触れてしまえば、もう二度と * 番外編 *

モドル | ススム

それでもあなたの傍に 01

「大ちゃん、いらっしゃい」
 遠野大稀は、馴染みの店、バー杏を訪れていた。
 すごくお酒が飲みたい気分だったのだ。
「一人?」
 店主の杏は、遠野の顔を見た後、なぜか後ろの方に視線を移し、何かを確認した。
「一人じゃダメですか?」
「ダメじゃないけどー」
 誰を探しているのかは、すぐわかった。
「今日、矢神さんはいません。今度連れてきますよ」
「ホント? 楽しみにしてる」
 遠野の言葉を聞いた途端、はしゃぐような声を上げたので、溜め息が漏れた。
「何飲む?」
「生ビールで」
「オッケー。ねえ、ねえ、アタシ、何か雰囲気変わったと思わない?」
 とびっきりの笑顔で期待する眼差しを向けてくる。
 杏の姿をじっと観察したが、これといって変わった様子が見受けられなかった。
 これかなと思うことを適当に言ってみる。
「口紅の色ですか?」
「もう! 髪の色変えたのよ。評判いいんだけど。こういうのが気づかないなんて、大ちゃんって乙女心わかってない!」
「乙女心って……」
「何よ! 女装している時はアタシも乙女よ」
 杏は、唇を尖らせて不貞腐れたように言った。
 声も、姿も、どこからどう見ても女性のこの店主は、女装を趣味としているだけで、れっきとした男性だ。
 女性よりもどちらかというと男性の方が好みで、女のフリをして男を落とすらしい。
 男だとバレたら相手が引くのではないかと尋ねたことがあったが、なぜか引かれたことはなく、反対に上手くいくという。不思議な現象だった。
 生ビールを注いだジョッキーを遠野の目の前に出した後、杏は思い出したようにニヤニヤと頬を緩ませる。
「矢神クン、可愛いよね。この間もあんなに酔っ払っちゃって。弱いなら飲まなければいいのにね」
 ここには、矢神と一緒に来た以来久しぶりだった。あれから既に数カ月が経っていた。
「あれは、杏さんが無理やり飲ませたんじゃないですか」
「あら、そうだった? 大ちゃんも飲ませてたじゃない。あの後どうなったの?」
「何がですか?」
 遠野はジョッキーを口に運び、ごくごくと乾いていた喉を潤した。
「やだ、とぼけちゃって。酔っ払った矢神クンをお持ち帰りしたんでしょ?」
 思いもよらない言葉が杏から発せられたので、ビールが気管に入って咽てしまう。
「ちょっと大丈夫? ゆっくり飲みなさいよ」
「杏さん、が、悪い……」
 涙目になりながら、杏から渡されたタオルを口に当てる。
 しばらく咽込むのが、止まらなかった。
「はぁ、苦しい。変なこと言わないでください」
「どうして? 大ちゃん、矢神クンのこと好きなんじゃないの?」
「え?」
「違うの?」
 しばらく、杏の顔をまじまじと見てしまった。
「オレ、そんなこと言いましたか?」
 誰にも言ったことのない自分の気持ちを杏が知っている。
 いつ洩れてしまったのか。
 すると、杏は得意げな顔をした。
「言ってないけど、わかるわよ。だって、ウチの店に誰かと二人きりで来たの初めてだよね。大人数では何度も来たことあったけど。あと、アタシが矢神クンの恋人に立候補した時、すごい剣幕だったし、大ちゃんが矢神クンを見る目がもう恋しちゃってる目だったもの。当たりでしょ?」
 全てお見通しの杏に、遠野は何も言えなかった。
「何で、黙ってるの?」
「言うことがないからですよ」
「アタシ達、ライバルね! 負けないわよ」
 楽しそうにブイサインする杏のテンションに、合わせる気力は遠野にはなかった。
「……勝負したくないです」
「何それ、テンション低い、大ちゃんらしくなーい」
 遠野はそれどころではないのだ。
 矢神を好きだということが、そんなにもバレバレなのだろうかと自分の行動を反省する。
 同性を好きなのだから、もっと気づかれないようにしなくてはいけないのに。
「でも、良かった」
「何が良いんですか……」
「大ちゃんに好きな人ができて。もう人を好きにならないのかと思ってたから」
 昔のことを言っているのはわかった。だが、あまり触れて欲しくなかったため、軽く相槌を打つ。
「……そうですね」
「だけど、どうして矢神クンなの? あの子、ノンケでしょ? 好きになるならもっと上手くいきそうな子を好きになりなさいよね!」
「杏さんも矢神さんが好きなんだから、一緒じゃないですか」
 自分のことを棚に上げて、人のことはうるさく言う。
 しかし、杏は平然として答えた。
「アタシは矢神クンじゃなくてもいいもの。ダメなら、次行くわよ、次」
 切り替えの早い杏を少し呆れつつも、羨ましいと思った。
 基本、自分の性格は杏に近いものがあったが、恋愛に関してだけは別だった。
「矢神クンなら、告白しても男はダメーって断わられちゃうじゃない。見込みないわよ」
 今の自分の状況は、杏に言うつもりはなかった。
 だが、矢神のことを好きということが気づかれたということは、すぐにばれそうな気がした。
 迷った末、ライバルだと宣言する杏に白状する。
「……告白は、したんです」
 ぽつり呟くように言った遠野の言葉に、杏は野次馬のように食いついてきた。
「な、なにそれ! 知らない! 聞いてないわよ!」
 杏の目が面白そうだと語っていたが、もう後には引けない。
「この店に一緒に来た時には、もう告白した後です」
「ええ!?」
 杏は大袈裟なほどに驚いている。
「矢神さんに、自分の気持ちを伝えるつもりはなかったんです。だけど、思いあまって告白してしまって。だから、気にしないでくださいって言ったんです」
「え? それで、気にしないで一緒にいてくれてるの?」
「……たぶん、それに今、一緒に住んでて」
 そこまで言うと、急に杏が両手をついて身を乗り出してきた。
「おい! ここに矢神を連れてこい!」
「杏さん、恐いです」
 普段聞いたことのない男らしい低い声に、遠野は若干引いた。
「あたりまえじゃない! 大ちゃんの気持ち知ってて何で恋人でもないのに一緒に住んでるわけ!? バカにしてんのか!」
「それは、オレが住むところなくなったから、しょうがなく置いてもらってるだけで……矢神さん、けっこう面倒見がいいから」
「腑に落ちないわ」
「いいんです。オレは矢神さんの傍にいられるだけで」
「いいわけないでしょ! 好きな相手と一緒に住んでるのよ? こうムラムラこないの?」
 杏は自分の腕を抱き、身体をくねらせた。
「……考えないようにしています」
「もう、いっそのこと襲っちゃえばいいんじゃない? 縛って拘束して、気持ち良くさせたら案外ころっと落ちるかもしれないわよ」
「杏さん、冗談きつい……気まずくなりたくないんです。職場も一緒だし……」
「まあね……ああ! アタシなら絶対に無理。その日に襲ってるわ。大ちゃん、どんだけ我慢強いのよ」
「自分でもそう思います」
 いつの間にか、いい意味でも悪い意味でも矢神の話題で盛り上がる。店内に客がいないということもあり、杏も遠野と一緒になってお酒を飲んでいた。
 明日も仕事だったからほどほどにしたかったが、話のネタがネタだけに、杏はなかなか帰してくれなかったのだ。



「大ちゃんの幸せを願っているわ」
 帰り際、酔っ払って頬を染めた杏がしおらしく言った。
 遠野も少し酔っ払っていたらしく、杏を可愛らしいと感じる。
「杏さんって、そうやって男性を落とすんですね」
「あら、可愛かった? 一晩くらい、いいわよ」
「遠慮しておきます」
「なーんだ。満足させる自信あるんだけど、矢神クンじゃないとダメかー」
 丁重に断れば、杏は明るい声を出したが、本気でがっかりしているようだった。
「じゃあ杏さん、おやすみなさい」
「おやすみ、またね」
 一人でいれば、身体が火照ることもある。
 誰でもいい、一晩だけの関係、そんな愛のない身体だけの関係をすることもできる。
 だけど、できれば避けたかった。
 


 そして、遠野は矢神が待つ家へと帰る。
 とはいっても、矢神が遠野の帰りを待っていることはないのだが。
「ただいま」
 時刻は二十三時を過ぎていた。居間の灯りは点いている。
 ドアを開ければ、矢神の姿はなかった。
 灯りを点けたままで、自分の部屋に行ってしまったのだろうか。
 普段、遠野が灯りを点けたままにしたり、ドアを開けたままにしていたりすると、細かく指摘してくる矢神にしては珍しいことだった。
 そう思っていれば、ソファで横になって眠る矢神の姿が視界に入る。
 テーブルの上には、プリントが何枚も乱雑に散らばっていた。
「矢神さん、またこんなところで寝て……」
 一緒に住み始めた頃は、普段学校で見る、真面目できっちりしている矢神の姿と何ら変わりはなかった。
 だが、しばらくして、遠野と一緒に住むことに慣れてきたからなのか、風呂から上がれば、下着一枚の姿でうろついたり、部屋のベッドでは眠らず、こうやって居間のソファで居眠りして、そのまま朝まで眠っていたりすることもあった。
 もっときちんとしている人なのかと思っていたから、少し驚いたものだ。
 自分の家でくらい、リラックスして過ごすのは当たり前のこと。遠野にも気を許していると思えば喜ばしいことではあったが、こうも隙を見せられると、理性が飛びそうで困ってしまう。
 遠野は矢神の傍に近づき、ソファの前で正座する。
 小さな寝息を漏らしながら穏やかに眠る矢神の顔をしばらくの間眺めた。
 ソファの上で眠る時は、いつも縮こまって小さくなって寝ている。こうやって寝るのが癖なのだろうか。
 触れたい――そんな想いを即座に頭から排除する。
 とりあえず、このままソファで眠らせておくのも可哀想なので起こすことにした。
「矢神さん、ベッドで寝た方がいいですよ」
 静かに矢神の肩を揺らした。
「ん……」
 矢神はソファの上で身じろぎ、うっすらと瞼を開いた。
「遠野? 遅かったな」
「こんなところで寝たら、風邪ひきますよ」
 ゆっくりと身体を起こし、眠そうに瞼を擦りながら矢神が寝ぼけたような声を出す。
「うん……おまえの帰り待ってたら寝ちゃった」
 あまりにも可愛いことを言うものだから、遠野は声が上擦ってしまう。
「待ってたんですか? どうして……」
「ちょっと見て欲しい資料あったんだけど、いいや明日で」
「ごめんなさい、杏さんのところで飲んでて」
「謝ることないだろ……ダメだ、眠い。もう寝る。おやすみ」
「おやすみなさい」
 テーブルの上に散らばった資料を集め、矢神は欠伸をしながら自分の部屋へと戻っていった。
 遠野はソファに頭を突っ伏す。
「びっくりした……」
 心臓が早鐘を打って、壊れるかと思った。
 矢神の口から自分を待つという言葉が出てくるとは思わなかったからだ。待ってくれているのがわかっていれば、早く帰ってきたのに。
 普段は冷たい言葉ばかりだが、なぜか寝ぼけるとあんな風に素直な言葉が出てくることがあった。
 前にも、ソファで眠る矢神を起こせば、遠野の顔を見た途端、「おまえ、きれいな顔してるな」と真顔で言ったのだ。
 たぶん、本人は寝ぼけていてはっきりとした意識がないのかもしれない。
 きれいな顔と言われることは、あまり好きじゃなかったが、矢神に言われると別だ。
 その時も一人平静を失い、うろたえていた。
 どちらが本当の矢神なのか、疑問で仕方がない。
 だけど、冷たいままでいい。
 そうじゃないと油断してしまうからだ。
 いい加減、我慢するのがきつくなってくる――。




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