触れてしまえば、もう二度と
第二章 <1>
夏休みが終わって二学期が始まっていた。
二年A組のクラス担任を引き受けた矢神の不安は尽きない。高校二年の二学期という中途半端な時期に、突然担任が変わったのだ。受け入れてもらうのには時間がかかるだろうと踏んでいた。
だが、徐々に生徒とも打ち解け、クラスの雰囲気は良くなっている。それは、一人一人面談を行っているおかげなのかもしれない。
A組のクラスは、一年の時から授業を受け持っていたから名前と顔は一致していた。どんな生徒なのかもある程度はわかっている。しかし、それだけではクラス担任は務まらない。
相手が何を考えているのか、お互いのことを知っていくことが大事なことだ。些細なことでいい。好きなもの、嫌いなもの、そんなことを知るだけでも距離は縮まる。
おかげで、矢神を怖がっていた女子生徒の半数は、普通に話しかけてくれるようになった。
前任がベテランの榊原先生だったということもあって優秀なクラスだ。その中でも、合田匡は面談した時から好印象で、クラス委員でもないのに矢神のわからないことを率先してサポートしてくれる。とても助かっていた。
彼は成績も上位の方で、野球部でも一年の時からレギュラーで活躍している。榊原先生も頼りにしていたらしい。
そんなベテラン教師でも、手に余る生徒がいたという。楢崎圭太、クラスに溶け込めず孤立していて、学校も休みがち。どうにか力になろうとしても、榊原先生の思いは届かず。辞める上で一番の気がかりは、彼、楢崎のことだと口にしていた。
楢崎とは、一年の時に個人授業をしたことがあった。その時は問題視されるような生徒とは思えなかったのだが、担任と教科担当の見方では、また違うのかもしれない。
榊原先生から気にかけてやって欲しいとお願いされた以上、責任を持って引き継いでいこうと決意する。
その日はちょうど、楢崎との面談の日だった。
放課後、急いで面談室に行けば、楢崎が立ったまま待っていた。分厚いレンズの丸い眼鏡を指で持ち上げながら、おどおどした様子だ。身長は矢神よりあるが、細身で猫背のためかあまり大きく感じない。
「悪い、待ったか」
矢神の問いかけに、楢崎は俯き加減で首を横に振るだけ。
「座って待ってれば良かったのに。どうぞ」
緊張しているのか、怖々と椅子に座る。そういえば個人授業をした時も、おとなしくてあまり喋らない方だった。矢神はそんなことを思い出していた。
「一学期は、休みが多いな。何かあったか?」
またしても口を閉ざしたまま、首を横に振るだけだ。
「休みすぎると、単位が足りなくなる。それはわかってるよな?」
震える指で眼鏡を直しながら、頼りなげに楢崎が頷いた。
「数学の成績は悪くない方だな。他の教科は……授業についていけないか?」
申し訳なさそうに何度か頷く。机の上に置いていた両手の拳が微かに震えていた。
「休むと授業にもついていけなくなる。まずは、きちんと学校に来た方がいい」
反応はしてくれるが、一方的に話しかけている状態に矢神は小さくため息を吐いた。
「学校は楽しくないか?」
「……たまに、楽しい……です」
楢崎が初めて言葉を口にした。驚きと共に嬉しくなる。
「そうか、何が楽しい?」
自分でも驚くくらいの弾んだ声を出していた。
「矢神さんに、会えるから」
「オレ? それは嬉しいけど、さん付けじゃなく先生って呼べ」
「……その方が、いいですか?」
「ああ」
がっかりしたように顔を俯かせたが、こればっかりは仕方がない。教師と生徒であることを区別するには必要なことだと思っていた。中には教師と生徒があだ名で呼び合い、上手くいっているケースもあるだろう。それでも矢神の中ではあり得なかった。
「楽しいのはたまにって言ってたけど、そうじゃない時はどういう時だ?」
楢崎は、きちんと受け答えをしてくれる。問題のある生徒ではない。彼の支えになってやれば、きっと学校にも来るようになるだろう。
「授業についていけないとか、友達のこととか、何か悩んでるのか?」
「……遠野先生」
急に思いもよらない名前が、楢崎の口から出てきた。
「遠野、先生? 楢崎に何かしたのか?」
遠野なら何か仕出かしててもおかしくないと思えた。だが、楢崎は的外れのことを言い始める。
「矢神先生と一緒に住んでるんですか?」
「え? ああ、事情があってな」
遠野と同居していることは、生徒たちに隠しているつもりはなかった。だけど、公表することでもないと思ってあえて黙っていた。情報はどこからか洩れるものだ。公表していないことが返って、生徒たちの間でおかしな噂になって広まってしまったのかもしれない。
「それが気になってたのか? 楢崎には関係ないことだろ。他に悩みはないのか?」
「関係……」
楢崎の唇が動いていたが、何を言っているのか聞き取れなかった。
「どうした?」
急にすっと顔をあげた楢崎が、はっきりとした口調で言う。
「矢神先生、お酒弱いですよね」
「……まあ、弱いけど。未成年なんだからまだ酒に興味を持つな」
おとなしそうに見えて、実は酒や煙草に手を出してたりするんだろうか。矢神は心配になった。
「楢崎の興味あることは? 趣味とかないのか?」
「矢神先生を介抱したのはボクです」
喋るようになったと思ったら、今度は逸れた話をし始めた。突然のことでついていけなくなる。
「は?」
「酔ってたから覚えていないんですよね? ボクがホテルに連れて行ってあげたんですよ。あそこでボクたちは結ばれたんです」
何のことを言っているのかわからず、虚言癖でもあるのかとますます心配になった。そんな矢神とは裏腹に、楢崎は淡々と話を続ける。
「もしかして、全てなかったことにするつもりですか? ほら、これ見てください」
ポケットから取り出した自分の携帯を矢神に見せてきた。画面には動画が映っているようだ。見えにくくて覗き込むようにすれば、飛び込んできた映像に思わず息を呑み、画面に釘付けになった。
「なっ……」
そこには、胸元をはだけさせたベッドに眠る矢神の姿が映し出されていたからだ。
「矢神先生でもこんな間違い犯しちゃうんですね。あはっ、その表情いいなあ。今、すごく動揺してますよね?」
あまりの衝撃的な事に、平常心を保つことができずにいた。
「あの日、あなたはひどく傷ついていました。自分のせいで生徒が卒業できなくて。なぐさめてくれるなら誰でも良かった、そんなところですか?」
記憶がないから、弁解のしようもなかった。
「責任取ってください」
「どうすれば……」
「ボクと恋人として付き合ってください」
「それはできない」
「男同士でも案外楽しいですよ」
「そうじゃない、オレは、生徒とはそういう関係にはなりたくない」
「でも、身体の関係は持っちゃったんですよね?」
言っていることがめちゃくちゃなのは、自分でもわかっていた。それでも生徒と付き合うことは絶対にできない。教師になった時に、そう自分で決めていた。
「違う形で、責任を取らせてもらえないか?」
「恋人じゃないと嫌です。じゃあ、もう少し時間あげますね。学校にばれても大変でしょ? どうするか考えておいてください」
最初の時とは違って楢崎の口元が嬉しそうに歪んだ。そして、鞄を持って軽やかに面談室を出て行く姿は、まるで別人のようだった。
自分のしたことに、頭を抱えるしかない。どうすればいいかなんて、何も思いつかなかった。生徒と関係を持った責任の取り方なんてわからない。楢崎が言うように、彼の恋人になるしか償える方法はないのか。正解があるなら誰か教えて欲しい。
「矢神先生?」
遠野に声をかけられて矢神は我に返った。いつの間にか自分の席についている。職員室に戻った記憶がなかった。
「顔、真っ青ですよ」
心配そうな遠野の顔。最近、こんな顔しか見ていないような気がした。
「たいしたことない……」
本当にそうなら良かったのだけれど、今のところ解決策は見つからない。
あの日、ホテルに誰かがいた形跡は確かにあった。今まで何もなかったから、考えないようにしていただけのこと。
行きずりの相手と関係を持つ。そんなことを自分がするとは思えなかった。だが、あの時はまともじゃなかったのは覚えている。それでもまさか相手が生徒だったなんてことを予想できるわけがない。
整理がつかなくて何も考えられず、頭の中は空っぽになっていた。
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