられてしまっていた。
「わぁ、やっぱり指輪! ダイヤ大きいよ、ねえ、これ誰に渡すの」
 ケースの中を確認した彼女は、顔を真っ赤にして興奮状態だ。
「関係ないだろ、返してくれ」
 指輪の入ったケースを取り返そうと手を伸ばすが、彼女は胸に抱くようにしてケースを両手で包んだ。
 矢神は自分に腹が立っていた。プロポーズする機会を失い、婚約指輪も必要がなくなってしまった。それなのに、指輪を捨てるに捨てられずいたのだ。 そのせいで、よりにもよって、渡す相手だった彼女に見られ、今、屈辱を味わっている。
「もしかして、私にプロポーズするつもりだった?」
「もう昔の話だ、返せ」
「私、あーやとやり直したい」
 突拍子もないことを言うので、思わず声を荒げていた。
「オレをバカにしてるのか!」
 だが、彼女は全く動じない。
「あーやと別れてわかったの。私に本当に必要な人はあーやだって。一番大切な人だって」
「嘉村と別れたからだろ」
「違う、嘉村さんには私から別れようって言ったの。あーやのことが大好きだって気づいたから」
「今さら、何言ってんだ」
「答えはすぐ出さないで。私、頑張るから。あーやと釣り合うような女になるから、ね?」
「だから、オレは」
 矢神が自分の意見を言おうとしていたのに、彼女はこちらに手のひらを見せて制止させる。
「待って! もうこんな時間じゃない。私、帰らないと」
 腕時計を確認した眞由美は、急に慌てだす。
「おい、帰るって……話っていったいなんだったんだよ」
「言ったじゃない。あーやとやり直したいって。それを言いに来たの。これ、時期が来るまで預かってて」
 指輪のケースを突き返され、眞由美は部屋を出て急いで玄関に向かう。ちょうど鉢合わせした遠野に、「おじゃましました」と挨拶をして、靴を履いた。
「帰るんですか? 夕食、準備してたんですよ」
 遠野が余計なことを言うのでひやひやしたが、彼女は本当に急いでいるようだ。
「ありがとうございます。これから予定があるので、ごめんなさい」
 帰ってくれることに一安心していたところに、彼女がとびっきりの笑顔を浮かべて矢神の方を向き直ったので、嫌な予感がした。
「あーや、また来るね」
 それに対して答える間もなく、眞由美はドアを開けて去って行った。
 これっきりにするつもりだったのに、相手はそうではないようだ。彼女の言動に、ため息すら出ない。
 勝手に決めて、勝手に事を進めていく。眞由美は、そういう女だったと、後になって思い出す。
 付き合っていた頃は、そんなところも頼もしいと感じていたが、今となっては、厄介なものでしかなかった。
 


 
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