触れてしまえば、もう二度と
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「矢神先生、今時間ありますか? 資料室の整理を手伝ってもらいたいんですけど」
放課後、久しぶりに嘉村が声をかけてきた。
「ああ、いいよ」
「じゃあ、お願いします」
嘉村と何を話したらいいのかわからないと思っていた矢神は、自分から声をかけることは、ほとんどなかった。
しばらく嘉村とは、業務のこと以外、会話らしい会話をしていない。
こんな普通の会話を交わすだけでも、身構えてしまうくらいだ。
資料室の整理とは、資料室にあるファイルに、前年度分の書類を部門別に綴っていくという簡単なもの。だが、これが意外に面倒で、けっこうな量があるから一人では無理な仕事だった。
毎年、担当になった人が手の空いている誰かに声をかける。そして仕事の合間を見て、何日もかけて終わらせていく。
今回担当だった嘉村が、たまたま居合わせた矢神を選んだ。ただそれだけで、仕事をしてくれるなら誰でも良かったのだろう。先ほどから会話はほとんどなく、もくもくと作業をこなすだけだった。
作業が進むのだからいいことなのはわかっていた。だが、そんなにも広くないこの資料室で二人、沈黙が続くのは耐え難かった。
「そ、そういえば、嘉村先生のクラスの市川、最近成績が上がってますね」
頭の中を巡らし、やっと浮かんだ話題を言葉にすれば、矢神の声が上擦った。
しかし会話が弾むどころか、嘉村は何も答えてくれず、勇気を出した意味がなくなる。
小さな溜め息が出た。
なぜこんなにも気を遣わないといけないのか。
少し苛立ちも沸いた。
矢神自身は何も悪いことをしていないのだから、堂々としていればいい。それなのに、性格の問題なのだろう。どちらかと言うと、嘉村の方が堂々としていた。
矢神は嘉村を怨んではいない。彼女が選んだということは、自分にないものを嘉村が持っていたということ。だから仕方がないのだ。
だが、一度わだかまりができると修復するのに時間がかかる。
こんな状態のままでは良くないことはわかっているのに、解決方法が見つからなかった。
「市川は――」
「え?」
「あいつは、矢神先生の授業がわかりやすいって言ってました」
会話が返ってきたことに嬉しくなり、頬が少し緩んだ。
「そっか、前は数学なんて嫌いだって言ってたのになあ」
「一年の時、希望の生徒に個人授業をしてましたよね。そのおかげで授業についていけるようになったと聞いています」
「個人授業ね……」
「最近は、個人授業してませんね。もうしないんですか?」
「うん、担任によっては、良く思わない先生もいてさ……」
「じゃあ、オレのクラスだけやってください。生徒の成績が上がれば問題ないんで」
矢神は嘉村らしいと感じた。
自分の利益になることなら、どんなことでもするタイプだ。だから反対に、自分に不利益になることには手を出さないし、関わろうとはしない。
そのせいで、他からは冷たいと見られることも多かった。
「嘉村先生も、クラスの生徒に個人授業したらいいんじゃないですか?」
「そうですね。考えてみます」
そこで会話が途切れ、再び沈黙が訪れた。
会話が続かないことなんてよくあることだから、気にしなければいいのだが、やはりどうにも居心地が悪かった。
自分ではなく、違う人を手伝いに選んでくれたら良かったのに。
そんなことを思っていたが、断わらなかったのは矢神なのだから諦めるしかないのだ。
ある程度作業を進ませてさっさと帰ろう。
そう思って作業のペースを速めれば、ボソリと呟くように嘉村が口を開いた。
「矢神先生は、遠野先生と仲いいですね」
唐突だった。
思わず、手を止めて嘉村の方を見てしまった。
「……そうか?」
「一緒にいること多いですよね」
「それ、他の人にも言われるけど、別に仲良くねーよ」
遠野と共に行動しているつもりはなかった。だが、いろいろな人から言われるということは、やはり多いのだろうか。
同居するようになってから、遠野が「夕食は何食べたいですか?」とか、「先に帰宅しますね」とか、余計な会話が多くなった。その分、以前より一緒にいる時間は多少は増えたかもしれない。
もし、それだけで仲が良いと言われているのであれば、あまりいい気はしなかった。
「前は遠野先生のこと苦手だって言ってませんでしたか?」
「オレ、そんなこと言ってた?」
遠野を苦手だと思っていたのは確かだ。しかし、それを嘉村に言っていた自分に驚く。
よっぽど遠野のことが、扱いにくい相手だと感じていたのだろうか。
「今は違うんですか?」
「うーん……相変わらず大雑把でウザイところもあるけど、深く付き合ってみると、そうでもないかなとか思ったり……」
曖昧に答えた。人を悪く言うのも、良く言うのも得意ではないのだ。
気持ちを言葉にするのは難しい。
言葉にしてしまえば、それだけが真実になってしまう。捉え方によっては、違う意味にも取られる。
だから、気持ちを伝えるのは苦手で、相手にどう思われるか恐いと感じていた。
「深く、ね。変わるものですね」
「ああ」
そう――人は変われる。気持ちも変わっていく。
だから、前と全く同じというわけにはいかなくとも、嘉村と普通に付き合っていくこともできるはずだ。
「史人らしい」
静かにポツリと言ったその声には、優しさが含まれているように思えた。
プライベートの時には、いつも嘉村は矢神を下の名前で呼んだ。今、それと同じように名前で呼ばれ、肩の力が抜ける。
嘉村が心を許してくれたことを感じたからだ。
今なら、離れていた距離を縮めることができるかもしれない。
「嘉村、オレ……」
きちんと話をしたい。嘉村と向き合おうとした瞬間だった。
「おわあっ」
急に前から突き飛ばされたと思ったら、嘉村に両肩を掴まれ、床に押さえ付けられる。
「いってー、何すんだよ!」
「史人は、すぐ流される」
「は?」
言葉の意味を理解する前に、嘉村が片手で矢神の両腕を掴んで、頭の上で押さえ込んだ。
「痛いって!」
ふざけているのかと思った。だが、眼鏡の奥の目は真剣で、とても冗談には見えない。
「離せ、嘉村!」
矢神が暴れれば、腕を掴んでいる手に力を込め、身体の上に跨るように圧し掛かる。
「史人、嫌がると相手は興奮するものだよ」
「耳元で、喋るなっ……」
耳に息がかかり、むずむずした。身をすくめれば、普段あまり表情を崩さない嘉村が口元を緩ませる。
「へえ、史人は、耳が敏感なのか」
何が起こっているのかわからなかった。わからないうちに、嘉村が行動を起こしていく。
耳元に唇を寄せ、耳朶に舌を這わせながら、もう片方の耳を指でなぞった。
「あぁっ……」
何とも情けない声が出て、恥ずかしくなる。だが、そんな矢神の気持ちはお構いなしで、嘉村は、耳の中に舌を挿れてきた。
ねっとりした舌の感触が、背筋をぞくぞくさせ、矢神の身体を震えさせる。
「やめ……んっ……」
口を開けば、おかしな声が出て、身体中が熱くなった。
嘉村は繰り返し、耳の中を犯すように舌を這い回らせ、片方の耳朶を柔らかく摘んで弄ぶ。
抵抗しようとしても、嘉村の方が矢神よりも力があるらしく、腕も身体も動かせない。
ばたばたと足を動かしてみるが、何も意味を持たなかった。
自分の意志とは反して、呼吸が乱れ、時には反応するように身体が跳ねる。
油断をすれば声が出そうになり、唇を噛み締めていることしかできなかった。
満足したように耳から舌を抜いた嘉村は、耳元で笑いながら囁いた。
「眞由美より、感度いいな」
それは、矢神が以前付き合っていた女の名前。そして現在、その相手は嘉村と付き合っている。
女性、しかも昔の女と比べられ、恥ずかしいだけじゃなく、怒りを覚え、嘉村を睨みつけた。
「何がしたいんだよ!」
嘉村の行動が全く理解できなかった。
矢神が嫌いなら、無視をして相手にしなければいい。こんな卑劣な嫌がらせは、嘉村らしくないし、大人気ないと感じていた。
「史人が悪い」
しかし、意味のわからない答えしか返ってこない。
「ちゃんと説明しろ」
懲りずに嘉村から逃れようと身体を動かしてみるが、やはり無意味で、嘉村はというと、今度は矢神のネクタイを緩めてくる。
そして、ワイシャツのボタンを外し、首元に唇を寄せてきた。息を吹きかけながら、顔を埋めていき、肩口に噛みついてくる。
「……っ!」
「こういうのは好みじゃない? 優しくされる方がいいか」
嘉村は眼鏡を指で直しながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた。完全に遊ばれているのがわかる。
「いい加減にしろ!」
思いっきり怒りをぶつければ、残念そうにため息を吐く。
「わかったよ」
そう言って身体を浮かしたから、止めてくれたのかと思ったが、両腕は掴まれたままだ。
何となく嫌な予感がした。
「嘉村……」
勘違いであって欲しい。願うように名を呼んだが、案の定、それは的中する。
嘉村の片方の空いている手がゆっくりと下へ移動していき、矢神のベルトに手をかけたのだ。
「何してんだ」
「大丈夫、すぐ済むよ」
「おま、ふざけるなっ」
悲鳴のような矢神の声は無視され、嘉村が難なくベルトを外す。
「嘉村!」
声を荒げて足をばたつかせれば、嘉村は苛立つように眼鏡を中指で上げた。
「声を抑えた方がいい。誰かに見られてもいいのか」
その言い方は、少しキツイ口調だった。
そんな風に思うなら、今すぐ解放して欲しかった。
放課後、生徒が資料室に来ることはほとんどない。しかし、教師が足を運ぶことは充分にある。
こんな場面を見られては、お互い立場が悪くなるのは目に見えていた。
だが、次の嘉村の一言に愕然とする。
「オレは、構わないけどな」
矢神と違って嘉村は他人を気にしない方ではあった。だが、ここまでくると、普通じゃないと思えてしまう。
嘉村が矢神のスラックスのチャックを下ろしていく。その音が妙に響いているような気がして、羞恥に目を瞑り、顔を背けて屈辱に耐えた。
その時だった。資料室の入り口から物音が聞こえてきたのは。
誰かが入ってきたのがわかった。目を開ければ、嘉村も音のする方に視線を向けている。
「嘉村、早くどけろ」
慌てている矢神とは違って、嘉村は冷静だ。誰かに見つかっても、本当に気にしないのだろうか。
どうにかならないかと身体を動かしてみるが、嘉村の方は一向に退くつもりはないようだ。
そうこうしているうちに、その人物が二人の目の前に現れる。
「嘉村先生、保護者の方から電話……」
相手は言葉を失った。二人の状況を目の当たりにしたら、当たり前のことだ。
だが嘉村は、何事もなかったように返答する。
「電話ですか?」
その瞬間、両腕を掴んでいた手の力が緩んだので、矢神は嘉村の手を払い除け、身体を押して退かせた。
慌てるようにスラックスのチャックを上げ、ベルトを締める。
ネクタイは緩んだままで、シャツも肌蹴たままだったが、一刻も早くここから立ち去りたかった。
うろたえながら資料室から出ようとしたが、さきほど入ってきた相手、遠野大稀が、呆然として通路に突っ立っていて邪魔になる。
お互いの視線が交差した時、遠野は何か言おうとしたのか、口を開きかけた。
「どけ!」
今は何も聞きたくなかったし、話したくなかったから、遮断するように矢神が怒鳴った。
遠野は項垂れるように肩を落とし、脇に寄って通路を開ける。
足早で資料室を出た矢神は、焦るように職員トイレに駆け込んだ。
こんな乱れた姿を誰かに見られたら大変だ。
幸いにも、トイレには他の教師がいなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。
不意に鏡に映った自分が目に入る。
暴れたせいか、服装だけじゃなく、髪も乱れていて顔色も悪い。とても哀れな姿だった。
そして、解放された安心からなのか、今になって足に震えがきた。
「くっそ……」
恐くなかったと言ったら嘘になる。
相手はよく知る人物、嘉村ではあったが、あの時だけは矢神の知らない嘉村の姿があった。
資料室に誰も来なければ、嘉村はあのまま事を為していたに違いない。
どんなことをするかなんて想像がつかないから、余計にぞっとした。
矢神は、嘉村のことが本当にわからなくなっていた。
元々お互い喋る方ではないが、それでも、いろいろな悩みや愚痴を言い合い、誰よりも心許せる相手だった。
それは、嘉村もずっと同じ気持ちでいてくれていると思っていた。
彼を怒らせるようなこと、傷つけるようなことを何かしてしまったのだろうか。
いくら考えても、当てはまることは思いつかない。
悔しくて目頭が熱くなった。
瞼をきつく閉じると、一粒の雫が頬を伝って落ちた。
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