第一章 <13>
「ただいま」
仕事を終えて矢神が帰宅すれば、先に学校を出たはずの遠野は、まだ家に帰っていなかった。
滅多なことがない限り遠野が先に帰宅し、食事の準備をして矢神の帰りを待っている。だが、最近は遠野の方が帰ってくるのが遅かった。
避けられているのだろうか。
「まさか、な」
お気楽な遠野がそんなことをするはずがない。学校でも普通に話をするのだから。
そうは思っていても、遠野の帰りが遅くなり始めたのは、嘉村に嫉妬したと言って抱きしめてきたあの日以降だった。
お互い何事もなかったように過ごしていたが、やはり気まずくなってしまったのかもしれない。
鞄を置いてソファに腰掛けた矢神は、頭をガシガシと掻いた。
嘉村や遠野のことを考えている場合じゃないのはわかっているのに、頭から離れない。
今、答えを出さなくてはいけないのは、二年の担任を引き受けるかどうか。未だに返事を伸ばしていた。
矢神が断われば、校長だって他の人を探さなくてはいけない。早く結論を出さなくては、迷惑になるのだ。
*
「確認お願いします」
一日の授業が終わり、矢神が一息ついていると、嘉村から書類を手渡された。
皆がいる前では、いたって普通に接してくる嘉村。あの時の出来事がまるで嘘だったかのように。
それぐらいの演技を矢神もできればいいのだが、口元は引きつり、顔が強張ってしまう。
書類を受け取り、目を通した矢神は思わず立ち上がった。
「嘉村先生、これって……オレ、まだ二年の担任引き受けたわけじゃ……」
それは、二年の担任に配られていた会議用の資料だった。榊原先生と書かれている横に矢神の名前が手書きで足されていた。
「そうなんですか? 榊原先生から矢神先生に渡すよう頼まれたんですけど」
「だけど、オレは……」
矢神が答える前に嘉村が話し出す。
「榊原先生の代わりは矢神先生以外に適任者はいないと思います。今、担任をされていない他の先生たちは経験不足で二年の担任は無理です。いつまで引きずっているんですか? 生徒のためにもそろそろ前を向いた方がいいと思いますけど」
涼しい顔で正論を言われ、何も言い返せなかった。
嘉村の嫌味な言い方は腹が立つが、こんな風にはっきり物を言ってくれるのはすごく有難かった。建前でいろいろ言われても、意味がない。
だから、矢神は嘉村のことを信頼していたのだ。
しかし、彼女を獲るような真似をしたり、この間みたいなことをするということは、今までのも全て悪意のある言葉だったのだろうか。少し不安になる。
何が本当で何が嘘なのか、矢神にはわからなくなっていた。
「とにかく、正式に決まるまでは会議にも出られないし、この資料も受け取れない」
突っ返すように嘉村に資料を戻せば、「そうですか」と素直に受け取って、他の二年の担任の机に資料を置いて行った。
榊原先生は、矢神を後任に決めている。どうするのか早く決めなくてはいけない。
嘉村が言うように、他にできそうな人物はいないのだ。
それはうぬぼれではなく、現時点で経験があって余裕のあるのは矢神だけで、引き受けるべきなのはわかっていた。
ただ、前進する一歩が未だ踏み出せないだけ。
経験があっても、こんな状態ではとてもじゃないが二年の担任をできるわけがない。きっとまた同じ過ちを繰り返す気がする。それなら、経験がなくても違う人の方が適任ではないか。
引き受けることも、断わることもできず、こうやってずっと答えを先延ばしにしている、ダメ教師に成り下がっていた。
溜め息を吐いて顔を上げれば、廊下から職員室を覗き込むように遠野がひょっこり顔を出した。
矢神を見つけた途端、こちらに向かって手招きしている。
しかも職員室の中には入らず、入り口から小声で矢神を呼んだ。
「矢神先生、ちょっと」
「ったく、何なんだよ……」
渋々立ち上がった矢神は、廊下で待つ遠野の元へ行った。
「忙しいのに、すみません」
遠野が低姿勢でぺこぺこと何度も頭を下げるので、困ってしまう。
「別にいいけど、何かあったのか?」
「はい、今、矢神先生に会いたいと言っている人がいて」
「は? ここに連れてくればいいだろ」
「そう言ったんですけど、学校には入りづらいみたいで」
「誰だよ」
遠野が指差す窓の外に視線を移せば、校門の前に見覚えのある姿が立っていた。
「あっ……」
遠目ではわかりにくかったが、立ち姿なのか仕草なのか人物が特定できて、思わず窓にへばりつくように見入ってしまった。
「急だったんですけど」
「あいつがオレに会いたいって言ったのか!?」
遠野の説明を聞かぬ間に、矢神は詰め寄って問い質す。
「えっ、あ、はい」
矢神の剣幕に、遠野も怯むように一歩引いた。
「でも、なんで……」
「それは、本人に聞いた方がいいと思いますよ」
「……そうだけど」
矢神は戸惑っていた。
再び窓の外に視線を移す。自分に会いに来るはずのない人物が間違いなくそこにいた。
「オレ、一緒に行きましょうか?」
遠野は心配して言った言葉だったのだろうが、矢神には馬鹿にしているようにしか思えなくて、つい逆上する。
「一人で行くよ、子どもじゃないんだから! ついてくんなよ」
遠野を置いて玄関に向かい、門へと足を進めた。
強気で言ったはいいものの、正直なところその人物に会うのは恐かった。
相手から会いに来てくれたのだから、そう身構えなくても大丈夫だとは思うが、やはり緊張する。
今までにも話をするために何度も電話をかけたし、会うために家を訪ねた。しかし、叶うことはなかった。
それから数カ月が経ち、今、その相手が自分に会いに来てくれている。不思議な状況だ。
門に近づいていけば、矢神の姿に気づき、挨拶するように手を上げる。釣られるように矢神も手を上げた。
すると、はにかんだ微笑みを浮かべる。あの頃と同じ表情に、少し緊張が解けた。
彼、日向誠一は、今年の2月に退学した矢神の元教え子だった。