それは、ただのキス

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それは、ただのキス08

 久しぶりに今井は、早くに帰宅して、のんびりしていた。
 接待や残業などがなく、まっすぐ家に帰ったのは、何日ぶりだろうか。家に帰れば寝るだけの毎日だったから、洗濯や掃除など、いろいろ溜まっている。だが、どうしてもやる気が起きなかった。
 ソファに座って、ぼんやりテレビを見ていれば、玄関の扉をノックする音が聞こえた。
 チャイムを鳴らさずに、今井の家を訪ねてくる。そんなことをする人物は、ただ一人しかいない。だから、誰なのか特定できていた。
 ゆっくりと立ち上がり、玄関に向かう。
「来るときは連絡を寄越せ」
 ため息交じりに言いながら、玄関の扉を開けた。
 そこには、今井と背格好が全く同じの人物が立っていた。ジーンズの後ろポケットに手を突っ込んだまま、心底可笑しそうに笑みを浮かべる。
「びっくりしただろ?」
 背格好だけではなく、顔までもがほとんど一緒だ。
「兄貴の新居はどんな感じかと思って」
 勝手に玄関を上がり部屋を眺めていく。彼は、今井の双子の弟、久雄ひさおだった。
 一卵性の彼らは、声や喋り方など、全く区別がつかない。目つきの悪いところもそのままだ。両親でさえ、たまに間違えるのだから、よっぽどだろう。
 だから区別できるように、弟の久雄は前髪を下ろし、兄の久輝の方は、前髪を左右に分けて流していた。
「おまえ、新居なんて、興味ないだろ」
「新居は興味ないけど、今の職場には前のところからでも通えるのに、なんでわざわざ引っ越したんだ? 部屋だって何ら変わりねぇじゃん」
 ソファにどっかり座った久雄は、足を組み、意味が分からないというように、首を傾げた。
「前の上司が三階に住んでたんだ。だから、やむなく……」
 不満げな兄の態度に、久雄は声を出して笑う。
「例のムカツク上司か。それならしょうがねぇな。だけど、兄貴が出て行くんじゃなくて、そいつを追い出せば良かったんじゃねぇの?」
「そんなことできるかよ」
「オレに言えば良かっただろ。兄貴の会社と関係ないんだし、代わりに追い出すなんて簡単だぜ」
 久雄は、片手を上げて殴る真似をした。彼なら本気でやりかねないと思い、恐ろしくなる。
「おまえがやったって、同じ顔してんだからオレがやったことになるだろ。そしたら、今度こそ本当にクビだ」
「まあ、そうだな」
 そう答えながらも、この話題には飽きたらしく、久雄がソファの上で大きく伸びをした。
「久雄は、どうなんだ? 今の仕事は続いてるんだろ」
「ああ、ガソリンスタンド? まあな。だけど、最近バイトが生意気だから、そろそろシメテやらねぇと」
 左手の掌に右拳を当てて、楽しそうに笑みを浮かべた。
 久雄は、職を転々と変えている。決して仕事ができないわけではないのだが、気に入らない相手がいると、すぐに揉め事を起こすのだ。兄に劣らず、弟の久雄も昔から喧嘩っ早い。心底弟のことが心配になる。
「そんなことしたら、おまえ、またクビだぞ……」
「問題起こして飛ばされた兄貴に言われたくねぇよ」
 弟に痛いところを突かれて、それ以上何も言えなくなる。兄の威厳を示すことができなかった。今は、話題を変えるしかないようだ。
「実家には帰ってるのか?」
「この間、荷物取りに行ったけど。兄貴こそ、連絡してねぇだろ? 連絡取れないって嘆いてたぜ」
「……最近はしてねぇな。見合いしろってうるさいから」
「ああ、なるほどね。カムフラージュで結婚しちゃえば?」
 久雄には、自分がゲイであることを打ち明けていた。誰にも話せないことでも、双子の弟には言うことができる。適当な性格に見える弟だが、口が堅く信頼できる相手なのだ。
「無理だよ。女性と身体の関係を持つことができないから、子どもを作ることができない。相手に迷惑がかかるだろ。久雄が代わりに結婚してくれたら、母さんも安心するんじゃないか?」
「兄貴じゃないとダメなんだよ。母さんも父さんも、オレには期待してないから」
 久雄は一瞬、寂しげな表情をした。何か気に障ることを言ったかと心配になったが、すぐに満面の笑みを見せた。
「それより、来週どうする?」
「来週? 何かあったか?」
「え? マジで忘れてんの? 十一月一日、オレらの誕生日だろ。三十路になっちまう、ありえねー」
「ああ……」
 いろいろあったせいか、自分の誕生日のことなんてすっかり忘れていた。
 幼い頃は、家族みんなで賑やかに過ごしていた誕生日。だが、大人になるにつれて、家族で祝うことはなくなっていった。
 だけど、弟の久雄とだけは、誕生日に会うことを忘れなかった。双子だからなのか、誕生日に離れていると、なぜか落ち着かないのだ。
 だから毎年、誕生日には兄弟二人で過ごしていた。何か特別なことをするわけではない。ただ一緒に食事をしたり、家で映画を見たり、そんな他愛のないことをして過ごす。
 二人が揃っているだけで安心するから、恋人がいても、友人に誘われていても、誕生日だけは兄弟で過ごすことを優先させていた。
 今年もそれは変わらないはずだった。でも、今井の頭の中にはある人物が浮かび上がっていた。
「その日は、仕事で遅いかもしれないな」
 口をついて出た自分の言葉に、今井も驚いていた。現時点では、仕事の予定などまだわからなかったからだ。
 決して、久雄と過ごしたくないわけではない。ただ、いつものように接待や残業になれば、誕生日を新美と過ごすことができる。そんな思いから、口にしてしまったのだ。
「兄貴、男できたんだ……」
 久雄は、不貞腐れたように唇を尖らせた。
「は? そんなこと言ってねぇだろ」
「だって、いつもはどんなに忙しくても、誕生日は時間作ってくれるじゃん。0時まで仕事してんのかよ」
 弟の鋭い突っ込みに、今井は言葉に詰まった。
「それは……」
「別に、誕生日を恋人と一緒に過ごしてもいいけどさ、嘘つかれるのは兄貴でもさすがにムカつく」
 すごい目つきで睨まれ、久雄の怒りがひしひしと伝わってきた。嘘をついているつもりはなかったが、後ろめたさを感じてしまう。
 誤魔化すのは止めて、正直に話すことを決める。
「……悪い。恋人じゃないけど、一緒に過ごしたいと思ってる男性ひとはいる」
「また片思いかよ。さっさと告っちゃえばいいだろ」
 面倒くさそうに言う久雄に、今井は慌てた。
「告白って、別に好きとかじゃねぇ」
「何だ、それ。一緒に過ごしたいってことは好きなんだろ?」
「そういうんじゃなくて、ただ傍にいると落ち着くっていうか」
 久雄に説明しながらも何だかおかしい気もしたが、それは本当のことだった。
「傍にいるだけでいいのか? 兄貴って乙女みたいだな」
 がらでもないと、久雄が肩を震わせて笑った。今井は、恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。
「うるせぇな。おまえに、オレの気持ちなんかわかるか!」
「はい、はい、今年の誕生日は、そいつと一緒に過ごしなよ。オレは、ダチとメシ食いに行くから」
 そう言いながらも、久雄は笑いが止まらない。だが兄に気を遣ったのか、ソファの上でお腹を押さえながら身体をくねらせ、必死で笑いを堪え始めた。その姿がかえって、羞恥を生んだ。
「くそっ……」
 恥ずかしさに耐えきれなくなって、悪態を吐いた。
 新美が理由のないキスをしてくるから、気になっているだけで、好きになるタイプとはかけ離れている。
 今の心境は、自分でもよくわからなくて、説明がつかなかったのだ。







「今井、終わったぞ」
 視界に突然、新美の顔が現れた。驚いた今井は、席を立ち上がったはいいが、その拍子に、キャスター付の椅子は勢いよく滑り、壁にぶつかった。
 さっきまで、この会議室で打ち合わせが行われていたが、途中、考え事をしていたせいで、いつの間にか会議は終わっていたようだ。参加していた皆は、会議室から出て行き、今井だけが席についたままだった。明らかに様子がおかしいと感じたのか、新美が心配して声をかけたのだろう。
「疲れてるんじゃないか? 最近は、会議続きだからな」
「すみません」
 考えていたのは、新美のことだ。仕事中、ましてや打ち合わせ中に考えることではない。わかってはいたが、打ち合わせの終盤は今井とは直接関係ない事案だったから、つい違うことを頭に思い浮かべてしまったのだ。
 椅子を定位置に戻し、会議室を出ようとしたら、新美が話しを続ける。
「気持ちはわかる。ほら見てみろ、私も会議と接待で予定が埋まっている。これを眺めるだけで、具合が悪くなりそうだよ」
 手帳を開きながら、今井にそれを見せてきた。
「そうですね」
 相槌を打ち、見せられた手帳に視線を移せば、整った綺麗な文字で、細かく予定が書かれていた。時間と内容、相手の名前など、すごくわかりやすい。その中には、今井も出席しないといけない会議がたくさんあった。新美との予定が重なっているということだ。
 嬉しい反面、一緒にいる機会が増えれば増えるほど、彼のことが頭から離れなくなる。
 理由のないキスは、今も続いていた。一応常識人なのか、会社にいる時は何もしてこない。だから安心していられるが、こんなにも距離が近いと新美は決まって行動を起こす。意識しているせいで、彼がいる左側だけが熱いような気さえした。
 平常心を保つためにも、彼の手帳を何気なく眺めていたら、『誕生日』という文字が目に留まった。他の予定とは違い、色を変えて目立つようにしてあったから目についたのだ。
 日にちは十一月一日、今井の誕生日だった。
 心臓が跳ね上がった。
 新美が今井の誕生日を手帳に書く理由が見つからない。
 異動してきてからは、事務所の人間に、誕生日を教えたことはなかった。ということは、新美が自ら調べたということになる。社員名簿を見れば、わかることだから何ら不思議はない。
 これは、わざとなのだろうか。今までのキスも、誕生日を書いている手帳を見せるのも、今井を動揺させて、からかうために、やっていることなのだろうか。
 胸の鼓動がいつまでたっても落ち着かなかった。うるさいほどに鳴り響いていて、この距離なら、新美にも伝わっているかもしれない。
 彼が何を考えているのか、ますますわからなくなった。
 理由があるのなら、教えて欲しい。新美のことをもっと理解したい。
 今井の中でいろんな思いが溢れて、知らず知らずのうちに口から言葉が零れていた。
「これ、誕生日って」
 瞬間、新美が驚いたような表情をして、今井の方に顔を向けた。そして、照れくさそうに微笑むのだ。そのやわらかい笑顔に、目を奪われていた。
 この笑顔をずっと見ていられたら、どんなに幸せだろうか。
 ずっと傍にいたい――それさえも言葉にしそうになった時、新美が口を開く。
「この日は、三歳の娘の誕生日なんだ」
 優しく穏やかな声。だけど、耳にした言葉が、一瞬にして今井をどん底に突き落とすのだ。気づかないうちに、持っていた会議資料が手から滑り落ちていて、床に散らばっていた。
「大丈夫か、落としたぞ」
 身体は固まり、資料を拾い上げる新美を、ただ黙って見つめることしかできない。上司に拾わせていないで、自分が拾わないといけないのに、全く動けなかった。
 聞き慣れない言葉、だけど、充分に意味はわかる。
 辛うじて唇を動かし、何とか声を発する。
「……むすめって、アンタ、子どもいたのか」
 今井の声は、震えていた。
「ああ、今井に言ってなかったか?」
 声を弾ませ、新美は話を続ける。だけど、そのあとの彼の話は、今井の耳には全く入っていなかった。






 




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