触れてしまえば、もう二度と

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  第一章 <プロローグ 1>  

「矢神さん、しっかりしてください。ホテルに着きましたよ」
「ん……」
 男は、酷く酔っていた。意識は朦朧としている。
 酒に強い方ではないのに、いつもよりも多くアルコールを摂取したからだ。
 おぼつかない足取りで、一人の男に支えてもらいながら歩く。
 酔っている男は、矢神史人やがみあやと、二八歳。
 その矢神を支えているのは、バーで声を掛けてきた一人の男だった。
 声を掛けたと言っても、男がバーに現れた時には既に酔い潰れていたのだが。
 矢神は普段から真面目な男で、人の迷惑になることを嫌うタイプだった。だから、こんな風に人の世話になるというのは珍しいことだ。
 これには理由があった。






 矢神は、高校の数学教師をしている。
 今、一番大変な時期でもある高校三年の担任をしていたから、とにかく毎日が忙しく、生徒のことで頭がいっぱいだった。
 休日といっても、自分のためではなく、全て生徒のために時間を費やしていた。
 そんな矢神にも、結婚を約束していた女性がいる。
 基本、仕事重視にしてしまうところがあるので、なかなか会う時間を作れずにいたが、彼女はとても気立てが良く、矢神を支えてくれる人だった。
 だから、どんなに忙しく辛くても、乗り越えることができる。
 そのことを口には出さないが、彼女のことを大切に思っていたのだ。



 受け持っているクラスの大半が大学や就職を決め、ほっと一息ついた頃、矢神はある決意をしていた。
 彼女と付き合ってもうすぐで二年を迎える。そろそろケジメをつけるときだ。
 結婚を約束したと言っても、きちんとプロポーズしたわけではなかった。
 密かに婚約指輪を準備していた矢神は、彼女の誕生日のこの日に、ケーキを持って家に向かったのである。
 久しぶりに会うせいか、照れくさいというのもあり、連絡を入れずにいた。
 彼女の部屋の前まで来た矢神は、深呼吸をする。
 これからプロポーズをするのだから緊張するのは当たり前のことだった。
 上着のポケットに手を入れ、婚約指輪の箱を取り出しては何度も確認した。
 その動作を繰り返した後、やっと覚悟を決める。
 矢神は、チャイムを押さずに合い鍵で部屋の中に入った。
 無断で入ることに抵抗はあったが、以前チャイムを鳴らしたら、何のために合い鍵があるのかと彼女に言われたからである。
 こういうことを律義に守る男なのだ。
 中に入ると、玄関に客の靴があることに気づき、連絡を入れなかったことをすぐに後悔した。
「眞由美」
 自分が訪ねて来たことを知らせるために、彼女の名前を呼んだ。居間の灯りは点いているのに返事はない。
 仕方がなく靴を脱いで玄関を上がり、廊下を進んで居間の扉を開けた。
 やはり、部屋には誰もいない。どこかに出掛けているのかもしれなかったが、客人の靴が不思議で仕方がなかった。
 なぜ客の靴だとわかったかというと、それは男物だったからである。
 首を傾げながら、買って来たケーキをテーブルの上に置き、ソファに腰掛けた。
 彼女の部屋というだけで安心したらしく、一気に疲れが出たのか、ソファに身体を預けて目を瞑ると、そのまま眠ってしまいそうになった。
 そんな時、奥の部屋から物音がしたような気がして、身体を起こした。
 彼女は一人暮らしではあったが、親が借りてくれているとかで、部屋数の多い広いところに住んでいた。
 その一番奥の部屋から人の気配を感じた。そこは寝室である。
 何となく胸騒ぎを覚えながら、ソファからゆっくりと立ち上がり、奥の部屋の前まで静かに足を進めた。
 彼女の名前を呼ぶか、扉をノックするか一瞬迷ったが、矢神はそのまま勢いよく扉を開けたのだ。
 すると、胸騒ぎが現実となる光景がその場に広がっていた。
 薄暗がりの中、ベッドの上で彼女が他の男と裸で抱き合っている。それはまるで、ドラマのワンシーンのようだった。
 彼女が男に触れ、男が彼女に触れる。そんな場面を見たくないはずなのに、人は本当に驚くと身体が動かなくなるということを実感していた。
 しばらく呆然とその光景を眺めていれば、扉の前で立ち尽くしている矢神の存在に彼女が気づく。
 まさかここに矢神が現れるとは思っていなかったらしく、目を見開き、タオルケットで肌を隠しながら身体を起こした。
「あーや……」
 今にも泣き出しそうな声を出し、いつもの呼び方で矢神を呼んだ。
 怒って問い質せばいいのか、泣いて叫べばいいのか、矢神はどうすればいいのかわからなかった。
 ただ声を出そうにも、息が詰まっているかのように苦しく、言葉を発することも困難な状態だった。
 そんな矢神に、更なる衝撃が待ち受けていた。
 彼女の横にいる男がゆっくりと身体を起こした。
 ベッドサイドの灯りが男を微かに照らす。短髪だったから、表情を確認することができた。
 矢神は自分の目を疑った。その顔は矢神のよく知っている人物だったからだ。
「……嘉村?」
 普段は眼鏡をしているから一瞬わからなかったが、同じ学校で働く同僚の教師だ。
 嘉村は堂々としたもので、矢神の姿を見ても全く動じず、ベッドの上で彼女の腰に腕を回したままでいる。
 まるで自分のものだと言わんばかりの態度だ。
 学校でも冷静沈着のマイペースな男だったから、普段通りではあった。
 動揺しているのは、むしろ何も悪いことをしていない矢神の方だ。
 矢神の二つ年下の嘉村義弥かむらよしやは、日本史の教師をしている。
 口数は少なく、周囲からは何を考えているかわからないと思われることが多かったが、なぜか矢神とは気が合った。
 年齢が近いということもあり、人付き合いが上手い方ではない矢神が、珍しく相談に乗ったり乗ってもらったりと心から打ち解けることのできる間柄だった。
 当然、彼女のことも話していた。将来一緒になりたいということも嘉村は知っているはずだ。
 それなのに、どうして――。
 今までそんな素振りを見せたことは一度もなかった。
 彼女が浮気していたということよりも、相手が嘉村だということの方がショックだった。
 二人に問い質す勇気は、矢神にはなかった。
 ただ負け犬のように、その場を足早に去ることしかできなかったのだ。



 その後、彼女の方から連絡が入り、二人で会うことになった。
 矢神は、たった一度の過ちなら許してもいいのではないかと考えていた。
 今までこんなに長く付き合った相手はいなく、将来のことを考えたのも彼女が初めてだった。それほどまでに、彼女のことを想っていたのだ。
 だが、話を聞けば、嘉村と関係を持ったのは半年も前からだと言う。その間ずっと、彼女と嘉村は、矢神を裏切り続けていたということだ。
 そして、彼女が続ける言葉に愕然とする。
「あーやに会えなくてずっと寂しかった。彼とは浮気じゃないの……本気なの、ごめんなさい」
 仕事とはいえ、彼女が何も言わなかったのをいいことに、放ったらかしにしていたのは矢神の方だった。
 支えられていたのは自分だけで、彼女の支えにはなっていなかった。離れていても心が繋がっているなんてことは、現実にはなかったのである。
 何度も謝り、涙を見せる彼女を責める気にはなれなかった。ただ悔しくて辛くて、自業自得なのだと自分に言い聞かせるしかなかったのだ。



「これ、矢神先生のですよね? 印刷したまま放置されてました」
 テスト問題を印刷したまま忘れていた矢神のところに、嘉村が親切に持ってきてくれる。
 あれから嘉村とは、何事もなかったように接していた。
 お互いあのことには一切触れず、業務だけをこなして過ごしていたのだ。
 だが、仕事だと割り切っていても、平然と話しかけてくる嘉村が時には苛立ちを覚えることもあった。
 礼も言わずに無言で用紙を受け取れば、即座に間違いを指摘してくる。
「五問目と六問目、同じ問題です」
 頼んだわけでもないのに、勝手にチェックされたことに腹が立った。
 しかし、用紙を確認すると、確かに五問目と六問目が全く同じ問題になっている。その他にも間違いが多く、いったい自分は何を作っていたのかと問い質したくなった。
 溜め息を吐きながら再びパソコンに向かうと、自分の席に着いた嘉村が静かなトーンで呟くように言う。
「矢神先生、最近ミスが多いですよね。気をつけてください」
 ――誰のせいだと思っているんだ。
 叫びたい気持ちを押さえつつ、嘉村の発言は無視して、テスト問題を作るのに専念した。
 放課後のせいか、職員室には矢神と嘉村の二人しかいなかった。
 遠くから生徒の楽しそうな声は聞こえていたが、二人の間には沈黙がひたすら流れ、その空間がとても嫌な雰囲気だと矢神は感じていた。
 嘉村がどう思っているのかはわからなかったが、矢神にとっては、彼と一緒にいることが苦痛で仕方がなかった。
 同じ職場なのだから、避けるといっても限度がある。嫌でも話をしなきゃいけない時は訪れる。
 矢神は真面目な人間だから、仕事に支障がきたすのはどうにも許せなかった。ましてや生徒にまでこの影響が及んでも困る。
 自分の弱さを知っていたから、この状況を続けていくのは無理があると思っていた。
 どうすべきなのかは、矢神自身が一番理解しているのだ。
 作業を一端止めた矢神は、思いきってずっと胸にあったことを口にした。
「嘉村が本気なら、それでいいよ」
 校内で、相手を呼び捨てにすることはほとんどなかった。
 あえて普段の呼び方にしたのは、プライベートのことだからだ。
 それは、負け惜しみにも聞こえる言葉だったかもしれないが、矢神の本心だった。
 彼女のことは大切だったが、それと同じく同僚の嘉村のことも大切に思っていた。
 聞こえていないのか、意味がわからなかったのか、嘉村は何も答えなかった。
 だが、それでも矢神は、自分の気持ちに一区切りをつけたのである。




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