それは、ただのキス

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それは、ただのキス09

「部長が大きなぬいぐるみですか」
 新美の席の前で、声を立てて笑う小原の声が事務所に響いた。
「小原、笑い過ぎだぞ」
 傍で作業をしていた島崎も、小原に注意しながら笑いをこらえている。そんな二人の姿に、新美は困ったような顔をしていた。
「そんなに可笑しいかな?」
「すみません。大きなぬいぐるみを抱えている部長を想像してしまって」
 小原の言葉に納得したらしく、新美が笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、私が持って行くんじゃないんだ。直接自宅に配送してもらうよう手配した」
「あたりまえだろ、小原」
「島崎さんも、笑ってたじゃない」
「去年は、プレゼントが当日までに間に合わなくて、悲しい思いをさせてしまったからね」
「今年は、娘さんの喜んだ顔が見られますよ」
 十一月一日のこの日、新美の娘の誕生日ということで、営業部ではその話題で持ちきりだった。
 普段は仕事に厳しい新美も、毎年この日だけは少し甘くなるという。娘の話を振れば、いつもと違う部長の顔が見られるから貴重だと、小原が言っていた。
 だが今井は、新美の娘の話題が耳に入るたび、胸が締めつけられるような痛みに襲われる。
 新美と一緒にいて、何もかもわかっているような気になっていた。だけど実際は、彼のことを何も知らなかったのだ。
 年齢的に、新美が結婚していてもおかしくはない。ただ、左手に指輪がなかったから独身なんだと思っていた。
 世の中には指輪をしない既婚者はたくさんいる。だが、新美から家族の話を聞いたことがなかったし、家庭を持っている雰囲気はまるでなかった。
 一番の決め手は、単身赴任者用の社宅ではなく、自分でアパートを借りて一人暮らしをしていからだった。妻子持ちなんて疑いもしなかった。
 新美の自宅は、職場からは少し遠いが通えない距離ではないらしい。しかし、帰りが遅くなった時は辛いため、個人的に部屋を借りたのだという。
 今井は、勝手に新美のイメージを作り上げていただけなのだろう。部下の前で娘の話をする部長の姿は、家族思いの父親にしか見えなかった。
 圧迫されているような息苦しさに、思わず眉を寄せた。
 想像以上にショックを受けている自分に驚いていた。この時、初めて新美への想いを自覚する。
 ――キスされて意識していたなんて、生娘のようだ。
 自分の馬鹿さ加減に苦笑するしかなかった。
「係長」
 急に小原に声をかけられて、びくりと身体が跳ねそうになった。
「悪い、提出する書類、十四時までだったな。もう完成するから」
 時計を確認すれば、提出時間の十分前だった。素早くパソコンに数字を打ち込んでいけば、小原が焦ったように両手を振って否定する。
「あ、そうじゃなくて」
「ん?」
「係長も今日、お誕生日ですよね? おめでとうございます」
 はにかむような笑みを浮かべる小原。それを聞いた島崎が、驚いた声で騒ぎ立てる。
「係長も誕生日なんっすか? なんで教えてくれなかったんですか。係長、おめでとうございます」
「え、なに、なに、係長が誕生日だって? おめでとうございます」
 営業から戻ってきた手塚が、ちょうど聞きつけたらしく、嬉しそうに駆け寄ってきた。
 思いもよらない状況に、今井は呆気にとられる。
「おい小原、なんでお前、係長の誕生日知ってんだよ」
「あれ? まひろちゃん、もしかして係長のこと?」
「なるほどな、ストーカーか」
 小原は鼻で笑った島崎の腕をグーで殴った後、焦って弁明する。
「違いますっ! たまたま社員証を作った時に知っただけです。部長の娘さんと同じ日だし、十一月一日って覚えやすいでしょ」
「顔真っ赤だよ、まひろちゃん」
「ほっといて!」
 両手で顔を扇ぎながら、小原はあたふたしていた。
 普段はしっかりしているから、彼女のこんな姿は珍しかった。
「そ、そうだ、係長が誕生日なら、お祝いということで、今夜みんなで飲みに行きませんか?」
「いいねー」
 小原の意見に賛成する手塚の横で、島崎がちっちっちっと言いながら指を振る。
「待て待て。小原、お前はわかってない」
「なによ!」
「普通、誕生日には彼女と過ごすものだろ? オレらの出番はない」
「あ、そっか。ごめんなさい係長」
 当の本人を置いてけぼりで話を進める彼らに、圧倒されて言葉も出なかったが、頭を下げた小原に申し訳なくなった。
「ありがとう、小原。みんなも。彼女はいないから予定はないけど、お祝いされるような年齢でもないから気持ちだけ受け取っておく」
 そう言いながら今井は、印刷した書類を机の上できれいに整え、小原に手渡す。
「はい、これ書類。じゃあ、外回り行ってくるから」
 席を立ち、鞄を持って顔を上げると、こちらを見ていた新美と視線が交差した。一瞬、身体が固まって動けなくなる。彼のまっすぐな視線に絡め取られたかのようだった。
 だけど、その後すぐ、新美から視線を外して急ぐように事務所を出てきた。
 ――気づかれただろうか。
 新美の手帳に書かれていた『誕生日』に反応したのは、自分の誕生日だと勘違いしたから。
 部下の誕生日をわざわざ手帳に記す上司がどこにいるだろうか。考えればわかることなのに、キスをされて、新美は自分に気があるんじゃないかと浮かれていた。思い違いをする方が馬鹿なのだ。
 新美には、こんな恥ずかしいことを知られたくなかった。





 今井の外回りの営業が終わったのは、十七時を過ぎた頃だった。新美と顔を合わせづらかったから、事務所に電話をしてその日は直帰することを伝える。
 だが、連絡をした時にはもう、新美は帰った後だった。小原が言うには、娘の誕生日は毎年早く帰るのだという。
 それを聞いて今井は、ちくちくと刺すような痛みを胸に受けていた。
 誰よりも仕事熱心な新美は、部下を先に帰らせて自分は遅くまで仕事をする人だ。休日も自ら進んで出勤をしていた。その彼が、娘の誕生日には早く帰宅する。どれだけいい父親なのだろう。
 そこまで考えて、女々しくも急に泣きそうになってしまった。
 電話を切った今井は、前髪をくしゃりとかきあげ、落ち着かせるように深い息を吐いた。
 想像していなかった。新美に心を奪われ、自分でも制御できないほどこんなにも想いが大きくなるなんて。
 もっと早く、新美に家庭があると知っていれば、きっと好きにはならなかった。どうして気づけなかったのだろう。
 今さら考えても仕方がないこと。それでも後悔ばかりが頭に浮かぶのだ。




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