それは、ただのキス

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それは、ただのキス01

 サラリーマンは、上司に逆らってはいけない。そんなことは百も承知だ。
 だが、どうしても我慢できない時がある。
 今井いまい久輝ひさきは、本社から営業所への異動命令が下った。係長という役職は変わらなかったものの、念願だった本社勤務は、たったの三ヶ月で終わってしまう。
 今井の上司だった工藤くどう晶宗あきむねは、社長の甥にあたるのだが、仕事ができる方ではなかった。人には、向き不向きがある。だから、多少できなくても、周りがフォローすれば、何とか回るものだ。
 しかし、それだけではなかった。一番の問題は、工藤の性格にあった。
 社長の甥であることを鼻にかけ、部下たちに威張り散らす。更には、自分の失敗を全て部下である今井の責任にしていた。そして、今井の手柄は、いつの間にか工藤のものになっている。そんなことは、日常茶飯事だった。
 上司だから仕方がない。今井は、そのことについて言及したことはなかった。それで仕事が上手く回るのなら、会社のためにも多少の我慢は必要だと。
 だが、ある時、今井以外の人物にも、その被害が及ぶことになる。その人物は、今井の同期である加賀かが暖凛だんりだった。
 自分のせいにされるなら、まだ耐えることはできる。それが自分以外の人、しかも知っている相手なら、話しは別だ。
 今井は、すぐに工藤に掛け合った。
「工藤部長、今回の件、加賀に責任を取らせるのは、どうかと思います」
「加賀は納得してくれた。上にも、そう報告するつもりだ。君は心配しなくていい」
 工藤は、あっさり答えて、平然とした顔をしている。
「待ってください。契約が取れたのは、加賀が頑張ったからです。途中で工藤部長に担当が変わらなければ……」
 そこまで言えば、工藤の表情は曇り、険しいものに変わる。
「おまえ、私のせいで契約がダメになったとでも言いたいのか? いい加減にしてくれ。私は顔に泥を塗られたんだぞ。女のくせに出しゃばるからこうなるんだ」
 言いながら、工藤は肩を竦め、やれやれと首を振った。
 怒りが湧いた。契約を白紙に戻されたのは、工藤の連絡ミスが原因だ。たった一度だけのミスだったが、先方は厳しい人だったから、信用できないと言われてしまう。
 担当だった加賀は、それをわかっていたから、ミスが起こらないよう慎重に進めていた。それを全て台無しにしたのは、工藤だったのだ。
 契約を取るために、加賀がどれだけ必死になっていたか、今井はよく知っていた。無理するなと言っても、仕事が好きなんだと笑って答えるだけ。
 だから、部下の加賀のことを理解しようとしないだけでなく、自分のミスを加賀になすりつける工藤が、心底許せなかった。
「待てって言ってんだよ……」
「何?」
 工藤がこちらを向いたと同時に、今井は睨みあげて、掴みかかるような勢いで詰め寄った。
「上司のてめえがしっかりしてないから、部下が苦労してんだよ。それがわかんねぇのかよ!」
 今井の態度に恐れを成したのか、急に怯えるような顔をして、よろよろと後ずさりした。握っていた拳にぐっと力を込めれば、その手を掴まれる。
「今井のバカ! 何やってんのよー」
 同期の加賀だった。彼女が止めに入らなければ、たぶん上司の工藤に殴りかかっていたに違いない。
 はっと我に返った時には、既に遅かった。
「い、今井、覚えておけ」
 工藤は震える声を上げながら、逃げ腰でその場を去っていった。
「あーあ、やっちまったな、今井……」
 加賀は、今井の隣で苦笑いを浮かべながら、頭を掻いた。
「仕方ねぇだろ」
「今井は、目つきが悪いからなあ」
「そういう問題じゃねぇよ」
 上司の指示は絶対だ。わかっていたことだが、この時は耐えることができなくて、意見せずにはいられなかった。






 異動先の営業所の上司、新美にいみ説二せつじ部長は、かなりの堅物で、融通が利かないと社内でも有名だった。しかも、加賀の情報によれば、仕事はできるが、誰に対しても厳しく接するから、辞める人が後を絶たないとか。
 それでも、部下のせいにする工藤よりは、何倍もいい上司ではないかと思ってしまう。
 部長の新美のことは、話に聞くだけで面識はなかった。
 異動の日、初めて新美と顔を合わせたのだ。
 彼は、きっちりと七対三に分けられたヘアスタイルで、堅物というのが余計に強くイメージさせられた。
 年齢は四十代前半といったところだろうか。この年代の割には、身長が高い方だと感じる。
「今井です。今日からよろしくお願いします」
「ああ、よろしく。さっそく悪いが、取引先を回るから一緒に来てくれ」
 その日は、新美に連れられ、あちこちの取引先を回ることになった。
 てっきり営業をするのかと思いきや、仕事には全く関係のない世間話や新しく異動してきた今井の紹介が、主な内容だった。
 どこの取引先も忙しいはずなのに、新美のくだらない話に誰もが耳を傾け、終始穏やかに進んでいた。中には、話が盛り上がり、新たに契約が繋がったところもあったくらいだ。
 新美は、物腰柔らかな話し方と優しい笑顔で、対応していた。相手が取引先だからなのだろうか。聞いていた彼のイメージとは少し遠いものに感じた。
 昼食は少し遅れ、十四時過ぎに、蕎麦屋へ二人で入った。
 適当に注文したあと、待っている間、なぜか新美は鼻で笑う。
 何が可笑しいのかと彼の顔を見れば、口元に笑みを浮かべたまま言った。
「君は、口数が少ないんだな」
「そうですか?」
 仕事に関して、いろいろ質問はしていたが、それ以外は口を閉ざしていたかもしれない。自覚はなかったとしても、初日からおかしなことを口走らないようにと、意識していたのだろう。
「前のところでは、上司に刃向かったと聞いたが」
「……あ、それは」
 返答に困った。情報が伝わっていることはわかっていたが、改めて指摘されると、何も言えなくなる。
 顔を上げられずにいれば、新美が名前を呼んだ。
「今井」
 互いの視線が合わさったところで、言葉を続ける。
「たとえ上司だとしても、疑問に思うことは、はっきり伝えるべきだと思う。私のところでは、そうしてくれたまえ」
「はい」
 部下のことを思ってくれている、有難い言葉だった。
 だが、今井の場合、上司にはっきり伝える時の言葉づかいが悪いから問題なのだ。そのことは、今井自身も充分に理解している。だから、今回異動になっても仕方がないことだと納得していた。クビにならなかっただけでも、幸せなことだと思わなくてはならない。
 ただ、言葉づかいが悪くなくとも、今井の意見は工藤には伝わらなかっただろう。




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