触れてしまえば、もう二度と

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  第一章 <12>  

 気持ちが落ち着いた後、矢神は乱れていた身なりを整え、職員室に戻った。
 そこに嘉村と遠野の姿がなくて、少しほっとする。
 遠野に関しては、家に帰ればすぐに顔を合わせることになるのだが、今だけはあの賑やかな遠野の相手はしたくなかった。
 何を聞かれるかわかったものじゃない。こういう時はそっとしておいてほしいのだ。
 それに、聞かれても答えられることは何一つない。矢神自身、何が起きているのかわからないのだから上手く説明できるわけがなかった。
 二人がまだ校内にいるのかはわからなかったが、彼らと出会う前にさっさと帰宅した方が良さそうだ。
 そう判断した矢神は、慌てるように荷物をまとめる。
「お先に失礼します」
 残っていた先生たちの「お疲れ様です」という言葉も聞かずに、足早に職員室を出た。
 先ほどよりはだいぶ心が静まってはいたが、やはり頭の中は混乱していた。
 なぜあんなことをしてきたのか。何のメリットがあるのか。嘉村は、意味のないことはしない男だ。
 きちんと話し合った方がいい気もしたが、二人で会うのは少し恐い。
 また同じようなことをされては意味がないのだ。
 外靴に履き替えながら、新たな悩みが増えたことに苛立つ。
 そんなことを考えている余裕なんてないのに、この思いをどこにぶつければいいのかもわからず、拳を握って怒りを抑えた。
「矢神先生」
 不意に声をかけられ、顔を上げれば、遠野が姿を現した。
「遠野……先生、帰ったんじゃ……」
 会いたくなかったせいか、動揺が声に表われていた。
「帰ろうとしたんですけど、矢神先生の靴がまだあったから、ちょっと待ってみようかなと思って」
「……そう」
 視線を合わせることができなかった。遠野の横を通り過ぎて、歩みを進める。
 そんな矢神に遠野が小走りで近づいてきた。
「一緒に帰ってもいいですか?」
 わざわざそんなことを聞いてくることに違和感を覚える。矢神が避けたがっているのを感づいたのだろう。
「一緒にも何も、帰るところ同じだろ」
 投げやりに言えば、遠野は困ったように笑う。
「へへ、そうですよね」
 そのまま矢神の隣に並び、歩幅を合わせて歩き出した。
 矢神は何を聞かれるだろうかと身構えていた。ちらっと様子を窺えば、遠野は嬉しそうに笑顔を浮かべているだけだ。
 先ほどのことを聞くために待ち伏せをしていたんだと思った。それなのに、一向に話を振ってこない。
 矢神にとっては有難いことではあったが、反対に不信感を募らせる。
 何を考えてるんだ。
 気にならないわけがないのだ。何とも思っていないように見せ、安心させておいてから突然話を切り出すつもりなのか。
 じろじろと遠野を観察していたせいか、視線が合ってしまい、慌てて逸らした。
「初めてですよね」
「……な、何が?」
 ついに来たかと思ったが、遠野は相変わらず笑顔のままで違う話題を始めた。
「同棲を始めてから一緒に帰ったことがありませんでした」
 帰る場所が同じなのだから、帰る道も同じ。それなのに今まで一緒になったことがないのは、矢神が帰る時間をわざわざずらしていたからだった。
「ああ……っていうか、同棲じゃないって言っただろ、同居!」
「今日、遅くなっちゃったんで、カレイの煮つけはまた今度でもいいですか?」
「おまえ、話を逸らすなって。別に何でもいいよ」
「じゃあ、冷凍ご飯がけっこうあるので、オムライスでも作りましょうか」
「うん、オムライスは好きだ」
 その後も、いつ話題に触れられるかと不安でいっぱいだったが、遠野は一切そのとこには触れなかった。帰宅中くだらない話をずっとしていて、おかげで少し気が紛れた。
 正直、目撃されたのが遠野で良かったと思っているところもあった。
 性格は大雑把ではあるが、口は固い方だ。面白おかしく、あちこち誰かに喋るタイプではない。これ以上、広まることはないから、その点は安心していたのだ。

 



 家に着けば、ほっとしたのか、一気に疲れが出たらしく身体が重たく感じた。頭痛もする。
 今夜は何もかも忘れて早く寝よう。
 すぐにでも靴を脱いで家に入りたかったのだが、目の前にいる遠野が突っ立ったままだ。
 そんなに広くない玄関に男二人でいたら、けっこう窮屈だった。
「おい、早く入れ」
 催促するように背中をぐいっと押せば、遠野が切羽詰まったような声を出す。
「どうしよう……」
「何だ、忘れ物か?」
 家に着いてから気づくなんて、どこか抜けている遠野らしい。
「取りに行かないとまずいのか?」
 車を出してやった方がいいだろうかと考えていると、急に視界が暗くなる。そして、身体が包み込まれた。
 遠野に抱きしめられていると認識するまで、そう時間がかからなかった。
「ちょっ、なに……」
「オレ、考えないようにしてたんですけど、頭の中ぐちゃぐちゃで」
 泣いているんじゃないかというような切ない声で喋り、矢神の身体を玄関に押しつけるように、きつく抱きしめてきた。
「嘉村先生と矢神さんが……嫉妬でおかしくなりそうです……」
 吐息が耳にかかり、遠野の指先が身体の線をなぞるように、背中から腰へと撫でていく。
「お、落ち着けって……」
 何とか遠野の身体を離そうと、胸を押しやったがまるで意味がない。
「オレ、矢神さんが誰かに触れられるの、嫌です、辛いです……矢神さん……」
 遠野の呼吸は乱れていて、服の上から身体をまさぐる遠野の手が激しくなっていった。
「……矢神さん……」
 吐息と共に甘く何度も名前を呼ぶ。この場で何かされるのではないか。先ほどの恐怖が少しよみがえった。
「遠野!」
 矢神が声を荒げれば、自分の行動にはっとしたように遠野は慌てて身体を離した。
「あ……ごめんなさい」
 今にも泣きそうな表情で矢神を見つめた。その表情に胸が痛くなる。
「……夕食の準備しますね」
「ああ……」
 遠野が部屋に入ったと同時に、矢神は力が抜けたようにその場に尻餅をついた。
「……びっくりした」
 今まで一緒に住んでいていても、そんな素振りを見せないから気づかなかった。
 いや、気づかないフリをしていたというのが正解かもしれない。
 矢神も遠野も、お互い『遠野の告白』をなかったことにしていた。
 職場でも家でも一緒なのだから、変に気を遣うよりはその方が楽だったからだ。
 だけど、嘉村に嫉妬するということは、遠野の矢神への気持ちは今も続いていて、本気だということだ。
 必死で気持ちを押し殺していたのだろうか。でも、だからといってどうすればいいのかもわからない。
 気にするなと言われた以上、そういう気持ちはないとわざわざ伝えるのも酷な話だ。
 それに、矢神自身が気まずくなるのは避けたかった。



 遠野のいいところは、その後、何事もなかったように接してくれるところだろうか。
 笑顔でオムライスを目の前に出してくれた。
 矢神も、今日一日あったことは全て忘れたように振る舞った。
 たぶんこれからも、こうやって同じ毎日が繰り返されるだけ。
 遠野の作ったオムライスを一口食べれば、好みの味が広がり美味いと感じた。ふわふわとやわらかい卵が絶妙だ。
 それなのに甘い卵が喉に引っかかるような気がして、上手く飲み込めなかった。







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