触れてしまえば、もう二度と

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  第二章 <4>  

 教師の悩みは尽きない。
 自分の教師という立場を考えながら、生徒や生徒の保護者と信頼関係を築いていく。また学校内での教師同士の関係も大切だ。お互い助け合うことができる。
 だが、問題は次から次へと出てくるのが現状。どんなに真面目にやっていようとも、だ。
 教師というのは、本当に好きじゃないと続けていけない仕事なのかもしれない。


「長谷川先生、頭痛薬ありますか?」
 矢神は医務室に来ていた。朝から頭が痛くて、我慢できない状態だったからだ。
「珍しいわね、矢神先生がここに来るなんて。休んでいく?」
「すぐ授業なんで」
 長谷川先生は、ふふっと笑った。
「いいじゃない、さぼっちゃえば? そういう先生いるわよ」
 その言葉に驚いた矢神は、受け取った頭痛薬を危うく床に落としそうになった。
「え、本当ですか?」
 更に長谷川先生が、可笑しそうに笑う。
「いるわけないじゃない。生徒はたくさんいるけど」
「驚かせないでください」
 小さくため息を吐いて、医務室から出ようと思ったら、呼び止められる。
「待って、矢神先生」
「……なんですか?」
 振り向くと、真剣な表情で矢神を見据えてきた。
「あの……」
「最近、元気ないよね。生徒たちも噂してた」
「そんなことないですよ」
「何かあった? って、まあ、あの生徒たちをまとめるんだから、いろいろあるだろうけど」
「大丈夫です」
「そう? 矢神先生、頑張りすぎるところあるからね」
 傍から見れば、元気ないように見えるのだろうか。表には出さないように気をつけてはいるのだが。
「ああ、そっか」
 長谷川先生は、何か思いついたように意味深な笑みを浮かべた。
「長谷川先生?」
「付き合ってた彼女にフラれたからか、そりゃあ、元気なくすよね」
 言った覚えのないプライベートな情報が、長谷川先生に知れ渡っていた。しかし、こんなことはよくあることで、驚くようなことではない。
「……もう行っていいですか?」
 薬が欲しくても、矢神は医務室に近づかないようにしていた。それは、こんな風に長谷川先生の相手をしなくてはいけないからだった。
「矢神先生、からかうと楽しいんだもの。彼女と別れたからって生徒に手を出したらダメよ」
「え……?」
「真面目な矢神先生がそんなことするわけないか」
 長谷川先生は、書類に目を通しながらけらけらと笑う。
 彼女のいつもの冗談だとわかっていても、内容が内容だけに上手く表情を作ることができなかった。
 何かを知っているんじゃないかと不安になる。



 その日、楢崎は登校してきていた。
 相変わらず、クラスでは浮いているようだったが、学校に出てきてくれたことは、大切な一歩だ。
 合田はいたって普通で、何事もなかったように矢神と接した。今までと変わらない優等生な印象を受ける。昨日の彼が、幻だったように感じた。どちらが本心なのか。どちらも合田なのか。
 放課後、楢崎と面談を行うことにした。繰り返しても、何も変わらないのかもしれない。それでも、生徒と向き合い続けることが、今自分にできることだと思ったのだ。
 指導室で待っていた楢崎は、肩を落としていて、身体が小さくなったように感じた。
「楢崎?」
 声をかければ、びくっと震え、顔を俯かせたままこちらを向かない。
「今日は、学校に来たんだな。嬉しいよ」
「……嬉しい?」
 少し顔を上げて、矢神と視線が交わった。
「ボクに会えるから?」
「ああ」
 返事を返せば、勢いよくその場を立ち上がり、叫ぶように言った。
「じゃあ、ボクと付き合ってください! そしたらいつでも会える」
 堂々巡りだ。こうなることはわかっていた。だけど、どう責任を取るか、誠意を見せるしかない。
「楢崎、オレは、おまえと付き合うことはできない。だからといって、関係を持ったことをなかったことにしようとは思わないよ。これは、先生が未熟だったから起こってしまったことだ。付き合うことはできないけど、どんなことがあっても楢崎のことは卒業するまできちんと見守るつもりだ。おまえはどうしたい?」
 楢崎は、しばらく黙っていた。悩んでいるのだろうか。昨日、あんなことをしてきたくらいだ。それほどまでに矢神を憎んでいるのか。それなら、いっそ楢崎の前から姿を消した方が彼のためになるのかもしれない。
 矢神は、そこまで考えるようになっていた。
 長い沈黙が流れた。背中に冷たい汗が伝う。正直なところ、何を言ってくるか心配だった。それに自分が応えられるかどうか、まるで想像がつかない。
 このままでは、楢崎はだめになってしまうだろう。それは矢神にも責任がある。彼の未来を明るいものにするために、どうすればいいのか。誰にも相談はできない。それは、楢崎自身も同じだろう。やはりお互い向き合い、話し合って解決していくしか、今のところ方法はないように思えた。
「先生は、本当にボクのこと考えてくれてるんですね」
 か細い声で言った楢崎の言葉に、矢神は希望が見えたように感じた。
「考えてるよ。楢崎の気持ちには答えてやれないけど、違う方法で楢崎の力になりたいって思ってる」
「ごめんなさい、先生。ボク、わがまま言ってました」
 楢崎の目には、かすかに涙が浮かんでいて、胸が痛くなった。
「わがままじゃない。楢崎の気持ちだろ。先生がきちんと受け止めてやってないから悪いんだ」
「ボク、もっと数学がわかるようになりたいです。数学だけはすごく楽しくて」
「そうか。また個人授業するつもりだから、参加するか?」
「はい」
 その時の楢崎は、普通の無邪気な少年の笑顔だった。
 話し合えばわかってもらえる。事実は消えないにしても、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。



 職員室に戻ろうと廊下を歩いていれば、一瞬がくりと足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。だけど、そんな矢神の身体を誰かが後ろから支える。
「矢神先生、大丈夫ですか?」
 振り向けば、そこには遠野の姿があった。矢神をしっかりと腕で支えている。
「大丈夫、ちょっとくらっとしただけだ」
 足に力を入れようとしたが、思うように力が入らなかった。
「矢神先生、身体熱いんですけど、熱あるんじゃないですか?」
「ないって、もう離せって」
「嫌です」
 珍しく言うことを聞かずに、矢神を後ろから抱きしめるように力を入れてくる。
「ちょっ……」
 振り解こうと思っても、力が入らず、遠野にされるがままだ。
「無理しすぎなんですよ。朝から顔が赤いなって思ってたんです」
「おい、誰かに見られたら」
「矢神先生に何かあったら、オレ……」
 切羽詰まったような声を出し、遠野は自分の頬を矢神の頬にくっつけてくる。
「やっぱり熱いですよ。もう今日は帰りましょう」
 ほっとして一気に疲れが出たのか、それとも本当に熱があるのか、身体がだるかった。そのせいもあって、遠野を跳ね除けるのが面倒になる。
 矢神は、自分の頬だけじゃなく、遠野の頬も熱く感じていた。




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