触れてしまえば、もう二度と

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  第三章 <3>  


「矢神先生、先に帰りますね。今夜は五目ちらしなので、楽しみにしててください」
 残業している矢神に手を振り、帰って行った遠野。
 帰路の途中でそんなことを思い出した矢神は、つい頬を綻ばせそうになって、慌てて口元に手を当てた。
 今朝、たまたま目にした五目ちらしのCMに、「すげえ、美味そう」と反応した矢神のことを遠野は覚えていたのだろう。矢神に対する彼の観察力は、相当なものだ。矢神が喜ぶようなことを全て叶えてあげたいという気持ちが重々に伝わってくる。
 特に食事に関しては、矢神の好みに合わせているのか、満足しすぎて、外食しようとさえ思わないくらいだ。だから、仕事が終われば、遠野の作る夕食を楽しみに真っ直ぐ帰宅する。こんな風に、毎日、真面目なプライベートを過ごしていた。
「ただいま」
 家に着いて玄関の扉を開けると、飼い主の帰りを今か今かと待っていた尻尾を振る犬のように、遠野が駆け足で迎えてくれる。騒がしい奴だが、最近では、それがあたりまえになっていて、遠野よりも先に帰宅する時には、物足りないと感じてしまう。
 だけど、この日はいつもと違った。
 玄関には、なぜか女物の靴、黒いハイヒールが置いてあって、胸騒ぎを覚えた。
「おかえり、あーや」
 靴を脱いでいれば、頭上から女性の声がした。案の定、矢神を迎えてくれたのは遠野ではなく、眞由美だった。
「……なんで」
 彼女の顔を確認して呆然としていれば、眞由美の後ろから遠野も声をかけてきた。
「おかえりなさい、矢神さん」
「あーや、帰ってくるの遅いよ。ピザ買ってきたのに、冷めちゃうじゃない」
 眞由美は早く部屋に上がれと言わんばかりに、矢神の腕を引っ張った。
「え、なに? ピザ?」
 状況がいまいち把握できず、混乱しているうちに、ダイニングルームに連れて行かれる。
 テーブルの上には、何本かの缶ビールと一緒に、大きなピザが二枚、それと一緒に、グリーンサラダ、フライドポテトが皿いっぱい山盛りになっていた。
「お腹空いちゃった。早く食べよう」
 急かす眞由美に矢神は、ただただ放心状態だ。
「どうしたの、あーや?」
「……ああ、今、着替えてくる」
 何がどうなっているのか、首を傾げながら部屋で着替えていれば、遠野がひょっこり顔を出した。
「矢神さん」
「おい、遠野、どうなってんだ。どうしてあいつが家にいるんだよ」
 向こうにいる彼女に聞かれないように、なるべく声のトーンを押さえたつもりだった。だが、このわけのわからない状況に困惑して、思わず遠野に詰め寄っていた。
「待ってください。何でそんなに怒ってるんですか。矢神さんに会いに来たって言うから家に入れたんですよ」
「だからって、勝手に入れるな。オレに聞いてからにしろよ」
「でも、ピザとか買ってきてくれて大荷物だったから、外で待たせるのも悪いなあと思って」
「だって、おまえ、食事の準備してたんじゃないのか? ピザと五目ちらし、そんなにたくさん食べられないだろ」
「大丈夫です。準備する前に彼女さんが来たので、ピザ食べられますよ。早く行きましょう」
 今度は遠野に急かされ、ダイニングルームに向かった。
「あ、来た、来た。早く食べよう」
 既に眞由美は席に着いていて、準備万端のようだった。
「ビール開けるね。遠野さんは、ピザ好きですか?」
「はい、大好きですよ」
「あーやも、ピザが大好物なの。いっつもピザが食べたいって言うよね?」
「え、ああ……」
 確かに矢神は、ピザが好きだった。眞由美と付き合っている時にも、よく二人で食べていた。
 だけど、一番の理由は、彼女がほとんど料理をしないというのが大きかった。特に仕事が終わってからは、彼女も疲れているだろうから、手料理が食べたいなんて言いにくかった。それなら、出来合いの物の方が簡単に食べられる。ただ、それだけのこと。
 長く付き合っていたはずなのに、そんなことも伝わっていなかったのかと実感する。
 当たり前のことだ。矢神は、彼女に一度だって、手料理が食べたいと言ったことがないのだ。わかってもらえるはずがない。
 ただ、言わなくても作ってもらえたら、どんなに嬉しかっただろうか。今更ながら、そんなことを思った。
 その日は、遠野と眞由美も話が弾んで、終始、和やかな雰囲気で終わる。矢神を除いては。
 仕事が終わってから、気分は五目ちらしを食べることでいっぱいだった。そのせいか、ピザは美味しいはずなのに、何だか満足できなかったのだ。







 それからしばらく、矢神の家に眞由美が来る日が続いた。
 会う約束をしているわけではなかったが、毎回夕食になるようなものを買ってきてくれて、遠野を含めた三人で、他愛ない話をして過ごす。
『あーやとやり直したい』
 そう言われたから構えていたが、何かしてくるわけでもなく、邪見な態度も取れなくて少し苦労した。
 だけど、一緒にいる遠野も、食事の準備をしなくていいから楽だと言っていたし、眞由美と楽しそうにしていたから、問題を先延ばしにしていたのだ。



 ある週末の夜、いつものように矢神の家で過ごしていた眞由美が、突然、子どものような無邪気な笑顔で言い出した。
「ねえ、今夜泊まってもいい?」
 次の日が休日ということもあって、三人ともけっこうな量のお酒を飲んでいた。いつも以上に、眞由美は遠野と意気投合していて楽しそうに見えた。まだ話し足りないという感じなのだろう。
「バカ言うな。寝るところないんだから、ダメだ」
「あーやのベッドでいいよ。一緒に寝よー」
「は?」
「何もしないからー」
「少し飲み過ぎじゃないのか?」
 缶ビールを奪おうとしたが、手の甲を軽く叩かれ、それを阻止される。
「あはは、飲み過ぎてないよー。お酒に弱いのは、あーやでしょ? ほら、遠野さんも飲んで、飲んで」
 ほろ酔いの眞由美は、上機嫌だった。遠野にビールをすすめながら、自分もごくごくと缶ビールを飲む。
 そんな彼女に、遠野は優しく微笑んだ。
「眞由美さん、アイス食べたくないですか?」
「あ! 食べたーい。バニラがいい」
 眞由美が、両手を上げて喜ぶ仕草をした。
「じゃあ、コンビニで買ってきますね」
 酔っている眞由美に、気を遣ったのだろう。
「遠野、いいよ。オレが買ってくる」
 立ち上がって出かける準備をする遠野に、声をかけた。
 アルコールが入っていたから、少し外の空気を吸って気分を変えたかった。だけど、遠野は自分が行くと言ってきかない。
「ゆっくりしててください。矢神さんのは、間違いなくいちごアイスを買ってきますから」
 そう納得させられ、彼は出掛けてしまった。
 遠野がいなくなっただけで、その場は急に静まり返った。今更、彼女と二人きりになって、何を話せばいいのかわからない。今までは遠野がいたから、成り立っていただけのこと。
「遠野さんって優しいよね」
 矢神の隣で、眞由美がぽつり呟いた。
「そうか? まあ、酔っている眞由美のためにアイス買ってきてくれるんだからな」
「違うよ。私たち二人に気を遣ったんだよ」
「私たち……?」
 何を言っているのかすぐに理解できなくて、彼女の方に顔を向ければ、眞由美がおもむろに、矢神の腕に自分の腕を絡めてきた。豊満な胸を押し当ててきて、潤んだ瞳でじっと見つめてくる。
「あーや、しようか?」
 吐息のように、甘美な声で囁いた。そして、より一層身体を密着させてくる。二人が触れている部分は、そこだけ熱を持ったように熱く、火傷しそうだと錯覚を起こす。
 眞由美は、矢神の唇に自ら唇を寄せてきた。鼓動が鳴り響く。
 男と女で、元は恋人同士。引き寄せられるように、そのまま口づけを交わす。そんなことは、誰にでもあり得ること。
 だが、二人の唇が触れる一歩手前で、矢神は踏みとどまった。
 眞由美の肩を掴んで、自分から強引に引き離す。
「あーや……」
 眞由美は、なおも矢神に縋ろうとした。そんな彼女に一喝する。
「帰れ!」
「でも……」
「いいから、帰れって!」
 髪を掻き毟って苛立ちを表した。彼女の顔をまともに見られなかった。
 そんな矢神の様子に眞由美も諦めたようで、「わかった」と今にも泣き出しそうな声を出し、静かに部屋を出て帰って行った。
 矢神は、拳で思いっきり床を叩いた。腹が立っていたのだ。彼女に対してではない。自分が今、しようとしたことに対してだった。
 眞由美とは既に別れていて、関係は終わっている。しかも、彼女には二股をかけられ、裏切り行為にあっていた。
 それなのに、相手に迫られたからといって、誘惑に負け、ほんの少しでも卑しい気持ちを持った自分のことが、吐き気がするほど嫌になったのだ。





 少しの間、荒れた気分を抑えらずにいた矢神だったが、コップ一杯の冷たい水を飲んで、何とか心を落ち着かせた。
 ふと、我に返ってあることに気がつく。
 コンビニにアイスを買いに行った遠野が、まだ戻ってきていないということだ。出かけてから、一時間近くは経っている。
「あいつ、どこのコンビニまで買いに行ったんだ」
 少し心配になり、矢神は、遠野に連絡をしてみることにした。しかし、彼は電話には出てくれなかった。
 何かあったのかと不安が過ぎり、根気よく何度もかけなおしていれば、十分後、ようやく電話が繋がったのだ。
『はい、遠野です』
「おまえ、何してんだ?」
 唐突に問いかければ、申し訳ないように困った声を出した。
『すみません、アイス待ってますよね』
 アイスのことは、どうでも良かった。ただ、何時間もコンビニいることが不思議で、事件や事故に巻き込まれたんじゃないかと、いろいろ悪い想像をしてしまったのだ。
「立ち読みでもしてたか?」
『いえ、今、ネットカフェにいるんです』
 予想だにしない答えが返ってきた。呆れた矢神は、無意識のうちに冷たい口調になっていた。
「コンビニから、なぜネットカフェなんだ」
『今夜は、ここに泊まろうかと思って』
 次々とおかしな回答が返ってくる。思いたったらすぐに行動する。遠野らしいとは思うが、心配した時間を返せと言いたくなった。
「そんなに夢中になるものがあったか?」
『えっと、そうじゃなくて……、眞由美さん、泊まるって言ってたから、オレがいたらお邪魔かなって』
「何、言ってんだよ……」
 眞由美の言葉を思い出していた。彼女の言うとおり、遠野は、矢神と眞由美に気を遣い、コンビニ行くと嘘を吐いたのだろう。
『だから、アイスは、買って帰れないんですけど』
 額に手を当てた矢神の口から、ため息が漏れた。
 そこまで気を遣わせていたことに、全く気づかなかった。自分が情けなく、悔しくて、ぎりっと奥歯を噛みしめる。
「眞由美は、帰ったよ」
『帰っちゃったんですか?』
「ああ、だから、おまえは戻ってこい」
 矢神が言った後、遠野からの返答はなく、なぜか沈黙が流れた。
「おい、聞いてるのか?」
 急かすように訊ねれば、遠野は、か細い声で答えた。
『オレ……帰っていいんですか?』
 心がどよめいた。彼の口からそんな言葉を聞かされるとは思っていなかったから、戸惑ったのだ。
「おかしなこと言うな。あたりまえだろ、今は、おまえの家でもあるんだから」
『はい、じゃあ、もう少ししたら帰りますね』
 電話を切ってから矢神は、頭を抱えて、その場に崩れるように座り込んだ。
 彼のことを何も考えていなかったと痛感する。
 遠野が居候とはいえ、一緒に住んでいる以上、矢神の方がもっと気を遣うべきだったのだ。
 連日、家に他人がやってくれば、休まる暇がない。現に矢神自身も、眞由美の相手に疲れ切っていたのは事実。眞由美のことをたいして知りもしない遠野なら、なおさら気疲れしていたに違いない。楽しそうにしていたのも、遠野なりの優しさだったのだろう。
 帰ってきたら、何て言って謝ればいいだろうか。
 そんなことを悶々と考えていたが、遠野は帰宅するなり、いつものテンションで、明るい口調だった。
「矢神さん、新商品のいちごミルクアイスがやっと手に入りましたよ! 残り一つだったので危なかったです。今、食べますか?」
「……ああ」
 彼からコンビニの袋を受け取り、先ほどの話題を持ちかけようとした。
「あのさ」
 しかし、何て切り出していいのか、言葉を選んでいる内に、遠野が話し始める
「どうしたんですか? もしかして、濃厚バニラの方も気になってます? そっちもおいしそうですよね」
 悩んでいるのが馬鹿らしくなるほど、当の本人はケロッとしている。
「半分こして、食べましょう。今、皿を持ってきますね」
 まるで、何事もなかったかのように、普段と変わらない態度だ。
 さっき、電話で話した時の遠野は、別人みたいだった。暗く淀んだ空気が漂っていたような気さえした。
 深く考えない方がいいのかもしれない。
 話を戻して、この場の雰囲気を壊したくなかった。
 気にしないでおこう。
 矢神は、そう考え直すのだった。


 
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