それは、ただのキス

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それは、ただのキス07

「契約が取れなかったか」
 優しく言う部長の新美の前で、営業部の島崎は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。この価格では、無理だと言われてしまって」
「そうか」
 大きく頷く新美に合わせるように、島崎が返事をする。
「はい」
 新美が静かに微笑みながら、見積書を島崎に返した。
「もう一度、同じ価格で交渉してきてくれ。先方は、必ずこの価格で納得してくれるはずだ」
「同じ価格、ですか? これ以上は無理です」
 まさかそんな命令をされると思っていなかったのか、慌てた島崎は、声を裏返させた。新美は、表情を変えずに続ける。
「この価格より下げるつもりはない。君の頑張り次第だ。以上」
 何も言えなくなった島崎は、すごすごと席に戻ってきて、見積書を眺めながら泣きそうになっていた。
 ――恐ろしい。
 今井は、他人事とは思えず、身震いする。
 こういうやり取りを見たのは、今回だけではなかった。
 部下に対して新美は、大声を出したり、怒鳴りつけたりすることはしない。だが、平気で無茶な命令をしてくる。
 新美自身は出来ること。だから自分の部下も出来る、そう判断しているのだろう。現に、部長の言うことが本当に難しいかというと、そうでもないから困るところだ。
 どうにか努力すれば不可能ではない、ギリギリなことが多い。だから、新美の部下である今井たちは、毎回、胃がキリキリする思いで仕事をしていた。
 今回、島崎が担当しているのはお菓子屋で、食品包装フィルムを希望していた。お菓子屋が契約していた今までの会社は廃業するため、その全てを任せられる新しいところを探しているというのだ。しかもこの機会に、デザインの変更も視野に入れて検討しているらしい。
 絶対に契約を取りたいところだった。それなのに、新美は強気の態度だ。
 うちと契約すれば、今までよりも価格は高くなる。しかし、他社で頼むよりもはるかに安く、納期もかなり早い。更には、高品質のものを提供できる。他には行かないと、新美は踏んでいた。だから引かないのだ。
 いくら好条件が揃っていても、信頼関係が成り立たなければ、契約が取れないことは多々ある。そのことは、部下を信じているのか、最初から頭にないようだ。
 仕事に関して、新美は妥協を許さなかった。強く攻め込むタイプだ。部下にも、そうさせている。同期の加賀から聞いていた噂、『新美の部下は、すぐに辞めてしまう』というのも頷けた。
 だが、部下が手に負えない案件で困っている時には、新美は手を差し伸べてくる。そして上手く進めば、部下の手柄として褒めてくれるのだ。
 辛いことを言われ続けていても、最後には解放が待っている。以前の今井の環境から考えれば、とてもいい上司に思えた。
 それは、皆も同じのようだ。部長の新美は、決して部下を見捨てたりはしない。それを感じているから、どんなに苦しくても、彼のやり方についていっているのだろう。
 新美の噂についても、ただの誤解だということをあとで知った。
 この営業所に一番長く在籍している小原が言うには、職員が異動してきても、すぐに他に異動させられてしまうという。
 小さな営業部に異動してくるのは、今井のような訳ありが多いらしい。しかし、新美の部下になった途端、成績を上げる職員がほとんどで、そのたびに他の部署から引き抜きに合うのだ。
 普通なら、異動が決まれば代わりのものがやってくるが、人手不足の為、小さな部署にはなかなか人は回ってこない。一方的に人がいなくなるものだから、新美のところに異動になれば辞める人があとを絶たない、そんなおかしな噂が流れていたのだろう。
 仕事には厳しいが、どこからどう見ても普通の真面目な男。
 真剣な表情で書類に目を向けていた新美が、不意に顔を上げたので、今井は自分のパソコン画面に視線を戻した。
 ――わからない。
 小さくため息を漏らした。
 新美とは今でも、接待以外に食事をすることが多くあった。普通のサラリーマンと何ら変わりのない、仕事の話をする上司と部下の関係。
 他と違うのは、なぜか新美は、今井にキスをしてくるのだ。しかも、一度や二度ではなかった。
 抵抗しなかったことが、きっかけになったのかもしれない。今井はそう考えていた。
 数週間前、新美に、作りすぎたカレーを食べて欲しいと家に招かれた時のことだ。あの雨の日以来、二人だけで食事することはなかったから一瞬迷ったが、断った方がかえって意識しているような気がして、潔く彼の家に行ったのだ。
 食事をした後、コーヒーを飲みながら仕事の話をした。営業のやり方や会社の今後についてなど、お互いの考えを熱く語っていたせいで、気づいた時には、結構ないい時間になっていて驚いたくらいだ。
 電車が動いているうちに帰ろうとした今井に、新美は「遅いから送っていこう」と言った。きっと女性なら嬉しいセリフだったかもしれない。だが、今井は成人した男性だ。子ども扱いされているような気がして、少し面白くない思いをしながら答える。
「送らなくて平気だから、風呂入って早く寝ろ」
 そう言い捨てて、まっすぐ玄関に向かった。
「でも、君は、小さいから」
 靴を履いていれば、背中越しに聞こえてきた言葉に、イラっとした。
「平気だ! 小さくても、な」
 向き直って、わざと強調して言えば、新美は降参というように両手を上げた。
「すまない、失言だったな」
 そして、続けて言う。
「だが、心配しているのは本当のことだ。今は、女性でも男性でも関係ないからね」
「わかってる……」
 新美の気持ちが伝わってきて、大人気ない態度だったかと、少し反省した。これは、仕事の延長。上司の家から部下が帰る時、何かあれば上司の責任にもなる。
「気をつけて帰りなさい」
「……ああ」
 返事をすれば、ふと視界が暗くなった。壁に手をついた新美を見上げると、彼の顔がすぐそこにある。キスされることは、容易に予想できた。今井は、何か言うどころか、反射的に目を瞑ったのだ。
 すると、ゆっくりと今井の唇に温かいものが重なった。それは、堪能する前に離れていく。
 目を開けて新美を確認すれば、黙ったまま、こちらをじっと見据えていた。まるで、口を開いた方が負けと言わんばかりの持久戦。だけど、そんなこともすぐに馬鹿らしいと感じた。
 先に言葉を発したのは今井だった。この間のように罵倒するのではなく、至って冷静に口を開く。
「何だよ、また、キスして欲しいような顔してたか?」
「いや」
 新美は、口元にうっすらと笑みを漂わせた。
「おやすみのキスだよ」
「……あっそ」
「おやすみ、気をつけて」
 穏やかな表情で手を振る新美に、何も答えず、玄関を出て扉を閉めた。
 冷たい夜風が、熱くなった頬に当たる。何も感じていないふりをしていたが、内心は混乱して整理がつかなくなっていた。
 新美の行動は、全くもって理解できない。今井は、帰路を歩きながら頭を掻きむしった。
 おやすみのキス――もっともらしく聞こえるが、理由になっていない。上司と部下の関係の二人が、普通にするものではない。ましてや、男同士だ。新美がゲイには思えなかったが、実際のところはわからなかった。
 その翌日、会社で新美と顔を合わせれば、何事もなかったように接してきた。いつもと違えば、皆に変に思われるのだから、あたりまえなのかもしれない。だが、その態度は二人だけになった時も変わらず、あのキスに関して、彼の口から他の理由を聞かされることはなかった。本当に、ただの『おやすみのキス』だったということになる。
 それからだった。二人だけになった時は、新美は挨拶をするかのように、ふっとキスをしてくるようになったのは。会社では一切なかったが、隙を見せれば、あたりまえのように軽く唇を重ねてくる。
 触れられるたび、心が揺らいでいた今井は、新美の術中にはまりたくなかったから、常に冷静を装っていた。
 その状況も、回数を重ねていくうちに慣れてくる。意味を考えるのも無駄だと思うようになっていった。
 ただのキスだ、減るものじゃない。
 ゲイだからといって、今井は決して男なら誰でもいいわけではなかった。新美とのキスが、嫌じゃなかっただけのこと。だから、流れに逆らわずに、されるがままにしていた。
 それでも、真面目に仕事をする新美を見ていると、考えてしまう。
 なぜ、新美はキスをしてくるのか。ところ構わずキスするような軽い男にも思えない。ましてや、キスしている相手は男。彼もゲイなのか。他に理由があるのか。
 気にしないでいようとしていても、すぐに同じ思いが頭の中をぐるぐると回る。
 本人に聞けば簡単に解決するのはわかっていた。それをしないのは、聞いたら負けたような気がしていたからだ。
 そのせいか今井は、新美のことばかり考えるようになっていた。
 会社ではもちろんのこと。仕事が終わっても、食事に付き合わされるのだから、新美の顔を見ることは多い。頭から離せという方が無理な話なのかもしれない。




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