触れてしまえば、もう二度と

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  第一章 <5>  

 杏がいなくなった途端、二人は同時にため息を吐いた。思わず顔を見合わせて笑みが零れる。
「すみません……杏さん、けっこう強引なところがあって」
「いいよ、一杯くらいなら」
「本当ですか? 良かったです」
「おまえ、日本酒好きなんだな」
「日本酒に凝り始めたのは最近で、普段はビールですよ」
 どこからどう見てもワインが似合う男なのに、日本酒というところが遠野なのだろうか。矢神の中のイメージとは、いつもかけ離れていた。
 遠野が慣れた手つきで日本酒を注いでくれる。自分のグラスにも酒を注ぎ、乾杯と言った後、注がれた日本酒を口に運んだ。
 酒が弱いから日本酒なんてほとんど飲まないのだが、そのお酒はすっきりとした味わいですごく飲みやすい。「美味い」という言葉が口から自然に零れた。
 そんな矢神の反応に遠野は、はしゃぐような声を上げる。
「ですよね! 前に一度だけ飲んだことがあったんですけど、どこの店にも置いてなくて。手に入りにくいんだそうですよ。矢神さんが気に入ってくれて嬉しいです」
 そう言いながら、矢神のグラスに酒をどんどん注いできた。
「オレはもういいよ。おまえが飲みたかったんだろ」
 焦る矢神に構わず、遠野は勧めてくる。
「遠慮しないでください。せっかくですから、矢神さんに飲んで欲しいです」
「わかった。ゆっくり飲もうぜ……」
 遠野が勧める酒を一度制止させた。
 雰囲気で飲んでは危険だということは何度も経験していた。だから、気をつけるようにと何度も自分に言い聞かせる。
 遠野の方は、日本酒を好むぐらいだから酒には強いのだろう。本当に美味しそうに飲んでいる。それに釣られて矢神もグラスを口に運んでいた。
「ここにはよく来るのか?」
「一人で飲みたい時はここに来ます。杏さんが話し相手になってくれるので、一人っていうわけでもないんですけど」
「ふーん……」
 遠野でも一人で飲みたい時があるのか。
 いつもうるさいくらい明るいから、何の悩みもない順風満帆な人生を歩んでいるように見えていた。
 上辺だけでは相手がどんな人物なのかはわからない。職場での付き合いがあっても、深くは付き合っていない。彼のことを知った気でいたが、本当は何も知らないのだ。
「そういう場所があるっていいよな」
 遠野も杏には気を許して、本当の自分を曝け出せるのかもしれない。
 そんな杏との関係が少し気になった。昔からの知り合いと言っていたが、遠野とは年齢が離れている。どこで出会ったのだろう。
 服を脱げば男だと知っているということは、ただの知り合いという間柄ではなく、それ相当の仲だということだ。
 お互い男性が相手でも大丈夫みたいだから、そういう関係なのだろうか。
 頭の中でぐるぐると回っていたが、何となく聞けずにいた。
 それよりも、そんなことを気にしている自分に腹が立った。遠野が誰とどうなろうと関係ないのに、なぜかもやもやしている。
 矢神は、グラスに並々と注がれた酒を一気に飲み干した。
「矢神クン、いい飲みっぷり!」
 言葉を発したのは、料理を持ってきた杏だった。
「ほら、大ちゃん、ぼーっとしてないで注いであげなさいよ」
「あ、はい」
「いや、もう充分なんで……」
「これ食べたら、また飲みたくなるわよ」
 その後、杏が何点か料理を作って持ってきてくれたのだが、本人の人柄とはかけ離れたような、どれも日本酒に合う美味しい料理だった。そして杏が言うように、料理だけじゃなく酒も進んでしまうから困りものだ。
 一通り料理をテーブルに並べると、杏は客が来ないことをいいことに、遠野の横に座って一緒に酒を飲み始めた。
 最初は遠野が杏のグラスに酒を注いでいたが、飲むペースが早いため、「気が利かない」と文句を言って手酌する始末。そのついでに矢神のグラスにも酒を注いで「どんどん飲んで」と勧めるから、飲まないわけにはいかなかった。
 だけど、不思議と嫌な感じを受けない。杏は料理だけじゃなく話も上手で、こういう人だからこそ店を続けていられるのかもしれないと思った。
 隠れ家的のお店で常連客も多く、重なる時には満席で座れない時もざらだという。ただ新規の客は少ないので、誰も来ない時もあってプラスマイナスなのだが、やっていけないことはない。
 そのお店も今年で五年目。杏がずっと一人でやってきた。想像もできない大変な苦労があったはず。
 それなのに、そのことをおもしろ可笑しく話すから、矢神は夢中になって聞いていた。



 いつの間にか時間を忘れて飲んでいた。
「そろそろ行きましょうか」
 そう言って立ち上がる遠野に矢神は黙って従う。思考がほとんど停止していた。
 とりあえず支払いをするために財布からお金を出そうとすると、遠野に止められる。
「今日は、オレが払うからいいです」
 そういえば、お詫びだと言われたことをうっすらと思い出す。だけど、何だか納得がいかなかった。
「後輩に奢られたくない」
「いいじゃないですか、お詫びなんですから」
「あら、大ちゃん、矢神クンに何かしたの?」
 教えて、教えて、と面白がる杏の声は、矢神の耳にはほとんど入ってなかった。
「いや、オレが払う。先輩だからな!」
「でも……」
「もういいじゃない。先輩に奢ってもらいなさいよ。アタシはどっちに払ってもらっても変わらないんだから」
「じゃあ、次は絶対オレに奢らせてくださいね、矢神さん」
「ああ、おまえがオレの先輩になったらな」
 言っていることがおかしいのは、もう自分では気づかない。
「気をつけて。矢神クンもまた来てね。一人でも大歓迎よ」
「はい……」
 杏の言葉に何度も頷くが、何に頷いているのかは正直なところわかっていなかった。
 店を出て、薄暗い道を歩いて行く。前を歩く遠野の後ろ姿がぼんやりとしていた。
 身体がふわふわと浮いているようで、楽しい気持ちになってくる。
 飲んでいる時は気づかないのだが、立ち上がって歩き出すとアルコールが回るせいか、かなり酔っているということを自覚した。
 やばいなと思いながら、階段に差し掛かったところで矢神はバランスを崩す。
「うわぁっ!」
 前のめりになり、そのまま落ちていきそうになった。
 だが間一髪で、前を歩いていた遠野にしがみつく。というか、抱き抱えられるような形で危機を乗り越えた。
「びっくりした……矢神さん大丈夫ですか?」
「う、うん……」
 転げ落ちるかもしれないという驚きもあったが、酔っているせいもあって、支えられている状態がすごく楽だった。
 何だろういい匂いがする。香水だろうか。
 遠野の体温が心地良くて、そのまま眠ってしまいそうになった。
 やっぱり飲み過ぎた。いくら楽しいからって酒は良くない。
 軽く頭を振って眠気を追い払い、降ろしてもらおうと遠野から身体を離そうとした。すると、遠野の抱き締める腕に力が込められ、きゅっと締まる。
「矢神さんって軽いですね」
 一瞬で頭が鮮明になった。そして、昼間見た映画のシーンが思い出される。
 若い男が酒を飲まされ、酔って動けないところを抱き抱えられたあげく、そのまま無理やり――というとんでもない内容。
 慌てた矢神は取り乱す。
「は、離せ、離せって!」
 両腕で遠野の身体を押しやり、辛うじて地面についていたつま先をばたばたとさせた。
「矢神さん危ないです。そんなに暴れないでください」
 階段で人を抱えながら立っているのだから、そのまま二人で落ちていってもおかしくない状態だった。
 遠野が腕を解いて足が床についた途端、矢神はその場でふらついてしまう。再び、遠野に腕を掴まれ支えられた。
 咄嗟に掴まれたその手を払い除ければ、パシリと大袈裟な程に乾いた音が辺りに響く。
 遠野は驚いて目を見開いた後、優しく微笑んだ。
「何かされるかと思いましたか? オレが、矢神さんを好きだって言ったから」
「あ、いや……」
「矢神さんの嫌がることはしませんから大丈夫ですよ。安心してください」
 いつもと同じ笑顔で、優しい言い方。
「帰りましょう。ここ暗いですから足元気をつけてくださいね」
 だけど、外灯の灯りしかないうっすらとした光の中で、遠野の傷ついたような表情が一瞬見えた。
 傷つけるつもりはなかったとは言えない。現に何かされるのではないかと考えた。遠野がそんなことをする男じゃないことはわかっているはずなのに。そういう男なら、今日だって一緒にはいない。
 謝るのも何かおかしい。言い訳すればいいのだろうか。何か、何かフォローを。
 酔った頭で一生懸命考えるが、言葉が見つからない。
 矢神は、前を歩く遠野の背を見つめながら、黙って歩くしかなかったのだ。





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