「知り合いが多いね」
よく言われることだったが、自分ではそんなに意識したことはなく、ごく普通のことだと思っている。
その多いと言われている知り合いの中の一人、小枝子《さえこ》が営む店に遠野大稀《とおのだいき》はいた。
美味しそうなお菓子やケーキが並ぶ、可愛らしい内装が女性客に人気のお店だ。
なぜここにいるかというと、小枝子の夫が体調を崩して短期入院した為、賑わう店を手伝うべく、ここ二、三日教師の仕事を終えた後、帰りに寄っているのだ。
今までにも何度か手伝いに来たことがあり、店の様子もある程度知っていたから慣れていた。
それでも昨日は、月一回の感謝デーだったため、かなり忙しくて大変だった。
「ごめんね、大稀くん。ホント助かるわ」
「オレは大丈夫ですよ。任せてください」
エプロン姿の遠野は、食器を洗いながら胸を張った。
閉店間際、店内も静まり返り、そろそろ帰れるかなと思った頃、お客が来たことを告げる店内のチャイムが鳴った。
ちょうど小枝子は手が放せなく、止むを得ず遠野が急いで店に出ると、一人の客が店内に入ってきていた。
「いらっしゃいませ」
その客はスーツ姿の男性で、十一月になって肌寒いからなのか、顔半分隠れるくらいにマフラーを巻いていた。
男性客が一人で訪れるのは珍しいことではなかった。だが、ケーキが並ぶショーケースをかなり真剣に眺めているから妙に気になる。あまりじろじろ見るのも悪いと思いつつ、視線を客に向けてしまった。
ふと、その姿に見覚えがあるように思えた。顔が隠れているから一瞬わからなかったが、遠野が間違えるはずがない。
「矢神さん……?」
その人物なのか確信がないうちに、名を口にしていた。
突然声をかけたせいか、客は驚いたように身体をびくつかせる。顔を上げてこちらを見たと同時に、顔半分を覆っていたマフラーを片手でぐいっと下げ、客が高い声を出した。
「遠野!? なんで、おまえこんなところにいるんだ?」
やはりその客は、遠野と同じ学校で働く教師、矢神史人《やがみあやと》だった。
遠野は事情を説明しようとしたが、みるみるうちに矢神の表情が変わっていった。眉間に皺が寄り、遠野が言葉を発する前に怒鳴られる。
「おまえ、ここで副業してるのか!?」
「ち、違います! ここは知り合いのお店で、忙しいときに手伝っているだけです。お金はもらってません」
慌てて早口で答えれば、矢神はあまり納得してない様子で表情は険しいままだ。
「それはおまえの事情かもしれないけど、第三者はそうは思わないんだぞ。軽率な行動はするな」
「はい、すみません」
それはわかっていたから、なるべく店には出ず、主に裏方の仕事を手伝っていた。だが、閉店間際ということで気が緩んでいたのだ。
これが矢神ではなく、生徒やその親だったりしたら、誤解されていたに違いない。
矢神は自分にも他人にも厳しい人。彼に怒られるのなら仕方がないと遠野は思う。
「矢神さんは、ケーキ買いに来たんですか?」
「え? あ、いや……」
急に自分に話が振られたからなのか、矢神はなぜか慌てふためく。
「たまたま、店の前を通ったから入ってみただけだ……」
「そうなんですか」
こんな偶然があるのだろうか。遠野は矢神に会えたことに嬉しくなる。
さっきまで学校で一緒に働いていたのだから大袈裟に思われるかもしれないが、プライベートで会うのは気持ち的に違うのだ。
「あ、大稀くん、そろそろ上がってもいいわよ」
裏から店に出てきた小枝子が遠野に声をかけた。そして、客の矢神の姿を見た途端、笑顔になる。
「いらっしゃいませ、いつもありがとうございます」
矢神はバツが悪そうな顔をしながら、小枝子に軽くお辞儀をした。
一瞬、矢神と目が合ったが、すぐに視線を逸らされ、下を向いてしまった。
『いつも』ということは何度か来ているということなのだろうか。
何となく聞ける雰囲気じゃないので、遠野は話題を作る。
「小枝子さん、オレと同じ学校で働いている矢神先生です」
「おい、遠野!」
足早に矢神の傍へ寄って小枝子に紹介すれば、彼は迷惑そうな顔をした。だが、反対に小枝子は嬉しそうにする。
「大稀くんの職場の方だったのね。何度もうちのお店に買いに来てくれるとてもありがたいお客さんなのよ」
「そうだったんですか。いつもありがとうございます」
感謝を込めてそう言えば、何か気に障ったらしく、矢神は遠野を睨みつけてくる。小枝子がいる手前、怒れずにいるようだ。
「そうだわ。もし時間があるなら、二人にお願いしたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「今度発売するケーキの試作品があるの。よかったら味見してほしいなあって、だめかしら」
「いいですよ。ねっ、矢神さん」
遠野がそう言い切ったしまったせいか、矢神は断わらずに「はい」と頷いた。
「飲み物はコーヒーで良かったかな。ちょっと待っててね」
店内にはケーキと一緒にお茶ができるスペースが設けられている。昼間は主婦が集まり、夕方は学生やOLで賑わうのだ。
遠野と矢神は、一番奥の窓際の席に座って、小枝子の準備ができるのを待つことにした。
「時間、大丈夫でしたか?」
矢神の予定も聞かずに勝手に決めてしまった手前、遠野は後から心配になった。
マフラーを外しながら窓の外を眺める矢神は、軽く返事をする。
「ああ」
突然の嬉しい状況に遠野は浮かれていたが、矢神の方はうんざりしているかもしれない。エプロンを外して姿勢を正した遠野が、何とか話題を繋げようと頭をひねった。
「彼女さんへのお土産を買いに来たんですか?」
「違うよ」
「自分用ですか」
「ちょっと入ってみただけだって」
「いつも来てるんですよね」
「いつもじゃねーよ! 月に一回だ」
ずっと外を見ていた矢神が急に遠野の方に向き直り、なぜか興奮状態だ。あまりの剣幕に遠野はたじろぎ、話を続けてもいいものか迷ってしまう。
「えっと……月に一回って決めてるんですか?」
「男が一人で、しょっちゅうケーキ屋に来たらおかしいだろ」
「そんなことないですよ」
「じゃあ、おまえ、どのくらいのペースでケーキ屋に行く?」
「あ、オレは甘いものそんなに食べないので、滅多に行かないです」
「だろ! 普通はそうなんだよ」
矢神は、不貞腐れたように唇を歪めて言った。
「矢神さん、甘いもの好きなんですね」
「……悪いかよ」
「月一じゃなくて、もっと来てくれたら小枝子さんも喜びますよ」
「……おまえ、オレの話聞いてた?」
遠野の言葉に呆れたらしく、矢神が大きな溜め息を吐いた。
「はい」
「一人で何度も来るのが嫌だっつってんだろ」
「だって、甘いものが好きなんですよね? 何で嫌なんですか?」
遠野には矢神の言っていることが、よく理解できなかった。
『普通』は人それぞれ違う。他人がどうであれ、自分がしたいようにすればいいだけのこと。
遠野の実家は老舗の和菓子屋で、幼い頃から甘いものに囲まれた生活を送っていた。そのせいで今では甘いものを食べなくなり、ケーキ屋に行くこともないのだが、大好きなラーメン屋なら、遠野は毎日でも同じ店に通うだろう。
しばらく黙っていた矢神が、言いにくそうに小さな声で答えた。
「……恥ずかしいんだよ」
俯いてこちらを向かない矢神に、遠野は少しだけ彼の気持ちがわかったような気がした。
いつも堂々としているイメージがあったから、そんな風に感じる矢神を想像できなかったのだ。
「それならオレ付き合いますよ! 店に行きたい時は言ってください」
「男二人もどうかと思うぞ……」
「二人でいれば怖くないですよ」
張り切って言えば、諦めたように矢神が言った。
「わかったよ。覚えてたらな」
そんなやり取りをしていれば、コーヒーと試作品のケーキを持った小枝子がやってきた。
「お待たせしました。二種類あるんだけど、一つずつしかないから仲良く食べてね。一つは来週発売予定のムースショコラ。もう一つは、クリスマス限定発売を予定しているモカ風味のロールケーキになります」
「可愛らしくて何だか食べるのがもったいないですね」
遠野の言葉に、矢神も大きく頷く。
「味だけじゃなく、見た目も頑張ってるのよ」
「この可愛らしさが女性に人気なんでしょうね」
「でも、男性のお客さまもいるでしょ?」
そう言って小枝子が矢神の方を見れば、照れくさそうに困った顔をしていた。
「味見してほしいって言ったけど、あまり気にしないで食べてね。それでは、ごゆっくり」
優しく微笑んだ後、小枝子は裏に戻っていった。
「遠野、どっちがいい?」
矢神は、真っ直ぐな眼差しで両方のケーキを見つめている。
「矢神さんが選んでください」
「迷ってるからおまえに聞いてんの」
正直なところ、遠野はどちらでも良かった。矢神に食べたい方を食べて欲しかったのだが、本気で迷っているようだ。
「じゃあ、こっちのムースショコラを食べてもいいですか?」
「いいよ」
遠野がロールケーキの乗っている皿を矢神の目の前に置いた。その時、一瞬嬉しそうに表情が緩んだ矢神を遠野は見逃がさなかった。
しかも、矢神の食べ方は本当に美味しそうに食べるのだ。見ているだけで幸せな気持ちになってくる。
「これ、すごいな。スポンジがしっとりふわふわだし、イチゴがたっぷり入ってる」
「美味しそうですね」
「美味いよ」
ぱくぱくと口に運ぶ矢神の姿を見ながら、遠野も自分の選んだムースショコラを口にした。甘さが抑えられていてすごく食べやすい。
「オレ、甘い物は食べない方なんですけど、ここの店のケーキとお菓子はくどくないから好きなんですよね」
「だよな! ほら」
「……え?」
遠野は、矢神が目の前に差し出してきたものに驚いて硬直した。
「零れるだろ。早く口開けろ」
「あ、はい」
言われるまま口を開ければ、ケーキを掬った矢神のフォークが遠野の口の中に入れられる。
自分の唇にフォークが触れたのかそうじゃなかったのか、わからないうちに口からフォークが出された。
「どうだ、美味いだろ?」
得意げな矢神に何度も頷いて答えたが、突然の衝撃的な出来事にケーキを味わう前に飲み込んでしまった。
矢神の方は、遠野の唇が触れたであろうフォークで、再び普通にケーキを食べ始める。
気にすることではないのかもしれないが、遠野は思いっきり動揺していた。
小学生や中学生ならまだしも、いい大人が間接キスでドキドキするなんて。矢神の不意打ちに意表を突かれたのだ。
男同士なのだから意識する方がおかしいのはわかっている。遠野は矢神に気持ちがあるから仕方がない。
自分に対して矢神が、そんなことができるとは思わなかった。男同士でも嫌いな相手なら、こんなことをしないだろう。ただ、それは遠野が矢神を想う気持ちとは違うだけ。
遠野の気持ちを知らないとはいえ、何も気にしていない様子の矢神が遠野には小悪魔のように見えた。
もしかしたら、唇と唇を合わせる普通のキスの方が、遠野は平気でいられたかもしれない。
「ムースも食べてみますか?」
さっきの状況をもう一度味わいたくて、期待に胸を膨らませてそんなことを言ってみた。
「いいのか?」
「はい」
遠野が掬って食べさせようと思ったら、矢神は自分のフォークで上手い具合にムースを掬って口に運んだ。
「あっ……」
「これも美味いな。何個も食べられそう」
満足している矢神の目の前で、遠野はがっくり肩を落とすのだった。
食べ終わった後、小枝子にケーキの感想を述べた。
良い感想だけじゃなく、事細かく自分の思ったことをきちんと話す矢神に遠野は感心する。
決して上辺だけじゃない矢神の真面目な姿勢が好きだった。
「すごく参考になったわ。本当にありがとう」
小枝子にも好印象だったらしく、次の商品は期待のものができそうだと張り切っていた。
「あの、お伺いしたいんですが……」
帰り際、矢神が意を決したような顔で小枝子に尋ねた。
何事かと思い、遠野は小枝子と一緒になって少し驚いてしまう。
「何かしら」
「この店って、誕生日ケーキも扱ってますか? 小さいもので構わないんです」
小枝子は、安心するように穏やかな表情を浮かべる。
「彼女の誕生日ですか?」
「あ、えっと……まあ……」
何か言われると思ったのか、矢神は遠野の方をちらっと見た後、再び小枝子の方に視線を戻した。
「予約していかれますか? 生クリームや生チョコなどいろいろありますよ」
「誕生日はもう少し先なんだけど……どれがいいのかな」
「女性には、このハート型の生クリームが人気です。メッセージプレートもつけると喜ぶと思いますよ」
矢神の彼女のことを聞くのは、いつものことだから慣れていたはずだった。それなのに、なぜかその日はひどく胸が痛んだ。
さっきまで一緒に楽しい時間を過ごしていたからだろうか。恋人同士だと勘違いしてしまいそうになるほどの優しいひととき。それはたんなる幻想で、これが現実なのに。
同性である自分とどうこうなれるなんて思っていない。
矢神に恋人がいると知った時から、彼が幸せになることをずっと願っていた。それは、今も変わらない。
「矢神さん」
「え? 何?」
小枝子と彼女とのことで楽しそうに話をしている矢神が、笑みを浮かべたまま遠野の方を見た。
「オレ、ちょっと用事思い出したので先に帰ります。お疲れ様でした」
その場にいるのが辛くなって、遠野は逃げ帰るように店を出てきた。最後はほとんど矢神の顔を見ることができず、自分が笑顔でいられたかどうかも思い出せない。
普段は気づかない、激しい嫉妬心に襲われていた。
遠野は大きく息を吐く。
「こんなんじゃダメだ」
一緒にいられるだけで嬉しい。一度それを味わってしまえば、次はその上を求めてしまう。人は欲深い生き物だ。
この気持ちを知られてはいけない。隠しておけば、矢神の後輩として傍に居続けることができる。何も知らない矢神は、普通に遠野と接してくれるだろう。
遠野は、もう一度深い息を吐いた。
「大丈夫。きっとおめでとうって言える」
ついこの間、たまたま聞いてしまったのだ。矢神が同じ学校の教師である嘉村に話していた。
彼女の誕生日にプロポーズするということを。
矢神と彼女の付き合いは長いから、まず断わられることはないだろう。
だけど、正式に結婚が決まったら、自分がどうなってしまうのか想像がつかなかった。今は冷静でいられるけど、さっきのように嫉妬でコントロールが利かなくなる可能性もある。だから、恐いのだ。
好きな人の幸せを願うということは、同時に自分の失恋を意味する。最初から実らないものだとわかっていても辛いことだ。
嫌いになれたらどんなに楽だろうか。
矢神の嫌なところを一つ一つ思い浮かべる。だが、短所も含めて好きだからどうしようもなかった。
嫌いになれないのなら、相手に嫌いになってもらえばいいのかもしれない。
そんなことを考えた自分に苦笑した。
好きになってもらえないのはわかっていたから、ただ嫌われないようにずっと必死だった。それが、今は嫌われたいなんてことを考える。めちゃくちゃだった。
人を好きになると苦しいことが多い。あの日、もう二度と人を好きにならないと心に決めたのに、どうしてまた同じことを繰り返しているのだろう。
不意に立ち止まった遠野は、遠い記憶を思い出しそうになって軽く頭を振る。
そして前を向き、何事もなかったかのように再び帰路を歩き出すのだった。
END
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