触れてしまえば、もう二度と * 番外編 *

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それでもあなたの傍に 03


 しばらくして、結城先生が一升瓶片手に騒ぎ出す。
「矢神はどこ行った!」
 結城先生の隣にいるはずの矢神の姿はなかった。
「トイレでしょ。もう、おっさん飲みすぎだっつーの」
 イカ焼きを摘みながら、長谷川先生はビールをぐびぐびと飲む。さっきからすごく飲んでいる気がするが、全く変わらない様子だ。
 反対に朝比奈先生の方はというと、長谷川先生と一緒になって飲んでいるから、既に目が虚ろになってきている。
「ねえ、王子は彼女いないんですよね。好きな人は?」
 何度も同じ質問に答えていて、いい加減うんざりしそうになった。
「朝比奈先生、そろそろウーロン茶に変えた方がいいですよ」
 気を遣ってそんなことを言えば、瞳を潤ませ、上目遣いで遠野を見てくる。
「お酒飲む女は嫌いですか?」
「遠野先生、構うと調子に乗るから放っておきなって」
「長谷川先生、冷たいです」
「あんたも飲みすぎ! うざい!」
 遠野は一向に戻ってこない矢神のことが心配だった。
 朝比奈先生の相手をするのも少し疲れてきたということもあり、その場を立ち上がる。
「王子、どこ行くんですか?」
「ちょっと、トイレに」
「早く戻ってきてくださいねー」
 両手を小さく振る朝比奈先生に笑顔で応えた後、その部屋を出て矢神を探した。
 店の入り口付近にあったトレイの方に向かってみる。
 すると、日本史の教師、嘉村先生の姿を発見した。そして、嘉村の目の前にある長椅子に座っているのは、矢神のようだ。
 二人で何を話しているのだろう。一瞬、不安が頭を過る。
「嘉村先生、何してるんですか?」
「これ」
 嘉村は、目の前の矢神を指差した。長椅子で座っていたと思っていた矢神は、そこで気持ち良さそうに眠っている。
「相当、酒飲まされたんじゃないですかね」
 口を半開きにして、今にも長椅子から崩れ落ちそうな状態だ。
「矢神先生、大丈夫ですか?」
 心配で声をかければ、矢神が驚いたように身体を跳ねさせ、目を覚ます。
「あれ? オレ、何してんだ……」
「矢神先生がいなくなったから結城先生が騒いでました。危なくオレが被害に遭いそうだったんで探しにきたんですよ」
 嘉村は迷惑そうな表情をして言った。
「やべえ、すぐ戻ろうと思ったのに、寝ちゃったんだな」
 慌てて戻ろうとする矢神の腕を遠野が掴む。
「オレ、変わりますよ」
「は? 何が?」
「オレが結城先生の相手します。矢神先生、けっこう酔ってるじゃないですか」
「何言ってんだよ。酔ってないって。大丈夫、大丈夫」
 矢神は、はははと陽気に笑う。
 酔っていないという人ほど、酔っているものだ。矢神の足元はふらついている。
「でも……」
「おまえは、朝比奈先生たちと飲んでろよ。遠野先生と飲むのを楽しみにしてたらしいぜ」
 じゃあな、というように片手を上げて戻っていく矢神は、やはりよろけていて、酔っていないとはとても言えない様子だった。
 仕方がなく遠野も戻ろうと思ったが、嘉村は反対方向に歩みを進める。
「嘉村先生、どこに行くんですか? こっちですよ」
 場所を間違えていることを教えれば、涼しい顔で嘉村が答えた。
「オレ、帰るんで」
「帰るんですか?」
「みんなに充分付き合ったからもういいでしょ」
 あっさりしている。嘉村は、人と深く関わらないことで有名だった。
 それでも、遠野や矢神と三人で飲みに行くことはあるのだが、職場の付き合いは、本当に職場だけの付き合いらしい。
「本当は今日欠席するつもりだったんですよ。だけど、矢神先生が少しでもいいから出ろってうるさくて」
「矢神先生らしいですね」
 職場だけの付き合いでもいいかもしれない。だけど、生徒を守っていく以上、教師同士もある程度の絆は必要だ。
 面倒見のいい矢神が、嘉村のためを思って言ったことだろう。
 遠野が同意を求めるように笑顔でいれば、嘉村は眼鏡を中指で上げ、凝視してきた。
「嘉村先生?」
「それより、、史人あやとのこと頼みます。たぶん、飲めない酒飲んで相当頑張ってると思うんで」
 わざわざ矢神の呼び方を変えたのは、意図があるのだろうか。
 矢神の様子は、嘉村に言われなくてもわかっていることだった。わざわざ頼まれなくても矢神のことは気にかけている。
 何か言い返したかったが言葉が浮かばず、はいと返事をするしかなかった。
「じゃあ、遠野先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です……」
 嘉村の言葉は、矢神を心配して言ったことなのは理解していた。
 だが、何とも後味の悪い別れ方だった。



 一次会だというのに開始から三時間という怒涛の飲み会が無事に終わる。途中で帰る人もいたため、最後まで残ったのは少ない人数ではあった。
「矢神、今日は楽しかったな。また飲むぞ、ははは!」
 豪快に笑う結城先生が、矢神の肩をバシバシと叩く。
「気をつけて、お疲れ様でした」
 タクシーに乗る結城先生を見送った後、その場にいた皆が一斉にほっと一息吐いた。
「矢神先生、お疲れ様。よく堪えたね」
 長谷川先生は、そう言いながら矢神の肩を抱き、可笑しそうに笑う。
「結城先生には、いつもお世話になってますからね」
 苦笑を浮かべながら、矢神は答えた。
「ねぇ、ねぇ、皆さん二次会行きますよねー」
 朝比奈先生は、楽しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる。先ほどよりもテンションが高く、元気になっていた。
「まだ飲む気? まあ、私は飲み足りないけど」
 長谷川先生は呆れ口調だが、行く気満々だ。
「カラオケ行きましょうよ。王子の歌が聴きたいです」
 一人きゃっきゃっと騒ぐ長谷川先生は、まるで女子高生のようだった。
「あ、オレは帰ります。またの機会に。お疲れ様です」
「矢神先生は、そうよね。帰って休んだ方がいいわよ。お疲れ様」
「お疲れ様でした。王子は行きますよね? ね? ね?」
 遠野の腕に自分の腕を絡め、目を輝かせた朝比奈先生は大きな胸を押しつけてくる。
 絡めてきた腕をやんわりと外した遠野は、傷つけないように優しい笑顔を向けた。
「すみません。オレも帰ります」
「王子も帰るの?」
「何で、長谷川先生もオレのこと王子って呼ぶんですか」
 あっけらかんとして、長谷川先生はあっさり言う。
「呼びやすいから」
 美人だが、見た目と同じくさっぱりしている性格だ。こういう女性は嫌いじゃなかった。
「王子とデュエットするんですー」
 遠野の隣から一向に離れない朝比奈先生を見て、今日の飲み会に、長谷川先生がいてくれて良かったと心底思うのだった。
 遠野は、矢神の方に視線を移した。道路の前でタクシーを待っているが、かなりふらふらした様子だ。
「矢神先生けっこう酔っているみたいだから、一緒に帰ります」
「ああ、その方がいいかも。何か今にも車に轢かれそうで危なっかしいわ」
 だが、朝比奈先生は、首を横に振って遠野の袖を掴んで引っ張る。
「王子がいないと嫌です」
 そんな朝比奈先生を強引に離れさせた長谷川先生は、彼女の身体を引き寄せ、無理やり歩かせる。
「朝比奈先生は私が相手してあげるわよ。朝まで付き合うから心配するな。じゃあ、お疲れ様」
「いやぁー王子ー」
 泣きそうになりながら暴れる朝比奈先生を長谷川先生が引っ張っていく。
 遠野はその二人に手を振って見送った。
 そして、ぼーっと突っ立っている矢神の傍に駈け寄る。
「矢神先生、オレも一緒に帰ります」
「飲みに行かなくていいのか?」
「はい」
 矢神が行かないのなら、自分も飲みに行く必要はない。
 誰かと一緒に飲みに行くよりも、遠野は少しでも矢神と一緒にいたかった。
 二人で、同じ家に帰る。ただそれだけのことが嬉しい。
 やっと二人きりになれた――。
 タクシーに乗り込み、遠野は喜びを噛みしめながら、今日のお礼を伝える。
「今日はありがとうございました。矢神さん、オレの身代わりになってくれたんですよね? 書類の件もお世話になりっぱなしで」
 すると、突如矢神の頭が遠野の肩に静かに乗った。
 言葉の代わりに、こんな風に行動で示す矢神は始めてだ。
 驚いた遠野は、自分の身体が固まったように感じた。
「矢神さん、どうしたんですか? もしかして酔って……」
 隣にいる矢神の方を見ると、静かな寝息を立てて眠っている。
 行動で示したのではなく、眠ってしまったために身体が遠野の方に傾いただけだったのだ。
 少し残念に思いながらも、顔は綻んでいた。
 二人だけになって安心したからこういう状況になったのだろう。自分にだけ見せてくれる無防備な姿。
 そして、矢神のぬくもりを感じることができる。矢神に意識があれば、ありえないことだ。
 こんな幸せなことは二度とないかもしれない。このまま家に着かなければいいのに。
 浮かれていた遠野は、そんな馬鹿なことを考えてしまうくらいだった。





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