触れてしまえば、もう二度と

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  第一章 <14>  

「先生、元気だった?」
「ああ」
 日向は学校にいた頃よりも少し髪が伸び、色も明るくしていて、真面目だった面影は薄れていた。
「また担任やってるの?」
 終始笑顔だが、明るく振る舞っているだけのようにも思えた。
「いや、今はしてないよ。それより、何かあったのか?」
 言い方がおかしかったのか、日向は吹き出すように笑った。
「そうやってすぐ心配するの、変わらないね」
「あたりまえだろ、急に来るから……」
 一瞬沈黙が流れた後、日向がぽつり言う。
「……謝りに来たんだ」
「謝る?」
 笑っていた日向の顔が徐々に曇り出し、視線を俯かせた。
「あーやに酷いこと言ったから」
 掠れるような声に、胸が痛くなる。
「気にすることない、言われて当然だろ。おまえのこと何もわかってなかったのは先生の方だ」
「違う! 僕があーやに言えなかったんだ。音楽でメシ食ってくなんて言ったら呆れられると思ったから。でも、あーやはそんな先生じゃないもんね」
「日向……」
「学校辞めてから、何もやる気が起きなくてさ。親も毎日泣いてばかりいるし、もう人生終わったなみたいな感じになってて。だけど、あーやが最後に僕に言ったじゃん。夢諦めるなよって。あれがずっと心に残ってて、それでもう一度ギターに触れてみたんだ。そしたらやっぱりギターが好きだって思った」
「ギター続けてるのか?」
 日向の肩に背負っているものに視線を移しながら、矢神は言う。形からして、ギターだということがわかった。
「うん。今、仲間とバント組んで毎日練習してる。すごく楽しいよ。だから、余計にあーやのことが気になってた」
「オレのことはどうでもいいだろ」
「良くないよ。自分が悪いのに全部あーやのせいにしてた。ごめんなさい」
 深々とお辞儀をして、日向は心を込めて謝る。
 そこまでされるようなことはしていないから、反対に戸惑ってしまう。
「もういいよ。おまえが元気そうなら、オレはそれだけで」
 顔を上げた日向が、困ったような笑みを浮かべた。
「学校を辞めた僕のことなんか、あーやはもう忘れたと思ってた」
「辞めたとしても、日向はオレの生徒だよ」
「そうなんだね……遠野先生が、すごく心配してるって言っててびっくりしたんだ」
「は? 何で遠野、先生が?」
 日向の口から予期しない人物の名前が出てきて、矢神の方が驚いてしまう。
「この間、練習の帰りに声かけられて少し話したんだ。それから何度もスタジオに来ては、あーやの話してたよ」
「何だ、それ……」
「遠野先生とは在学中にいろいろ話聞いてもらってたから、久しぶりに盛り上がって。遠野先生も昔、バンド組んでたんだよ、すぐ飽きたらしいけど」
「それはいいとして、何でオレの話になるんだよ」
「あーやが僕のことを心配してるから会いに来て欲しいって。僕もあーやに会いたかったけど、合わせる顔がなかったから断わってたんだ。それなのに遠野先生、けっこうしつこいんだよね」
 深い溜め息が漏れた。何でそんな余計なことをしたのか。遠野の行動は全く意味がわからない。
「でも、思い切って会いに来て良かった。何かほっとした」
「そうか?」
「また頑張れそうだよ。ありがとう」
 前に向かって歩いているのだろう。夕日に照らされた日向がとても眩しく見えた。
「オレは何もしてないよ。おまえが自分で乗り越えたんだ。だけど、もしまた迷うことがあったら、いつでも会いに来い。話聞いてやるから」
「うん、今度は遠野先生と三人で会おうよ。遠野先生の話聞いてたら可笑しくてさ」
「三人……ね」
 賑やかな遠野の姿が思い浮かび、悩みが解決するどころか、かえってこじれそうだと矢神はげんなりした。
「じゃあ、そろそろ行くよ。今日、バンドの練習あるから」
「頑張れよ」
「あーやもね! 生徒の心配ばかりするのもいいけど、自分の心配もした方がいいよ」
 悪戯っぽい顔でニッと笑う日向に、苦笑を浮かべるしかなかった。
「わかったよ……」
 大きく手を振りながら帰っていく日向を矢神は見送った。
 それと同時に、肩の力が一気に抜けたような気がした。
 あんなにも思い悩んでいたのは、いったい何だったのか。日向と同じく、ほっとしていた。
 もっと早く向き合っていれば、こんなに悩むこともなかったのだろうか。
 日向と会う努力をしていなかったわけではなかったが、生徒の方から会いに来てもらうなんて、自分の未熟さを痛感する。
 だが今は、日向が元気でいてくれたことがただ嬉しかった。心から良かったと思えて、自然と口元が緩む。
「矢神先生」
 玄関に戻ったところで、遠野が廊下の角から顔を出して声をかけてきたから、矢神は顔を引き締めた。
「……おまえ、職員室に戻ってろよ」
「良かったですね」
 何も言っていないのに、全てがわかっているかの物言いだった。優しく微笑む遠野に睨みを利かせる。
「余計なことをするな」
「余計な、ことでしたか?」
 少し躊躇いがちに遠野が言葉にした。
「余計なことだろ。日向のことはオレの問題で遠野先生には関係ないことだ」
「実は、そうでもないんですよね」
 苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「どうしてだよ」
「……オレ、日向くんが本当は音楽をやりたいのを知ってたから」
「ああ、日向が在学中、いろいろ話してたって? オレよりも遠野先生の方が話しやすかったんだろ」
 少し嫉妬のようなものが含まれた言い方になってしまって、咳払いでごまかす。
「だからって、遠野先生には関係ない」
「関係なくありません。音楽をやりたいことを知っていたのに、話を聞くだけで何もできなかった。矢神先生に相談した方がいいって言ったんですけど、矢神先生を失望させたくないって……」
「日向は遠野先生に話を聞いてもらえるだけで良かったんじゃないか?」
「いいえ、話を聞くだけではダメです。オレ、こんな感じだから、生徒は気軽にいろんなことを話してくれます。だけど、それは友達に話すのと同じ感覚で。前に、矢神先生言ってましたよね? 教師が生徒を導くんだって。それがオレにはできていないんです」
 普段お気楽な遠野がそんな真面目なことを思っているなんて知らなかったから、言葉を失った。
「オレもずっと、日向くんのことが気になってたんです。でも、矢神先生と話している日向くんが笑顔だったから、少し気持ちが楽になりました」
 何て言葉をかければいいのか、わからなかった。自分だけが、日向のことを心配し、悩んでいたと思っていた。
 だけど、遠野も同じく日向のことで悩み、苦しんでいたのだろう。生徒を思う気持ちは一緒だということだ。
「……それより、おまえ、しつこく日向に会いに行ってたんだって? 少し考えて行動しろ」
「すみません。日向くんに会えたと思ったら、いてもたってもいられなくなって。今夜からはきちんと夕食作りますね」
「え? あっ! おまえの帰りが遅かったのってそれが原因か! 何だ、避けてたんじゃなかったんだ」
 ほっと胸をなで下ろせば、遠野がぼんやりと矢神の顔を見つめた。
「避ける?」
「いや、何でもない。ほら、さっさと残りの仕事片付けて帰るぞ」
 話をそらすため遠野の二の腕を軽く叩き、職員室へ向かった。
 悩みと不安が一気に解消され、足取りが軽かった。
 残るは先延ばしにしている例の問題だけ。
 矢神は、すぐに答えを出せそうな気がしていた。








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