触れてしまえば、もう二度と * 番外編 *

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それでもあなたの傍に 02


「本当にここに置いておいたのか?」
「はい……そのはずなんですけど」
「そのはずって……」
 ファイルやプリントで山になっている遠野の机の上を見て、矢神が深い溜め息を吐いた。
「遠野、おまえ、いい加減机の上片付けろよ……」
 土曜日の夕方、遠野は、矢神と二人きりで学校の職員室にいた。
 他の教師はというと、年に何度かある教師同士の交流を深める飲み会に参加していた。学校の中には、遠野と矢神以外誰もいない。
 部活などで学校に来ていた生徒も、みんな家に帰宅していた。
「何で、あるべき場所にないんだよ!」
「おかしいですね」
 誤魔化すように遠野が笑えば、ドカッと椅子に座った矢神は、苛立つように頭を掻き毟った。
「矢神先生、オレ探しておきますから、飲み会に行ってください」
「そういうわけにいかないだろ。オレの仕事をおまえに頼んだんだから」
「でも、それをオレがなくしてしまったわけですし……」
 昼間、忙しくしていた矢神を手伝うため声をかけたら、分厚い資料のコピーを頼まれたのだ。
 矢神の仕事だから特に念入りにやろう。そう思ってコピーしたまでは覚えている。
 だが、その後、別の先生の仕事も手伝っていたら、いつの間にか、コピーしたものが矢神の資料ごと紛失していたのだ。
「もう一度まとめるか……締め切りまでに間に合うかな」
 ぶつぶつ言いながら矢神は片手で頭を抱え、険しい表情で悩んでいる。
 ここ数日、資料をまとめるのに必死になっていたのを知っているだけに、それをなくしてしまったことが申し訳なくて自分が情けなくなる。
「本当にすみません。オレができることは何でも手伝います」
 椅子に座る矢神に頭を下げて詫びれば、軽く溜め息を吐いて言った。
「悩んでても仕方ないな。とりあえず、もう一度探すぞ」
「はい」
 立ち上がった矢神の後を追うように、遠野も再び辺りを探し始めた。
 机の上にはプリントなどの紙類が山積みになっているが、ここに置いたのだから必ずあるはず。それなのに、資料がないのはおかしい。
 一冊一冊ファイルを手に取りながら、遠野は首を傾げた。
 掃除や整理整頓、そういうことが苦手で、物をなくすことが多かった。
 普段は何とかなると思い、あまり気にしないのだが、今回は自分のものじゃないのでそういうわけにもいかない。
 ふと、昼間のことを思い出してみる。
 矢神の資料をコピーして、大事に扱うよう注意しようと考えていた。
 コピーした後、すぐに矢神に渡せば良かったのだが、他の先生と打ち合わせをしていて忙しそうにしていた。
 そのため、矢神が落ち着いた頃に渡そうと思ってしまったのが間違いだったのだ。
 物をなくすのが得意なのは、自分でもわかっていた。
 だから気をつけようとしていたのに、その後の記憶がないのでは全く意味がない。
 確か、資料室からファイルを持って来てもらうのを頼まれ、その後すぐ、校長に話しかけられた。
 そんな記憶を微かに思い出す。
「あっ!」
「あったのか?」
「思い出しました」
「え?」
 遠野は、おもむろに自分の机の一番大きな引き出しの鍵を開けた。普段そこには、何も入れていない空の引き出しだった。
「校長先生が、大事なものは鍵がある場所に入れるといいという話をしていて、この引き出しの中に入れたんでした。すっかり忘れてましたよ」
 遠野の行動に矢神は、脱力したようにその場でしゃがみ込み、顔を伏せた。泣いているんじゃないだろうか。
「今後、このようなことがないように注意します」
 コピーされたずっしりと重い分厚い資料を疲れきっている矢神に手渡した。
「見つかったから良かったけど……今度からは気をつけろよ」
「はい」
「じゃあ、その辺片付けて早く出るぞ。さっきからまだ終わらないのかっていうメールが鳴りっぱなしなんだよ」
「ああ、オレのところにもたくさん入ってます」
 矢神に言われ、遠野も自分の携帯を確認してみた。
 不在着信とメールが大量に送られてきている。
 飲み会の場所は、学校から歩いて十分くらいのところにある居酒屋だった。校長の知り合いが経営しているとかで、安くしてくれるらしく、教師みんなが集まる時は毎回その店を使っていた。
 遠野と矢神は、まさか資料をなくしたとは言えず、仕事が溜まっているから少しだけ進めて、それから参加すると伝えていた。
 飲み会の開始から既に一時間以上は過ぎている。早くしろと催促されるのはあたりまえだった。



「遅くなりました」
 遠野と矢神が居酒屋に到着した頃には、お酒を飲んでいるメンバーは、ほとんど出来上がっていた。
 教師みんなが座れるその部屋は、かなり広い。掘りごたつの座敷で、手前と奥に空席があった。そこが遠野と矢神の席になるわけだが。
「遠野先生!」
 奥で声を張り上げたのは、化学の教師、結城先生だ。五十代半ばだが、若い教師よりもエネルギーが溢れていて、いつも大きな声で生徒を指導している。
 そんな結城先生の隣の席が空いているらしく、ここに座れというように席をバンバンと叩いていた。
「はい」
 呼ばれたので奥へ行こうと思ったら、ぐいっと腕を引っ張られた。遠野を引っ張ったのは隣にいた矢神だった。
「おまえ、こっちに座れ」
「え?」
「結城先生、お酒が空じゃないですか! 注文しますか? オレ、注ぎますよ」
 同じような大きな声を上げて、矢神が奥へと足を進めた。
 結城先生の隣に座り、笑顔で何か話しかけている。
 結城先生と飲みたかったのだろうか。
 首を傾げながら、遠野は手前の空いている席に座った。
 そこは校長を初め、女性ばかりが集まる座席のようだった。
「遅かったね、遠野先生」
「ずっと、待ってたんですよ〜」
 養護教諭の長谷川先生は遠野に向かって手招きをし、英語教師の朝比奈先生は、甘えるような声を出した。普段の真面目さとはまるで違う。
「あ、お邪魔します」
「遠野先生は、何飲みますか?」
 校長から渡されたメニューを受け取った後、不意にテーブルの上を眺めてみた。
 そこには空になったジョッキーやグラスが並んでいて、かなり飲んでいたというのがわかる。料理が乗っていたと思われる皿も、空になって乱雑していた。
 お腹は少し減っていたが、今から頼むのも悪いような気がした。
「オレは、生ビールをいただきます」
 長谷川先生の隣に座っていた朝比奈先生が突然立ち上がり、わざわざ遠野の隣に座り直した。
「遠野先生の生ビール一つお願いします。でも、良かったですね、結城先生から免れることができて」
「え?」
「そうそう、結城先生ったら、ここに来た時からずっと遠野先生と飲むんだって言ってたもんね」
 遠野が現れたと同時に声をかけてきたのだから、ずっと待っていたのだろう。
 ここに座ってしまったことに、少し申し訳なくなる。
「そうだったんですか? じゃあ、矢神先生と変わった方がいいかな」
「大丈夫よ、矢神先生自分から行ったんだから」
「そうですよ、わざわざ茨の道を進むことはないです」
 さっきから話の内容を聞いていると、結城先生には近づかない方がいいというような言い方だ。
「あの、結城先生、何かあったんですか?」
「遠野先生、結城先生と飲んだことないの? だから、狙われたのか」
「普段はいい人なんですけどね。酒癖が悪いんです、結城先生」
「そうでしたの?」
 遠野が答える前に、先に答えたのは向かいに座っていた校長だった。
「校長先生、知りませんでした?」
「ええ、お酒の席では普段以上に元気な方だとは思いましたが」
「確かに、元気が有り余っている感じだわね」
 ははっと苦笑して、長谷川先生はビールを一気飲みした。
 皆が口を揃えて言うということは、そんなに酒癖が悪いのだろうか。矢神のことが心配になった。
「酒癖が悪いって、例えばどんな感じになるんですか?」
「自分もお酒が好きだから皆と一緒に飲みたいらしんだけど、話題がお説教ばかりなんだよね。極めつけが、とにかく相手にお酒をどんどん飲ませるのよ」
「それが嫌で皆さん、結城先生のお隣を避けるんです。今日だって、誰も隣に座りませんでしたものね」
「今日は、餌食になるのは遠野先生だと誰もが思ってたんだけどね。まさか、矢神先生自ら行くとは。物好きもいるもんだ」
 遠野も長谷川先生と同じく、矢神は結城先生と飲みたいのだろうと思っていた。だが、疑問が残る。
 矢神は酒に強い方ではない。なるべくなら、飲まないで済ませたいタイプのはずだ。
 その矢神が、自ら酒飲みの結城先生の元へ行くだろうか。
 空いている席は、二つしかなかった。どちらかが結城先生の隣の席に行かなくてはいけない状況。
 あることに懸念を抱き、矢神と結城先生の方に視線を移してみた。
 結城先生が矢神の肩を抱き、酒を注がれ、飲めと催促されているようにも見える。矢神の頬は赤く染まり、既に酔ってきているというのが感じられた。
 時折、結城先生の大きな声が聞こえる。説教とまではいかないが、かなり語っている様子だ。それを矢神が頷きながらおとなしく聞いている。
 とても楽しそうには見えない。
 結城先生の元に行く遠野を阻止したのは矢神だ。隣に座れば被害に遭うということがわかっていて、遠野の代わりに矢神が犠牲になったのではないか。
 いても経ってもいられなくて、矢神の元に行こうと立ち上がろうとしたら、急に腕を掴まれた。
 長谷川先生だった。遠野の腕を掴みながら、勢いよくビールを飲んでいる。
「あの……」
 ドンとジョッキーをテーブルの上に置くと、目が据わった状態で言った。
「気になるの?」
「……え?」
 矢神の方ばかり見ていたことに気づかれただろうか。変な風に誤解されても困る。
 上手く誤魔化そうと思って頭を悩ませていると、長谷川先生は呆れたように溜め息を吐いた。
「矢神先生のことは放っておきなさいよ。子どもじゃないんだから、自分で何とかするでしょ」
「あ、でも」
「そうですよ。せっかく一緒に飲めるんですから、楽しみましょう」
 笑顔を絶やさない朝比奈先生が、遠野のもう片方の腕を掴む。そんな状況を見て、校長先生がくすくすと笑った。
「遠野先生、モテモテですね」
「そんなことは」
 校長に言われると思っていなかったので、慌ててしまう。
「モテるでしょ。生徒の中には本気の子とかいるもんね。間違い起こすんじゃないよ」
「生徒はダメですよ。教師同士ならいいんじゃないですか? 職場恋愛禁止じゃないですよね、校長先生?」
「ええ、禁止ではありませんが、公私混同されると困りますね。真剣にお付き合いしているのであれば、私は応援しますよ」
「真剣に……」
 遠野は、校長の話に聞き入った。
 職場恋愛が禁止じゃないということに、自分を当てはめていたのだ。
 それ以前に、好きな相手は同性のうえ、付き合っている関係でもないのだが、自分の世界にどっぷりはまっていた。
 いつか矢神と恋人同士になって、職場恋愛することを夢見る。
 だが、長谷川先生の笑い声で、一気に現実に引き戻された。
「朝比奈先生、それって遠まわしに告白してんの? 今日、朝から気合い入ってたのはそのせいか」
「やだー、違いますよー。でも、みんな王子と飲みたいと思ってるはずですよ」
「王子……?」
 その場にいた朝比奈先生以外の誰もが、固まった瞬間だった。
「朝比奈先生ったら、遠野先生のこと王子呼びしてんの? 頭大丈夫? 私が診てあげようか……」
「もう、私だけじゃないですよ、生徒の間で王子呼びしている子がけっこういて、それがうつっちゃっただけですー」
「生徒と一緒になって呼んでるの? やめなさいよ」
「でも、でも、遠野先生って王子っぽくないですか? 白馬の王子様、きゃあ〜」
 朝比奈先生は、頬に両手を当てて悶えるように腰をくねらせた。それを見て、長谷川先生は、ダメだというように首を横に振る。
「遠野先生、気にしない方がいいわよ。朝比奈先生、ちょっと酔っているだけだから」
 遠野は微笑みながら、何杯目かのビールをひたすら飲んでいた。
 先生たちの話よりも、奥にいる矢神のことが気になってそれどころではなかった。



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