触れてしまえば、もう二度と
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「矢神先生、彼女の手作り弁当ですか? 羨ましいですね」
昼休み、矢神の席を横切る先生たちが、机の上の弁当箱を見てはニヤニヤと口を揃えて同じことを言う。
その度に矢神は愛想笑いを浮かべた。
本当に彼女の手作り弁当なら、まだ堂々としていられるのだが、そうではないから困ってしまう。だからと言って、わざわざ正直に遠野が作ったとも言いにくい。
未だ開けてはいない弁当箱を見つめ、矢神は重い息を吐いた。
付き合っていた彼女にでさえ作ってもらったことのない手作り弁当が今、目の前にある。有難いことだが、遠野の気持ちを考えると手をつけられずにいた。手をつけてしまえば、気持ちを受け入れたことになるような気がして躊躇する。
だが、受け取ってしまった以上食べないわけにもいかない。その方が遠野を傷つけてしまう。
ぐるぐると頭を巡らせるが、答えは出ない。あまり深く考えない方がいいのかもしれない。
そう思いなおした矢神は、弁当箱を包んでいる布を解いた。予想はしていたが、弁当箱もマカロン柄だった。
ちょうどその時、授業を終えた遠野が職員室に入ってくる。ばっちり目が合ってしまった。
「お疲れ様です。ああ、お腹空いたー、お弁当、お弁当」
かなりご機嫌な様子で自分の席に着いたと思ったら、なぜか弁当箱と椅子を持って矢神の席にやってくる。
「遠野先生……なにしてるんですか……?」
思わぬ行動に呆気に取られ、ぼうっと遠野の様子を見つめた。詰めてくださいと言わんばかりに、矢神の隣に椅子を並べる。
「お弁当食べるんですよ」
「それはわかるんですけど、何でオレのところに……」
「だって、オレの席を見てください」
指差した遠野の机の上は、見事に書類が山になっていてスペースがない。
「……だから?」
「だから、矢神先生のところで食べるんです」
理由になっていない答えに怒りが沸く。
「片付けて、自分のところで食べろ!」
「オレ、片付けとか掃除は苦手なんですよね。だから整理しているうちにお昼終わっちゃいそうで。それに一緒に食べた方が楽しいですよ」
「楽しくねーよ!」
苛々している矢神とは正反対に、遠野は楽しそうにしながら矢神の机の上で弁当を広げる。まるで聞いてない様子だ。こんなことで言い合いをしていても、遠野の言うように本当に昼休みが終わってしまう。
納得がいかなかったが、諦めて弁当を食べることにした。
矢神は弁当の蓋を開けて中を見る。しかし、すぐに蓋を閉めて遠野を睨みつけた。
「なんだこれ!」
遠野は口にいっぱいご飯を詰め込みながら喋りにくそうに、食べないんですかと言ったが、何かに気づいたように焦って口の中のものを飲み込んだ。
「もしかして嫌いなものが入ってましたか?」
「違う! ご飯の上に乗っているものだよ」
「海苔です」
「そんなことわかってるよ! なんでこんな……ゴーゴーって……」
矢神は脱力したように頭を抱えた。弁当一つ食べるのも疲れるようだ。
二段式の弁当箱の蓋を開ければ、矢神の目の前に飛び込んできたのは、白いご飯の上に乗っていたGO!GO!いう海苔の文字。思わず恥ずかしくなって蓋を閉じてしまったのだ。
「矢神先生、それはお昼からもゴーゴーレッツゴー!って意味ですよ」
遠野が片腕を上げ、元気よく振り回す。たまに遠野のこういうノリについていけないと、矢神は感じることがあった。
「そんなの知るか! 普通の弁当にしろ!」
「わかりました。明日は普通のお弁当にします」
遠野は真面目な顔で頷いた。だが、これではまるで手作り弁当を自ら催促しているみたいだ。そのことに後から気づいても、今更作らなくていいとは言える雰囲気ではなかった。
海苔文字のGO!GO!はというと、蓋を開けて誰にも見られないうちに箸で掻っ攫うように急いで口に入れたのだ。
なぜ、こんな思いまでして遠野の作った弁当を食べているのか、自分がわからなくなりそうだった。
「海苔は好きじゃないんですね」
タコ形のウインナーを笑顔で頬張りながら、またしても喋りにくそうに言った。
「好きじゃないなんて言ってないだろ。勝手に解釈するな」
「じゃあ、お弁当のおかずは何が好きなんですか?」
「そうだな、甘い卵焼きかな」
「甘い卵焼き……」
ジャージのポケットから手帳を出したと思ったら、矢神の言葉を復唱しながらメモしている。
「何書いてんだよ……」
「矢神さんの好きなものリストです。他には?」
「そんなことメモるなよ……」
「重要です!」
「それより明後日の出勤時間メモしておけよ。普段より早いんだから、また前みたいに遅刻するぞ」
「あれ? 出勤時間早いんですか?」
今朝言われたばかりだというのに、聞いていないというようにぽかんとした表情をした。
「だから、それをメモしろ!」
「わかりました。それもメモしましたから、他の好きなもの言ってください」
矢神の言うことは適当に流され、質問の答えを早く早くと急かされる。
「あ? 他? えーと、ミートボールかな」
今食べたいものを思い浮かべて言葉にした。すると、遠野は復唱しながら少し笑っていた。それが馬鹿にしているように思えて癪に障る。
「笑うな! ホント腹立つな! もういいから、さっさと弁当食べろ」
「はーい」
軽く返事をする遠野が、更に矢神の怒りを買うのだった。
「あら、二人ともお弁当なのね」
そこに校長がにこやかな顔でやってきた。遠野は笑顔ですぐ答える。
「節約です」
「節約は大事よね。私も明日からお弁当にしようかしら」
「オレ、作ってきましょうか?」
「ありがとう。でも、遠野先生の負担を増やしては申し訳ないので大丈夫よ」
校長の分まで作ろうと考える遠野に、矢神は大物だと半ば呆れていた。
「矢神先生」
「え、はい」
不意に校長が自分の名前を呼んだので、驚いたような声が出てしまった。
「今日の放課後、少しお時間よろしいかしら」
「大丈夫です」
「では、授業が終わったら校長室に来てください」
「わかりました」
校長は終始笑顔だったが、なぜ呼び出されたのかいまいちわからなかった。
どんな時も優しくて穏やかな人だから、本心がわからない時がある。そういうところが恐ろしいと言う人もいた。
「珍しいですね」
遠野が深刻そうな顔をして耳打ちしてきた。
「何が?」
「矢神先生がお説教だなんて。頑張って耐えてください」
「何で説教限定なんだよ!」
「違うんですか?」
「おまえと一緒にするな」
遠野の二の腕をグーで叩けば、痛いですと泣きそうな声を上げた。
怒られるようなことは何もしていないはず。
そうは思っていても、内心気が気じゃなかった。
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