ホワイトデー当日、遠野は忙しい一日を過ごしていた。
生徒たちからたくさんのチョコレートをもらったので、そのお返しに回っていたのだ。
やはり、バレンタインデーに贈り物を受け取るべきではないなと改めて実感する。
一番困ったのは、英語教諭の朝比奈先生のお返しだった。
明らかに本命だとわかるような高価なチョコレートを受け取っていた。好きだと告白されたわけではないので、気にしても仕方がないのだが。
彼女に選んだものは、お菓子とハンカチがセットになった、ごく普通なもの。
だけど、朝比奈先生はすごく喜んでくれた。遠野からお返しをもらえただけで幸せなのだろう。
やるべきことを終えてほっとしていれば、朝比奈先生が身体を寄せてくる。
「王子、このお礼がしたいので、お食事に行きませんか?」
「え? これは朝比奈先生にチョコをもらったから、お返しなんです。お礼はいりませんよ」
即座に離れて、勢いよく否定した。それでも彼女は、諦める様子を見せない。
「でも、お返しをもらえるなんて思ってなかったから嬉しくて、今夜予定あります?」
朝比奈先生がくいくいと腕を引っ張てきたが、ある人物が遠野の視界に入り、意識がそちらに向いてしまう。
「遠野先生?」
「あ、すみません。ちょっと今夜は。また今度……」
お辞儀をして、遠野はその場を離れた。そして、ある男の後を追う。それは矢神だ。
なぜか辺りを気にして、こそこそと歩いていたから気になってしまった。
声もかけづらくて、思わず見つからないように後ろからついていく。
どこに行くのか不思議に思っていれば、矢神は医務室の前で足を止めた。手には、ピンク色の紙袋を持っている。
遠野は思い出す。矢神がバレンタインの日に、養護教諭の長谷川先生からチョコレートをもらっていたことを。
矢神は、医務室の扉をノックして、中に入っていった。
「……長谷川先生には、お返しするんだ」
きっちりしている矢神だから、お返しするのは彼らしいと思った。
だけど、自分にはそのお返しがもらえないことに、ひどく傷ついていた。
相手が女性だから、矢神はお返しするのだろうか。自分が男だから、お返しをもらえないのだろうか。
わかりきっていることを頭の中に巡らせ、肩を落とした。
彼にバレンタインの贈り物をしなければ、こんな気持ちになることはなかったはず。だけど、矢神が食べたいと言ったチョコレートを渡して、喜んでもらいたかったのだ。
職員室で帰る準備をしていれば、医務室から戻ってきた矢神が声をかけてきた。
「もう帰るのか?」
「はい、矢神先生、今日は何食べたいですか?」
「今日は作らなくていいよ。どこかで食べてから帰ろう。おまえ、何食べたい?」
「じゃあ、ラーメンがいいです」
食べたいものを聞かれたから、素直に答えたのに、矢神は不服そうな顔をした。何か間違ったことを言っただろうかと不安になる。
「矢神先生は、ラーメンって気分じゃないですか?」
「いや、ラーメンでもいいけど、もっと他に食べたいものないのかよ」
遠野は矢神と一緒に食べられるなら、何でも良かった。矢神は他に食べたいものがあったのだろうか。
聞いてみようかと思ったが、「早くしろ」と急かされたので、慌てて鞄を持って矢神の後を追った。
二人は、学校の近くにある古いラーメン屋に入ることにした。ここは馴染みの店で、店内はきれいとは言えないけれど、味は最高に美味しい。放課後は、生徒たちでいっぱいになる人気店だ。
この日は時間が遅かったから、サラリーマン風のお客が数人いるくらいだった。
いつもと同じ、ラーメンと餃子と炒飯のセットを食べ、たいした会話もなく食事は終わる。支払いは割り勘にしているのだが、矢神が「今日は、オレが払ってやる」と二人分払ってしまった。
「いいんですか?」
「たいした金額じゃねーだろ」
店主にごちそうさまと言って、二人はラーメン屋を出た。
「矢神さん、ごちそうさまです」
「もっといいもん食えば良かったのに、な」
「ここ美味しくて好きですよ」
「安上がりな奴」
ふと考える。もしかして、これが矢神にとって、バレンタインのお返しなのではないかと。何となくそんな気がして、思わず口から笑みが零れていた。
自宅に帰ると、矢神は部屋に籠ってしまった。もう少し一緒に過ごしたかったが、そんなことも言えず、遠野は明日のお弁当の下ごしらえをすることにした。
同居しているからといって、二人で何かをするということはほとんどない。恋人ではないのだから、あたりまえのことだ。各自好きなことをして過ごす。だから、遠野にとって特別なホワイトデーというこの日も同じ。普段と何も変わらない。
しばらくして、矢神がリビングにやってきた。猫のペルシャが足元で、彼に甘えるように鳴いている。
「コーヒーでも淹れましょうか?」
遠野が気を利かして言ったのに、答えは返ってこなかった。
「冷たいものの方が……」
「あのさ」
言葉を遮るように、矢神は口を開いた。
「はい」
何だか様子がおかしいので、下ごしらえの手を止めて矢神の方に向き直る。
「これ」
無造作に出されたそれは、紙に包まれたもの。
「なんですか?」
受け取ってよく見ると、包まれていた紙は遠野が愛用しているファッションブランドの包装紙だった。リボンもかかっている。
「え? え?」
驚いていれば、矢神が早口で捲し立てる。
「この間、その店で自分の服を買ったから、おまえのもついでに買ったんだよ」
「開けてみてもいいですか?」
「ああ」
遠野は、焦るようにリボンを解き、包装紙を開けて中のものを手に取る。それはTシャツだった。自分では選ばないシックな色合いで、かっこいい。身体にあててみれば、サイズもぴったりのようだ。
「ありがとうございます!」
矢神はなぜか、念を押すように何度も同じことを言う。
「ついでに買ったんだからな」
遠野は覚えていた。ついでと言ったが、このブランドは大きめのサイズしかなく、自分には合わないと矢神から聞いていた。だから、この店で自分の服を買うわけがないのだ。
きっと、遠野のために、わざわざ買いに行ったのだろう。そのことが伝わってきて、何だかくすぐったい。
大好きな人から贈り物をもらえたことが、どれだけ嬉しいか。彼が遠野とは違う気持ちなのはわかっていても、矢神は自分のことを考えてくれていた。それだけで幸せな気分になれるのだ。この日を忘れることはないだろう。
「一生大事にします」
「大げさだな」
Tシャツを胸に抱いて浮かれていれば、矢神が少しだけ笑ったように見えた。
END
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