触れてしまえば、もう二度と * 番外編 *

モドル

一人じゃなく、これからは二人

 遠野との共同生活もだいぶ慣れてきた。
 自分で決めたとはいえ、告白された相手と住むことになって一時はどうなるかと思った。
 だが、朝晩の食事だけじゃなく、昼の弁当まで作ってくれるから、かえって助かっている。
 他人と住むのも案外いいものだ。
 そう感じ始めた頃、事件は起こった。


「ああ、いい湯だった。遠野、風呂入っていいぞ」
「ありがとうございます」
「さて、お楽しみのあれを食うかな」
 冷蔵庫を開けた矢神は、中を見渡して首を傾げた。
「あれ? ここにあったやつ知らね?」
 バスタオルを持ち風呂へ行こうとしている遠野の方を振り向けば、彼はあっさりと答える。
「もしかしてプリンですか? 食べちゃいましたよ」
「は!? 何で食うんだよ! オレのだぞ。楽しみに取っておいたのに。しかも、プリンじゃねーよ」
 勢いよく冷蔵庫の扉を閉めた後、遠野に詰め寄れば、彼は困った顔をして一歩身を引いた。
「冷蔵庫に残っていたから、悪くならないうちに食べてしまった方がいいと思って……あれってプリンじゃないんですか? 瓶に入っていたからプリンなのかと……」
「何かわからないで食ったのかよ……賞味期限は今日までだったろ!」
 今日は休日の前日。この日、一週間の疲れを癒すために、大好きな甘い物を食べようと決めていた。
 矢神は楽しみを後に取っておくタイプだった。 
「今度買ってきますよ」
「あれは、限定品のフロマージュショコラなの。並ばないと買えないんだよ」
 遠野は矢神の行動に驚いたらしく、聞いたことのない高めの声を出した。
「わざわざ並んだんですか! ふろ……しょこら、ですね。じゃあ、今度はオレが並んで買ってきますよ」
 食べてしまった謝罪を込めての遠野の優しさではあったが、矢神には通じなかった。
「今、食いたいんだよ! バカ!」
「ごめんなさい……」
「絶対許さない」
 ソファに座った矢神は、テレビの電源を入れ、無視を決め込んだ。
 遠野は、泣きそうな声で何度も矢神の名前を呼んで謝ってくる。
 しばらくの間、傍にいて繰り返し謝っていたが、矢神が相手にしないので、諦めて風呂に行ってしまった。
「食べ物の怨みは怖いんだぞ」
 テレビを見ながら、誰に言うでもなく、矢神は独り言を呟いた。
 すると、愛猫のペルシャが足元に擦り寄ってきて、甘えるように一声鳴いた。普段は寄りつかないが、たまに寂しくなるのか、こうやって傍に来る。
 ふと、その姿が先ほどの遠野と重なり、自分の行動が大人気なかったのではないかと心配になった。
 わざと食べたのではないのだから、少し言い過ぎた気もした。
 同居を始めた時に、家のものを勝手に使っていいと言ったのは矢神だ。それに反するような出来事。
 しかも、今は冷蔵庫の中を管理しているのは、料理をする遠野だった。腑に落ちないと思っているかもしれない。
 だが、勝手に食べてしまうのもどうかと思う。一言くらい何かあってもいいのではない。こういうのは最初が肝心だ。きちんと決めておかないと。
 いつまで遠野がここに住んでいるかはわからないが、うやむやにしてはいけない。
 そんな時、限定品のアイスのCMがテレビで流れる。
「あっ!」
 何かを思い出したかのように叫んだ矢神は、キッチンに走り、冷凍庫を開けた。
「良かった、あった……」
 そこには、限定品のマロンチョコアイスが入っていた。
 限定のものだからと、大事に取っておいたのをすっかり忘れていたのだ。
 だが、テレビCMを見て思い出したものの、今は食べたい気分ではない。矢神の頭の中は、フロマージュショコラのことでいっぱいだった。食べられなかったことが悔しくて仕方がない。
 自分のやっていることに疲れて、溜め息を吐けば、背後から声がする。
「矢神さん、そんなに冷蔵庫を見ても食べてしまったからないですよ……」
 風呂から上がった遠野が呆れるように言いながら、長い髪をバスタオルで荒々しく乱暴に拭いていた。
 きれいな髪なのだからもっと優しく拭けばいいのにと思いつつも、遠野の言い方に苛立ち、
「わかってるよ!」
 と、怒鳴るのだった。
 再び遠野は、落ち込んだように肩を落とす。
「本当にごめんなさい、矢神さん」
 そんな姿を横目で見ながら、矢神は手にしていた限定品のアイスを持ち、電話の横にある油性ペンを取った。
「次からは、自分の物には名前を書く!」
 アイスのパッケージに大きく『あやと』と、自分の名前を大きく書いて遠野に見せた。
「どうだ、これで! このアイスはオレのだから勝手に食うなよ」
 矢神が得意げに言えば、遠野は微笑んで答える。
「はい、わかりました」
 それはまるで、子どもをあやすような言い方だった。



*

 



「矢神さん、おかえりなさい。遅かったですね。ご飯、すぐ食べますか?」
「悪い、ちょっと急ぎでまとめたいものがあるんだ。腹空いただろ、食ってていいよ」
 ソファの上に、上着と鞄、そして途中で店に寄って買ってきたものを無造作に放り投げた。
 遠野はキッチンの周りを片付けながら言う。
「いつでも食べられるように準備しておきますね」
 そんな遠野の言葉を聞きながら、矢神はファイルだけ持って部屋に向かった。



 しばらくして、仕事は順調に進んでいたが、いい加減腹が空いてくる。
 集中している時は気にならないのに、集中が途切れると、腹が空いて頭が働かなくなるのだ。
 それに、遠野が食事をしないで待っているのはわかっていた。
 同居しているからといって、一緒に食事をしなくてもいいと思うのだが、遠野は可能な限り矢神と食事を共にする。
 仕事の終わりは見えていた。あともう少し進めれば、完成する。
 しかし、「まだかな」と待つ遠野の姿を思い浮かべると、飼い主の帰りを待つ犬と重なり、何だか遠野が不憫に思えてしまった。
 矢神は、一端作業を辞めることにする。
 リビングに戻ると、ソファの上に散らばっていた荷物はきれいに端に置かれ、上着はハンガーにかかっていた。
 整理が苦手だという遠野にしては、珍しいことだ。
「仕事終わったんですか?」
 矢神の姿を見た途端、表情を明るくした遠野は、期待するような眼差しを向けてくる。
「ああ……まだちょっとあるけど、先に飯食おうと思って」
「じゃあ、温めますね」
「うん……」
 スキップするように軽やかな足取りで、キッチンを歩き回る。遠野の嬉しさがまるわかりだ。
 喜びをここまで表現できるなんて、ある意味羨ましい。気持ちを表に出すことが苦手な矢神にとっては、到底真似できないことだった。
 遠野が準備している間、ただ待っているだけなのも申し訳ないので、上着と鞄を片付けようと思った。その時初めて、店で買ってきたものがないことに気がつく。
 切れていた赤ボールペンを買ったのだが、それはテーブルの上に置いてあった。その他に買ったものが見当たらないのだ。
「なあ、遠野。買ってきたクリームパン知らね?」
 料理が乗った皿をテーブルに並べながら、遠野は不思議そうな顔をした。
「え? 食べちゃいましたよ」
「おいっ、何で食うんだよ!」
 テーブルに両手をついて、いきり立てば、遠野が困惑したような表情をする。
「さっき矢神さん、食べていいって袋を置いてくれましたよね……」
 矢神が食べていいと言ったのは夕飯のことで、買ってきたクリームパンのことではなかった。しかも、置いたのではなく、ただ放り投げただけ。遠野は勘違いしたらしい。
 呆れた矢神は、頭を抱えたまま首を横に振る。
「遠野……」
「それに、矢神さんの名前書いてありませんでした」
 更に、遠野の発言に頭が痛くなった。
 先日、矢神が宣言した『自分の物には名前を書く』のことを言っているのだろう。
 遠野の行動はふざけているのか、真面目なのか、たまにわからなくなる時がある。だが、本人はいたって真剣なのだろう。
「おまえさ、甘いものは食べないって言ってたよな……」
「はい。でも、クリームパンは好きです。だから、オレのために矢神さんが買ってきてくれたのかなって……違ったんですね」
 かなりショックだったのか、遠野は落胆している様子だ。
 確かに、矢神は自分の分しか買わなかった。
 それは、今回のクリームパンだけじゃなく、この間のフロマージュショコラも、限定品のアイスもそうだ。
 遠野は食べないのだと、勝手に判断していた。
 ずっと独り暮らしだったため、誰かの分を買うという習性がなかった。だから、矢神は自分のことしか考えていなかったのだ。
 今度は、同居人である遠野の分と二人分買った方がいいだろうか。
「じゃあさ……今度二つ買ってきたら、おまえも食うか?」
 何気なくそんなことを聞いてみた。遠野は照れたように頬を染める。
「矢神さんと一緒に食べたいです」
 無邪気な笑顔を浮かべて、そう返事をした。
 思わず矢神は、視線を俯かせる。
「わかった、次はおまえの分も買ってくる……」
 それ以上、まともに顔を上げられなくなった。
 普段と変わらないはずの遠野の姿が、なぜかその時だけは、まるで太陽のように眩しく感じたのだ。


END


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