バレンタインデー 矢神史人編
生徒からは、バレンタインの贈り物は受け取らない。
教師同士も、バレンタインのチョコレートを渡さない。
こういう行事はきりがないので、二月十三日、職員室でそういう決まりを作った。
ところが、翌日の二月十四日、たくさんのバレンタインらしき贈り物を抱えて職員室にやってくる男がいた。
「遠野先生、何で受け取ってるんですか!」
職員室内に、矢神の声が響いた。
「受け取れないって言ったんですけど、いらないならゴミ箱に捨ててって言われて、オレ、そんなことできなくて」
矢神の剣幕に、遠野は怯んで尻込みしていた。
「だからって全部受け取ることないでしょ。上手く断れなかったんですか?」
「すみません」
「決めたじゃないですか、生徒から受け取らないようにするって」
「はい……」
今にも泣いてしまうんじゃないかというくらい遠野は落ち込んだ様子で、大きな身体が小さく見えた。
「矢神先生、そんなにひがまないの」
そこに、養護教諭の長谷川先生が現れた。呆れるように笑っている。
「ひがんでません」
「気持ちはわかるよ、遠野先生はこんなにモテモテだから羨ましいよね」
「だから、羨ましくなんか……」
「矢神先生には、私からこれ」
長谷川先生は、矢神の目の前に一つの箱を出してきた。
「え?」
それは、長谷川先生には似合わないピンク色の包装紙でラッピングされた可愛らしい箱。リボンもついていて、バレンタインチョコレートだということは明らかだった。頬が緩みそうになるのが自分でもわかる。
「嬉しい?」
矢神の顔を見ながら、長谷川先生がにやりと薄ら笑いを浮かべた。
「あ、いや、教師同士もこういうことはなしにしようって」
「もう堅いことは言わないの。ほら、あれ見て」
長谷川先生の指差す方を見れば、英語教諭の朝比奈先生が遠野に大きな箱を渡していた。
「やだー、本命じゃないですよー王子ったら」
頬を染めて女子高生よりもはしゃいでいる朝比奈先生の様子は、どこからどう見ても遠野が本命と言っているようにしか思えず、長谷川先生も「バレバレだ」と呆れ口調。遠野の方は、「矢神先生に怒られます」と困っていた。
「だからって、これは受け取れません」
長谷川先生に突き返そうとしたら、真剣な表情で矢神を見据えてくる。
「受け取ってもらわないと困る」
「……それって」
長谷川先生は男勝りで、こんな女性が好む行事を楽しむタイプではない。その行事にわざわざ参加するということは、朝比奈先生が遠野を想うように、矢神に気があるのか。
それならば、これは本命のチョコレート。受け取るかどうかは、慎重に考えなくてはいけない。
彼女は矢神より二つ年上の三十路。男の影はなく、未だ独身を貫いている。付き合うことになったら、必然的に結婚に結びつくだろう。教師同士が夫婦になることは珍しいことではない。そこまでの気持ちを長谷川先生に持てるかどうかが重要だ。
チョコレートの箱を手にしながら、いろいろ頭を巡らせていた。すると、長谷川先生がぽつり言う。
「それ、けっこう高かったの」
「……はぁ」
見た目からして高級そうには感じたが、わざわざ言わなくてもいいのに、と頭を捻っていれば、次の言葉に愕然とする。
「知ってる? ホワイトデーは三倍返しだって。矢神先生からお返しもらわないと割に合わないのよ。よろしくね。あと、食べ物はいらないから」
肩をぽんぽんと叩かれ、長谷川先生は鼻歌交じりに去っていた。
その時やっと、ただ単にお返しが目当てだということに気づく。チョコレートを渡す相手は誰でも良かったのだろう。いいカモにされただけのこと。
一瞬でも、浮かれた自分に腹が立ったのだった。
*
「これ食べますか?」
学校から帰宅すれば、同居人の遠野が、テーブルの上に生徒からもらったチョコレートを並べた。
甘いものが好きな矢神は、手が伸びそうになったが、生徒のことを考えて手を引っ込める。
「矢神さん好きですよね。オレ、甘いものはあまり食べないので良かったら」
へらへらと笑う遠野の態度も気に食わなかったが、その言葉に矢神は一番苛立ちを覚えた。
「じゃあ、何で受け取ったんだよ」
「それは、昼間言ったとおり……」
「受け取ったんなら自分で食え。生徒がどんな思いでおまえに渡したと思ってんだよ。おまえに食べて欲しいからに決まってるだろ」
「そうですよね……すみません。全部、自分で食べます」
遠野はテーブルの上のチョコレートを掻き集め、しょんぼりと肩を落としていた。言い過ぎただろうか。だけど、間違ったことは言ってないつもりだった。
あの山の量のチョコレートを一人で食べるのは、つらいのはわかる。こういうことにならないためにも、生徒からバレンタインチョコレートは受け取らないと皆で決めた。それでも、受け取ったのは遠野なのだ。責任は自分で取るしかない。
「あの、矢神さん、これ」
性懲りもなく、遠野がラッピングされた真っ赤なバレンタインの箱を矢神の目の前に出してくる。こいつは本当にバカなのかと怒りが頂点に達した。
「だから、自分で食えって言ってんだろ! 何度も言わせんな」
「あ、これは、オレから矢神さんに、です」
「え?」
遠野からのバレンタインの贈り物。これは、どういう意味のものだろう。やっぱり「好き」という気持ちのこもった本命チョコレートってことなのだろうか。
遠野には一度、好きと告白されたが、「気にしないでくださいね」と言われたので、そのことには触れないようにしていた。
もし、そういう意味のものなら、受け取るべきじゃないのだが。
どうしようか迷って手を宙ぶらりんのままにしていれば、遠野がにっこり微笑んだ。
「いつもお世話になっているから、そのお礼です。今は友チョコとかも流行ってますよね」
「ああ、お礼ね、そう……」
深い意味はなかったことに胸を撫で下ろし、遠野からチョコレートの箱を受け取った。それは、思ったよりもずっしりと重くて驚いてしまう。よくよく見れば、有名なお菓子屋の限定チョコレートだということにも気づいた。
「遠野、これって」
「矢神さん、この店のチョコ食べたいって言ってましたよね?」
「……うん」
テレビで店のCMが流れた時に、そのことを口にした覚えがあった。大好きなお菓子屋だったけど、バレンタイン用の限定品だから自分では買い難い。誰かくれないだろうかと冗談交じりに嘆いていたのだ。
遠野はどんな思いでこのチョコレートを手に入れたのだろうか。バレンタインの時期の店内は女性ばかりのはず。そこに男がいたら、間違いなく浮いてしまう。そんな思いまでして、遠野は矢神のためにチョコレートを買ってきたのだ。
友チョコだと彼は言うけれど、きっと遠野のたくさんの想いが詰まっている。気持ちが表に出なくても、遠野にこんなにも想われているのだ。
矢神はお礼を言うタイミングを失っただけじゃなく、何だか顔までも熱い気がしていた。
黙って俯いていれば、不思議に思ったのか遠野が顔を覗き込んでくる。
「どうしたんですか?」
矢神は思いっきり遠野の身体を叩いた。
「痛いです、矢神さん」
「オレは、ホワイトデーとかのお返しはしないからな」
「わかってますよ、オレが渡したかっただけですから」
期待されたら困るから先手を打ったのに、遠野は叩かれた身体を擦りながら嬉しそうに笑う。
それがひどく憎たらしく思えると同時に、遠野の笑顔に和んでしまうのだった。
WDに続きます