それは、ただのキス
それは、ただのキス02
営業所には、部長の新美の他に、三名の職員がいた。
一人は、事務員の女性、小原まひろ。残り二名は男性だ。今井と同じ年だという手塚は、社内でも一、二を争うほどのイケメンで、女子職員にも人気らしい。ただ、本人は自覚していないようで、学生の頃からずっと付き合っている彼女がいると、小原が教えてくれた。
もう一人は、島崎という職員だ。彼は、今井よりも随分年上に見えたが、彼は小原の同期で、まだ二十代だという。今井が営業所に来て、一番驚いたことだった。
彼らは、今井が異動してきた理由を知っているようだったが、快く迎え入れてくれたことが有難かった。
そしてこの日は、仕事の後に、今井の歓迎会を開いてくれたのだ。
「今井係長の歓迎会なんですから、どんどん飲んでくださいね」
中でも、事務員の小原まひろは、困っていることがあれば、すぐに気がつき、いろいろ教えてくれる。
「小原、次は日本酒だ!」
「まひろちゃん、ついでに漬け物も追加してくれる?」
「わかりました」
この時も、小原は全く食事に手をつけていないようで、他のみんなの世話ばかり焼いていた。
見た目は若く見えるが、世話を焼く姿は、母親のようだ。気遣いのできる優しい女性なのだろう。
「係長も、遠慮しないでくださいね」
微笑む小原の横を陣取るように、島崎がやってきた。
「係長、騙されないでくださいよ、普段の小原は、酒豪なんですから」
「もう、言うな!」
「係長には、最初っからそんな姿を見せられないって、今日は我慢してるんだよね、まひろちゃん」
「手塚さんまで、やめてください!」
小原は、恥ずかしいというように、両手で顔を覆った。
「女性がお酒を飲んでも、オレはいいと思う」
フォローするように今井が言えば、顔を上げた小原は、救われたような表情を浮かべる。
「そうですか?」
「ほら、飲め、飲め」
島崎が、小原に日本酒を勧めようとしたら、なぜか突っ返した。
「やっぱり、今日は止めておきます」
「もったいないねー、まひろちゃん、この部署で一番強いのに」
営業所の人たちの雰囲気は、とても良かった。本社で働くことばかり考えていたが、こういうところで一からやりなおすのもいいかもしれない。
今井は、口が悪く喧嘩っ早い方なので、油断すると、会社でもそれが出てしまう。
目つきも悪いから、営業向きではないと散々言われ続けた。だから、なるべく笑顔でいるつもりなのだが、それは本人が思っているだけ。
それでも努力をして、営業の成績は上げていた。だから、係長まで上り詰めることができた。
本社に行くまでは、きっと恵まれていたのだろう。フォローしてくれる人たちが、たまたま傍にいた。だから、多少のことがあっても、クビにならずに済んだのだ。
仕事ができなくても、腹が立ったとしても、工藤が上司ということは紛れもない事実。どんなことがあっても、逆らってはいけない相手だったのだ。
「じゃあ、そろそろお開きにしましょうか。今井係長、これからよろしくお願いします。みなさんも、来週から頑張りましょうね」
歓迎会を締めたのは、小原だった。他のみんなは、酔っ払って虚ろ状態だ。小原の言葉も、ほとんど耳に入っていないようだった。
「いつもこんな感じなのか? あまり食べてなかっただろ」
彼女の世話を焼いている姿しか目に入らなかったから、心配になって声をかければ、笑顔で答える。
「大丈夫ですよ。これが私の仕事ですから」
歓迎会までが仕事なのだと胸を張った。決して嫌だと言わない彼女の前向きさは、少し見習った方がいいのかもしれない。
少し酔った頭でそんなことを考えながら、帰るために靴を履いていた。すると、腕をぐいっと勢いよく引っ張られる。
「あっ、係長、待ってください」
「どうした?」
「部長のこと、お願いします」
「え?」
小原が指差す方に視線を向ければ、テーブルの上で突っ伏している新美の姿が目に入った。
思い起こせば、歓迎会の最中、新美の話す声を聞いた覚えがない。最初からいたはずなのに、彼の存在は全く感じられなかった。だから、どのくらい飲んだのかも把握していない。
「大丈夫かな」
駆け寄ろうとすれば、再び小原に腕を引っ張られた。
「係長、これは、新入りの試練です」
「試練?」
「はい、たとえ、係長だとしても、この営業所に来た新入りは、誰もが通らなくてはいけない試練なのです」
思わず、呆気にとられた。小原は酒を飲んでいなかったから、酔っているはずはないのだが。
「えっと……その試練って」
「はい。部長は、お酒は一滴も飲めません。でも、飲んでしまいました。もう一人では帰れません。なので、ご自宅まで送っていかなくてはいけません。これが試練です」
「家の人は?」
「一人で住んでらっしゃるので迎いは来ません。ご自宅は、この近くです。すぐわかりますよ。簡単な地図を書きますね」
小原は、鞄からメモを取り出し、さらさらと地図を描き始めた。
「ご自宅の鍵は、上着の左ポケットです」
今井に地図を描いたメモを差し出して、お願いしますと頭を下げた。
他のみんなは、既に酔った姿でふらふらと店から出てしまっていた。女性の小原に、部長を任すわけにもいかない。
郷に入れば郷に従え、というように、ここのルールがあるなら従うしかなかった。
「わかった。部長を家まで送るよ」
「ありがとうございます。多少引きずっても大丈夫だと思いますよ。私はそうしました」
「もしかして、君も部長を家まで送ったことがあるのか?」
「私を含め、営業部のみんなは経験済みです」
小原は、困ったように笑った。
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